10.船長さんは海の上
【 おはよう。今朝、小倉の港に着岸しました。関門海峡、夜明けの海上をお届けします。
本日は小倉―松山のため、夜、小倉を出航します。今日、松山の観光港にいる船は、すれ違いで運行している当社のもう一隻で、俺の船ではありません。】
夜が明けそうな海の写真まで送信してくれた。
瀬戸の海がオレンジとパープルに染まる美しさの中、フェリーブリッジの窓からは、何隻もの貨物船や漁船も見えた。
瀬戸内を行き来する船の多さを初めて知った気がした。船と船がぶつからないよう船長さんが気を遣って、乗客と船の運航の安全を守っている仕事だと感じることができた。
松浦船長と連絡先を交換。SNSでも連絡ができるようにしてくれた。
海上だとインターネット通信が出来ないのではないかと思ったが、インマルサット第4世代衛星を介したフリートブロードバンドサービスがあり海上パケットで通信ができるのことで、海上に長くいる船員もSNSなどを楽しめるとのことだった。
そんな船に乗る人にしか見られない海は美しい色合いで、絵を描く梓にはとても元気が出るプレゼントだった。
【 今日は天気がよくないね。雨の日もスケッチかな。気温が下がってきたので、外に出る時は体調に気をつけて。 】
大人の気遣いにも梓は癒されていく。
自分からも一生懸命、船が周りにいっぱいいるんですね。気をつけてくださいね。とか、陸では見られない写真に感動して元気が出たことなどを素直に返信した。
その日はあまり天気がよくなく、船長さんが言ったとおりに雨が降ってくる。古い港に来ていた梓は、最近通い始めた『ダイニングカフェ』に避難する。
今日の港は電鉄で街から来ると、ひとつめの港駅にある。山口宇部の実家に帰省する時に乗船する港。江戸時代から、この城下町の海運の入口だった古い港町。
ランチタイムも終わってしまった時間帯で、窓際の席に座ることが出来た。
港の風景が見えるこのお店はまだ出来て数年の新しいお店のようで、去年帰省する時、フェリーの待ち時間にここで食事をしてから入るようになった。
綺麗なお姉さんと料理人の弟さんとかわいい奥さん、若い家族が若いセンスで経営するお店だと、地方情報雑誌のグルメ特集ページでも紹介されるほどだった。
アップルパイに温かいミルクティーをつける。
このカフェの窓辺を梓は気に入っている。港に入港するフェリーに貨物船、赤と白の縞々のガントリークレーン。こちらは歴史ある古い港なので風情が観光港とは異なる。
ミルクティーを持ってきてくれたお姉さんにスケッチをしてもいいか許可を問うと、快く『是非、うちの窓辺を描いてくださるなんて光栄です』と素敵な笑顔を見せてくれた。
シンプルな服装なのに、綺麗な女性だった。年齢も梓とはそんなに変わらないと思う。梓はどちらかというとふわっとしたロングスカートにニットスパッツに、トップスはシンプルでもパーカーはほとんどで、ガーリーなものが多い。自分の好みも合わせて、顔立ちや体型に馴染むのがそれだった。でも、あんなふうなシャープなスタイルだけでセクシーに見える女性には憧れてしまう。そもそもあんな美人じゃないしと思いつつ、自分がいつまでもどこか子供っぽいような気がして自信がなくなる。学生の時からなにもかもが進んでいない気がしてならない。
雨が降ってきた。海の色がさっと変わる。あんなに青かったのにくすんだグレーになる。白く波立ち、こちらまでざわざわとした音が聞こえてきそうな程荒れてきた。
でも。雨の港も雰囲気がある。この日、梓は雨の港を描く。
一時間もすると完全にお客が去り、梓だけになってしまった。その頃になって急に晴れてくる。その色はもう黄昏。秋の早い夕の色に包まれていた。
雨上がりだから水平線にはまだ渦巻くような黒い雲が見えたが、それすらも夕の色に包まれそう。まだ白波が立っているけれど、海も夕の茜に輝き始める。
「綺麗……」
思わず、それもスケッチする。夢中だった。
「よろしかったらどうぞ。サービスです」
ダイニングカフェ・マリーナの彼女が、梓の目の前にオレンジティーを置いてくれた。
「ありがとうございます。でも……居座っているのに」
「これ、私の休憩用のお茶なんです。売り物ではありませんからお味の保証はありません」
オレンジの輪切りが浮いているアイスティーだった。
「いただきます」
「綺麗ですね。お仕事で描かれているのですか」
「はい。いま依頼を受けている仕事用の絵を描いて集めています」
「雨上がり、夕の港の色合いですね。毎日この窓を見ているので、よくわかります」
マリーナの彼女も海をよく見ている人。だから梓はここでも言ってみた。
「海の表情はその時その時違いますよね。二度と会えない色もあるくらい」
「その通りですね。この港で生まれ育ってよく見てきた色合い、この港そのものがよくわかる絵です」
「ありがとうございます」
やがて海が凪いできて、カモメの鳴く声が聞こえてきた。
黄昏の港を描き納めたころ、テーブルに置いていたスマートフォンから着信音。
【 だいぶ雨が激しく降ってきていたが、どこにいる? ちゃんと避難しているだろうな。慌てて帰ってこなくていいからな 】
気難しくて厳しい先輩からの滅多にないメッセージにビックリしてしまう。
眺めているとまた着信音が鳴った。
【 梓さん、そっちも雨らしいね。濡れたりしていないかな。夢中になっていたり、切羽詰まって描き上げないとと頑張りすぎていないか心配です 】
今度は船長さんからでビックリする。
梓は急いで二人の男性に返信をする。本多先輩にはいまカフェで避難していたが、港の近くだったためスケッチが出来たこと、いまから帰ることを。そして松浦船長には。
【 大丈夫です。古港のカフェで避難してスケッチしていました。いまから事務所に帰るところです。波が荒くなっていますね。出航できそうですか。夜の航行、気をつけてくださいね 】
送信するとすぐに敬礼をしたイラストが送られてきたから、思わずくすりと笑ってしまう。船長さんにぴったりの制帽をかぶった猫のイラストだった。
ダイニングカフェを出て、電鉄の駅へ向かう。雨が上がり、城下町も黄昏色。ずっとひとりでこの街で過ごしてきたけれど、なんだか今日はやさしさに包まれている気がしてならない。
男の人なんてとずっと思ってきた。逆に彼等のプライドが怖かった。でも……。それは梓がたったひとりの男性で傷ついただけのことで、その出来事の後も今も、そして自分とも向きあわなかったからだ。
船長さんが送ってくれる海の色合いを眺めていると、それだけで心が色づく。微笑みが浮かぶ。こんな、優しくて、でも、熱くて仕方のない気持ち、初めてだった。
本多先輩も厳しくてとっつきにくくて、彼に怒られないようにひたすら手伝いだけをしてきたけれど。彼もアシスタントのチャンスを見極めてくれていた。
本当の男のプライドってなに? 自分だけが一番になることではなかった。ちゃんと自分を取り囲む環境と組織を守ることを常にすることができる人たち。
黄昏のスケッチを眺めて、梓は思う。色は移りゆくもの。人も、空も、街も。
「あ、」
急に閃いた。
スケッチを開きたいけれど、高校生の下校時間で乗客が多く車内で描くことができなかった。
事務所に急いで帰り、梓は自分のデスクでイラストを描き始める。帰ってきてもスケッチブックを見せもせずに、なにか没頭している梓に業を煮やしたのか、今日は本多先輩から梓のところにやってくる。
「やっと帰ってきた。どこのカフェにいたんだ」
「古三津のダイニングカフェです」
「ああ、そこな。美味いよな。洒落ているし、俺も休日に行くことあるわ」
彼が梓が描き始めたイラストに気がつく。
「永野、それなんだ」
返答せず、とにかく頭に浮かんだものをすぐに描きだしたくて梓は黙って次から次へと描いた。
本多先輩もそれ以上、声をかけてこない。でもそこに立ったまま、梓が描くのを眺めている。そして梓もそこに彼がいることなど気にならない。
出来た! 覚え書きのような簡易的なイメージだけのイラストだけれど、出来た!
「見せてみろ」
梓の手の下にあるスケッチブックを、本多先輩は引き抜き自分の目線へと持って行ってしまう。
彼が黙って眺めている。そして唸っていた。いいのかな、悪いのかな。安易すぎたかな、それとも、勝手なイメージだったかな。梓はいつもの批評にドキドキしている。
「朝がレモン、昼がピーチ、アフタヌーンがマロン、夕は柚子で、夜がオランジュ」
「時間によって、海の色合いも異なります。窓辺の雰囲気も変わると思います。お茶は窓辺で飲みたいものです。ゆったりと外の空気と色合いと匂いを感じながら。そんなイメージです。あの、『レモンが朝の香り』とかは、私の勝手なものです。あとは真田さんに……」
「おまえ、専用ブース作ってやるから、明日からもう外に出なくていい。ソフトでこれ描き上げろ。パッケージの決定は真田さんとするから、先にイメージラフを仕上げるぞ」
え、専用ブース? いままでアシスタントとして彼のブース近くのデスクで、こまごまとした下準備や彼のイラストの色塗りお手伝いに仕上げチェックばかりしてきた梓にブースデスク?
「琴子と社長に言っておく。明日、デジタルで取り込めるよう下書きを仕上げておけ。いいな」
ようやっと一人前のように専用のデスク、デザイナーブースをもらえることになった! もう喜びたいけれど、あまりの驚きに、梓はうんうんと頷く返事だけしかできなかった。
その夜、彼は出航前で忙しいだろうとこれまで遠慮していた時間帯だったが、梓は思わず船長さんにいちばんに報告してしまう。
【 アイデアが認められました。制作者専用ブースをもらえることになりました! 私専用のブース、デスクです】
もちろん。返答はなかった。
それでもいい。今日は雨が降って止んだけれども、海上はまだ風が残っていて少し波が高いと天気予報で確認していたから。
真っ暗な海へと出航する客船フェリー。灯台もない海を進むのはどうやっているのだろう? 今度はそんな話を聞きたいなと思いながらも、梓も下書きを仕上げることに懸命だった。
夜、就寝する時も返信はなかった。でも梓は逆にほっとしている。なんとなく、船が無事に航行しているのだと思える。彼が集中して、船長の仕事をしているのだと感じたからだった。
翌朝、スマートフォンをすぐに確認すると、返信が来ていた。
【 おめでとう! いま観光港に入港する前です。今日の夜明けです。梓さんも夜明けですね。 】
また美しい色合いの空と海の画像が送られてきた。
【 帰ったらお祝いをさせてください。なんでも好きなものご馳走しますよ、遠慮なく言ってください。 】
いいのかな。ただ入浴剤を渡す約束をしているだけなのに。松浦船長はすごく優しい。こんなの、甘えたくなってしまう。
でも。嬉しいことがあってすぐに彼が思い浮かんでしまった。言いたくて伝えたくて、いろいろなことを彼に伝えたい気持ちも止まらなくなっていた。
もうすぐ彼が上陸する日。梓は待っている。その間は仕事に集中しよう。
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