30.あの海の色を探そう

 今後のことはまた連絡する。

 それだけ言い残し、ほんとうに里見氏が店から出て行こうとした。

 店のドアについている鐘がカランコロンと鳴る。スーツジャケットの裾を春風にひるがえす後ろ姿に迷いがなかった。

 圭太朗も茫然としている。梓もこれからどうなるのか、よその家庭ながら案じてしまう。

「待ってください!」

 追いかけていったのは、圭太朗だった。店の窓ガラスの向こう、圭太朗が里見氏を呼び止め捕まえたところ。

 男同士でなにかを言い合っているのが見えた。その光景にも梓ははらはらするしかない。助けを求めるように輝久叔父を確かめてしまう。

「あれも必要でしょう。十八年前にああなるべきだったんだよ」

 梓の手元に小さなチョコレートの小皿が差し出された。

 いつも店にいる時のように白シャツに黒いベストとスラックス、そして長いソムリエエプロンをしている叔父が颯爽とカウンターを出て行くと、テーブル席でうつむいたままの菜摘にも同じチョコレートを持っていった。

「どうぞ」

 彼女が長い髪の中から顔を上げる。

「当然の報いだとお思いでしょう」

「十八年前にあるべき姿だと思っています。ですが時が流れているので、十八年の間にあなたが得たものによって、もうあの時に得られるはずだったのに得られなくなった結果もあるのではないでしょうか」

 叔父と菜摘の会話に気を取られていたら、梓が次に外の男ふたりに視線を向けた時には、もうそこにいなかった。

 驚いてカウンターの席を降りて、ドアを開け、路地の向こうまで彼らを探したがいない。

「おじ様、圭太朗さんが……」

「ほうっておきなさい」

 そして輝久叔父が梓にも真顔で言った。

「先に帰っていなさい。大丈夫だよ。圭太朗は帰ってくる」

 それは信じている。梓はまたドアの向こうへと顔を出してみた。

 その後ろにバリスタ姿の輝久叔父もやってきたが、梓が握って離さないドアノブを持つ手の上から握ってでも、ドアを閉めてしまう。

「菜摘さんは私が見ているから。圭太朗が新しく始めようとしている場所で迎えてあげてほしい」

 梓と住もう、暮らそう、もう一度ここから始めようと決意をしてくれた圭太朗の港の家。そこに帰ってくるから迎えてほしいとおじ様はいう。

「わかりました。待っています。ご馳走様でした」

 食べられなかったチョコレートをおじ様が包んで持たせてくれた。

 梓はひとり、歩いて駅まで向かい、ひとりで電鉄で港まで帰った。

 穏やかな春の陽だまりに包まれる、穏やかな電車のなか。桜の花びらがひらひら散っているのが見える。

 その後、里見夫妻と圭太朗がどうなったかわからないまま。梓は十八年前の空気から、ようやっと自分の世界に戻ってきたような気持ちになっていた。

 そう、私はあの港の家で待っていよう。オレンジの匂いがする、海と船が見えるあの場所で。

 あそこがいまの彼の場所のはずだから。


 


「ただいま」

 彼が帰ってきたのは夕方だった。

 リビングのソファーで黙々とスケッチをしていた梓は玄関まで迎えに行く。

「おかえりなさい、圭太朗さん」

 梓の顔を見るなり、彼の表情が哀しそうに崩れた。

「ごめん、梓を……ひとりにしてしまった」

「ううん。ひとりにされたなんて思っていないよ」

 あなたは十八年前に決着をつけに行ったの。そしていま、私のところに戻ってきたの。それだけで。

 梓から彼に抱きつくと、彼から笑みがほころぶ。彼も梓を抱きしめてくれる。

「里見さんは?」

「東京に帰ったよ。子供達が待っているから。空港まで送ってきた」

 梓はそれ以上は聞かなかった。圭太朗も言わない。

 夕の陽射しが入ってくるリビングに寄り添いながら戻る。

「クラムチャウダー作るよ」

 上着を脱いでエプロンを手にした圭太朗が笑う。梓も『うん』と微笑む。

「まだ霞んでいるな。海」

「そうだね。黄砂が飛んでくるって天気予報で言っていたもの」

 それでもいま一緒に住んでいるここで、新しく住み始めたここで、霞んでいる海を一緒に見つめていられる。

 雨が降れば霞がなくなり、澄んだ瀬戸内海が見えるようになる。それまで。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 里見氏は子供が待つ東京に戻ったが、また話し合いに来るとのことだった。

 話し合いとは妻との話し合い。圭太朗にはもう関わらないという約束になったとのこと。

 圭太朗はもう気にならないのだろうか?

「俺の中ではもう終わっているんだよ。終わっていないのはあちらのほう。十八年、時を止めていたんだ。俺の場合は時は進んでいたからまともに現在に来たけれど、向こうはいま動き出したからな」

「もう、会わなくていいの?」

「うん。俺と会ってなにを話すんだ? 菜摘に言いたいこと、伝えたいこと、いまの俺の気持ち、あの時の気持ちも伝えた」

 だから終わり。あとはあちらがなんとかするだけ。そういって、圭太朗はもう何も言わなくなった。

 里見氏と何を話したなどは言わない。男同士、初めて向きあって何を話したのだろうか。

 梓自身はどこか釈然としなかったが、当時の当事者である男女三人の間に入れるわけも、何かが言えるわけでもなかった。

 それから静かになった。輝久叔父からも特に里見夫妻に関しての連絡は来なかった。珈琲を飲みにおいで、仕事でまた三好堂の事務所に行くよ――そんな連絡だけ。

 そうしているうちに、あっという間に彼の休暇が終わってしまい、また出航の日が来てしまった。

「じゃあな、行ってくる。なにかあれば叔父さんを頼るように絶対だからな」

「もう~、また。顔、怖いよ」

 お父さんでもそんな怖い顔しないからというと、船長制服姿の圭太朗がハッとして自分の頬を撫でている。

「もう関わらないという話だったけれど……。ほら、まだ、そこの商店街にいるんだろ。俺がいない間になにか接触があっても……」

 まだ菜摘がすぐ近所の商店街で働いているのを確認しているので、留守の間に梓と接触されないか案じているようだった。

「大丈夫だよ。困ったことがあったら本当に叔父様にすぐ連絡する」

 それに……。梓は最近思っている。菜摘さんはそんな悪い人ではない。ただ、圭太朗のことになると精神が崩れてしまうだけ。それでも梓自身が圭太朗の恋人だから彼女にとっては精神的によくない人間にはなるのだろう。

 おかげで、時々通っていた定食屋さんに行けなくなってしまった。

「幾つか惣菜を作り置きしておいたから。また〆切残業で遅くなった時にきちんと食うんだぞ」

「はーい」

 毎度のパパみたいな言い方に、梓もつい子供っぽく返してしまった。

 なのにもう出掛けなくてはいけない時間になった圭太朗が、船長の制服姿で梓を優しく抱きしめてくれる。

「昨夜も……、よかったよ……」

 黒髪を撫でてくれる彼の胸元で、梓もそっと頬を熱くした。

 帰港した夜からずっと。男の身体を取り戻した圭太朗となんどもひとつになって愛しあった。

 ずうっと溜めていただろう男の熱を梓になんども注いでくれた。梓もそれまで苦手だったのが嘘のように、思うままに女になれた。

 そこに、里見夫妻のことも、別れた妻が圭太朗のことを思い出して会いに来たことも。もうなにも感じていなかった。

 ふたりだけ。いまもこれからも、裸になっているいまその時も誰も間にはいなくて、ふたりだけ。

 そんな夜をあれから毎晩過ごしてきた。

 だから。彼をまた見送れる。

「いってらっしゃい」

「うん」

 彼が背を向けたが、立ち止まり振り返った。

「梓」

 その顔が、すこし緊張しているように見えた。

「宇部に行ってみたいと思っているんだ」

「え……?」

「あ、いや。もちろん、ご挨拶もしたいと思っている」

 両親に紹介して欲しいということらしい。それは嬉しいはずだけれど、思わず、梓は戸惑ってしまう。それはいつまでも梓のことを『女の子』だと思っていて、鉄道のことばかり考えている父や祖父がどう感じるかと思ったから。

「いいけれど……、父はまだ私のこと……。驚いちゃって、隠れちゃうかも」

「お父さんがまだ無理そうだったら別にまだ先でも俺は良いよ。俺が行きたいのは……」

 背を向けてい圭太朗が、梓へと向き直る。黒目が綺麗に光っている。

「どんな海の色なんだ。梓がよく言っている、綺麗だった宇部の海の色――。それを見てみたい」

 梓の実家へと行きたい訳が、海の色。しかも梓がいつも心の奥底に秘めている、イラストを描く時の原動力のような『忘れられない色』だった。

「梓のイラストを見ていると、最近よく思うんだ。どんな色を見て、梓はイラストを描くためにこの城下町にやってきたのかと――。俺のところまで連れてきてくれた色だよな」

「常磐の海……だよ」

「仕事で使っていないスケッチの最後のページに、海の絵があったよな。あれだろう」

 そんなこと教えていないのに。忘れられない海の色があるという話をしただけで、圭太朗は梓の心を映したものを見つけてくれていた。

「俺も、あれを見てみたいんだ。ダメかな」

「なんの、ために?」

 本気でわからなくて、梓は船長姿の彼を見上げてしまう。

「俺の船と海を梓は見てくれたから。俺も、梓が大事にしている色を見たいんだ」

 それは。愛していると言われるよりも、梓にとっては嬉しいこと。涙が滲んできた。

「でも。私も……一度見ただけで、二度は見ていないんだよ」

「季節と潮と太陽の光加減、天候。わかるよ。俺だってほとんどを海上で過ごしていて、同じ場所でいつも海は違う色と姿を見せる」

 それでも。その海を見てみたいと言ってくれる。

「だからこそ。梓と一緒に行って見てみたいんだ。二度とその色に出会えなくても、俺はその色を探すよ」

 圭太朗さん……。彼の制服の胸に抱きついて、梓は泣いた。

 もう。なにも怖くない。

「じゃあ、またな。行ってくる」

 濃紺の制服、袖口には四本の金ライン。制帽をかぶって彼がでかけた。


 

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