4.海はトラウマ
島には青い蜜柑に青いレモン。もうすぐ色づいて柑橘収穫の季節がやってくる。
初秋といえども瀬戸内は温暖、今日も青いだけの街の色。そこにもうすぐレモンや橙の色が灯る。
「永野!」
険しい本多先輩の声に、梓は震え上がる。
彼専用のブースから、梓がアシストしているデスクへとやってきた。
「なんだ。このカットは!」
「いえ、あの、思いついたのがそれだけだったんです」
瀬戸内フルーツ紅茶のイメージでなんでもいいから描いてこいと言われて提出したが、やはり気に入らないらしい。
梓のデスクにバンとスケッチブックが叩きつけられる。
「背景がだめだ。描いてこい」
「え? 背景?」
「小物ばっかりイメージが浮いていて、それを醸し出す背景が感じられないって言ってるんだよ! 外に出て描いてこい!」
なんと。事務所から外に放り出されることになりそうで、梓も焦った。
「そんな本多さんのお手伝いもあるのに、ここを放って……」
「いい背景を持って帰ってくるまで、手伝いなんていらない。それに今度手伝うのは俺だ。わかったな。いますぐ行ってこい。十六時には帰って来いよ、いいな!」
ほんとうに外に出されることになった。琴子マネージャーも、三好堂印刷二代目でデザイン事務所も営んでいるジュニア社長も黙ってみているだけで止めやしない。
支度をして外にでかけるまで、梓の後ろでずうっと本多先輩が腕組み仁王立ちで睨んでいて、事務所のドアを開けるまで監視される。
ドアを開けて外に出ると、さらに言われた。
「鉄を描いてきてもいいけれどな。背景も描きこんでこい。伊予鉄道描いても背景だぞ。JR四国を描いても背景だぞ! ANAやJALの飛行機を空港でみても背景だぞ!」
「わ、わかりましたって……」
鉄を描いていいと言われ少し行く場所を決められそうで、梓も外に行く気になってきた。
「それから。港にいけ。海は必須だ。できたら島に行って来い」
港と島。その時、梓の脳裏に『船』が思い浮かんだ。
いってきます――と、ほんとうに事務所から追い出され、港町であって城下町である市内へとでかける。
―◆・◆・◆・◆・◆―
鉄道から始まり、車、飛行機。自衛隊車両、消防、警察車両、なんでも好き。
父は鉄道マニアで、祖父は飛行機マニア。小さい頃、父はよく列車や電車が走るところに連れていってくれた。
祖父は飛行機から戦闘機と辿って、戦闘機が着艦する空母艦も好きだったので、その延長で船艦、船舶も興味を持っていた。
しかし、梓は『海』には苦い思い出がある。
梓も海は好きだ。実家は山口の宇部。大学で広島に出た。ずっと瀬戸内に接して育ってきた。
どんな時も瀬戸内の海が見える。いまもそう。このお城が見える城下町、港町でもそれは変わらない。
広島では就職難で、対岸にある松山市の印刷会社の二代目が経営するデザイン事務所にやっと就職することが出来て、こちらでいま暮らしている。
「海は必須か」
瀬戸内は海、青い空気。わかる。でも梓はあまり海へとスケッチへ来たことがない。
それでも以前は描いていた。大学も芸術系学科の出身。その時、仲間と一緒にあるコンテストに参加した。
呉にある海上自衛隊の護衛艦の写生大会だった。老若男女参加できるほのぼのとした一日限りのコンテスト。でも選ばれると軍艦ミュージアムに展示され、呉や広島の新聞にも掲載されるというものだった。
絵心ある者や護衛艦が好きなミリタリーマニアさん達が集って、楽しく写生するイベント。
しかし芸大仲間達はそれを生業にと夢見ているものだから、なんとか小さくてもいいから実績が欲しいと真剣だった。小さな賞でも就職の時に履歴書に書ける、有利な経歴になると思っていたのだ。それは梓もおなじく。
だから皆で参加した。その中に、当時、付き合っていた彼がいた。彼は学科の中ではセンスもあり描くのも巧いと一目置かれる存在だった。
芸術学科の学生はみな彼に憧れていた。高校の頃から県美展でも毎年賞をもらっている経歴もあり、大学の教授達も彼の課題作品はいつも手放しで褒めていた。
そんな将来有望の彼に梓は見初められた。『乗り物の写生、巧いね。でも女の子らしさもあって親しみやすくていいね』。彼との芸術の話は尽きなかった。乗り物の話もよく聞いてくれた。女の子が乗り物好きだなんて、ガールズトークではどうしても話題に出来なかったから、梓も聞いてくれる人、話がわかる人と恋人になれて嬉しかった。
しかし。その護衛艦写生コンテストで、彼ではなく梓が大賞を取ってしまったのだ。
巧い彼がいたため、受賞など自分にはあり得ないと思っていたから気楽に描いた。それが良かったのか受賞してしまった。
ささやかな短期間のミュージアム展示だと思っていたが、大学の学報に掲載されたことで思った以上に知れ渡る状況となった。暫くは教授たちや理事会に労われたりして持て囃された。もちろん同級生達や先輩後輩からも。
やがて自分が賞賛されているそばにいる彼の様子が変わってきた。学部の同級生たちの『彼は受賞できなかったんだ』と囁く声が聞こえるようになった。
たまたま、ほんとうにたまたま。のびのび描いただけのことだったのに、恐らく『本気だっただろう彼』を苦しい立場に追い込んでいることに気がついた。
最初は気にしないとばかりに梓に『おめでとう。乗り物と梓はやっぱり通じているんだな』と一緒に喜んで祝ってくれていた彼が、梓を避けるようになってきた。
そこからぎくしゃくして、それほど器用な女の子でもない梓がもたもたしている間に別れてしまった。
翌年に始まった就職活動で、梓は護衛艦写生コンテストで受賞したことを大々的にアピールすることができなかった。とても苦しかったから……。
だけれど、別れた彼は堂々と広島の大手広告会社に就職することが出来た。梓の内定がまったく決まらないうちに。
その時の彼の勝ち誇った顔が忘れられない。『ほらな。おまえはまぐれだったんだよ。これが実力だ』。その目はもう、梓を恋人として甘く接してくれた男性ではなかった。敵意だった。
そんな男の気持ちとプライドに押しつぶされそうになりながらの就職活動は上手くいかなかった。
実家がある地元でデザインの仕事を探そうと思ったら、都市部の広島より困難。その広島でなかなか就職が決まらないと思っていたら、瀬戸内海を隔てている松山市の小さなデザイン事務所がイラストレーターを募集していた。
そこに掲載されていたパッケージデザインに惹かれた。広島よりは規模が小さな中核都市。でもそこにこんなデザインをする人がいる会社がある。
地元に帰る気もなく、広島では苦しい思いを抱えたまま。心機一転、梓は対岸の街へ移転する決意をする。
穏やかな面接の後、あっという間に採用された。イラストを見てくれた二代目の三好ジュニア社長と琴子マネージャーと、そして本多先輩の意見が一致したとかで採用してくれたと聞いている。後に、梓がイラストレーター募集の求人広告でみたパッケージデザインは、本多先輩がデザインしたものだと知った。
そんな経緯で、いまこの城下町で生活をしている。
そして乗り物は好きだけれど、ある意味『船舶』はトラウマ。ほかの乗り物と比べたら後回しになったり、どんな鉄の塊なのか興味が湧いても、苦い思い出も一緒に湧いてくる。
それを知ってか知らずか、本多先輩が最後に『港に行け』と念を押したのも気になる。
事務所から少し歩いたところに、郊外電車の駅がある。
小さなホームに立っていると踏切の音。のんびりとしたスピードで到着したオレンジ色の車両が梓の目の前に停車する。
乗り込んで、シートに座って、梓は唸る。
「背景か……」
瀬戸内フルーツ紅茶。オランジュ、レモン、柚子。マロン。ピーチ。愛媛のフルーツが特徴。
どれもこれも『瀬戸内』と来れば、島や海がイメージしやすいに決まっている。
「市駅で降りて市電を描くとか、道後温泉に行って本館と坊ちゃん列車とか……描きたい……」
ほら。あそこ、松山城とお城のお堀とオレンジ色の路面電車が見られるアングルのあの場所でもこの街らしいじゃない! ようし、今日はあそこで描いて気分を持っていこう!
いつもの梓ならわくわくして迷わずそこへ行く。
電車がそろそろ松山市駅に近づいてくる。
「うー、違う!」
わかってる。梓ももうわかっている。今回の依頼、デザインには『海が不可欠』だ。瀬戸内とくれば瀬戸内海! 避けて通れない。今日避けて事務所に帰ると、本多先輩にどやされる気がする。『おまえ、真に受けてほんとうに鉄だけ描いてきたのか。おらあ!!』。
「こわ、絶対怒る! あの人怒らせたら面倒に決まってる!」
松山市駅、松山市駅。車掌のアナウンスが流れる。
城下町、いちばんの中心駅に到着した。ここで降りてコンコースを抜け横断歩道を渡れば、もう目の前は路面電車乗り場。坊ちゃん列車が到着、出発する場所。路面電車に乗れば道後にも行けるし、JR松山駅にも行ける。
しかし発車のメロディが聞こえてきた。梓はシートに座ったまま。
ピーッ! 昔ながらの車掌のホイッスルの音、シュッとドアが閉まった。ゆっくりと立ち上がるモーター音、電車が走り出す。
松山市駅で梓は降りなかった。そう、このまま乗っていれば終着駅は『港の駅』。港が幾つか連なる海岸線へと向かう。
「降りられなかった……」
海に行かねばならない。仕事だから向かおう。
いきなりきたプレッシャーあるオーダーだけれど、だからこそ逃げられない。逃げたくない……。
あの時。どうして自分にも彼にも遠慮してしまったのだろう。
ぐずぐずした梓の態度が、大人になった梓には最大の後悔でもあった。あの時の自分をぶん殴りたい。
遠慮していた自分はきっと、さらに彼を侮辱していたに違いない。いまの梓はそれに気がついたから。
だからもう逃げたくない。
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