27.春の夜風とムーンライト

 もうすぐ圭太朗が帰港、上陸する日。

 彼の休暇中の土日を使って、里見夫妻が面会を求めてきた。

 圭太朗は【 会いたくない 】と言っている。真田の叔父にもその気持ちは伝えていた。

 輝久叔父とは梓もこまめに連絡を取るようになっていた。『私もおなじ気持ちです。代理に弁護士を立てようとしているのですが、あちらのご夫妻がこのままでは記憶を戻した妻が終わることが出来ず、家庭の中も荒れてしまうので困ると言っている。私も腹に据えかねていますが、十八年の間、圭太朗がひとりで心の整理をつけるのにどれだけ時間がかかったかを知っているため、早く終わらせるためには面会したほうがいいのではないかと――不本意ですが圭太朗に勧めているよ』と教えてくれた。

 梓さんはどう思うかな。輝久叔父の問いかけに梓は『圭太朗さんの気持ちが第一。どうしても会いたくないならとそっとしてあげてほしいです。あちらのご夫妻のことなど私には関係ありません』、きっぱりと本心を告げた。輝久叔父がいう『早期解決』を望むなら、面会するのがいちばんというのは梓もわかる。本当はそれで早く決着がつくなら、梓も『会ってみたら』と圭太朗に言いたい。でもそれがすごく『軽い』ような気がした。こんなことから早く開放されたいのは梓の気持ち、でも圭太朗はもう『思い出したくないし、会いたくない』。また十八年前のあの時点に戻って怒り狂ったり腹を立てたり泣きたい気持ちになるのが、とても気力がいることなのだと思えたから。軽く勧められない。

【明後日、船長交代が夜になるけれど帰港するよ。はやく梓に会いたい】

 松山―小倉を航行している夜間に、遠い灯台の上に月が輝いている画像を送ってくれた。

【 宇部のあたりだよ 】

 梓のことを思ってその画像を送信してくれる。それだけで……。彼の広いベッドひとりでも、顔がほころぶ。心が安らいだ。

【 お魚の煮付け、頑張っているんだけれど。圭さんの味に近づけないの 】

【 帰ったら特訓かな。と言いたいけれど、そんな無理しなくていいんだって。俺が作れない若い料理を食べさせてよ 】

【 ラタトゥイユのパスタとか 】

【 いいなあ。あ、でもいまアサリが美味い季節だから、ボンゴレもいいな 】

【 アサリなら、圭さん特製のクラムチャウダーがいいな。ほんっとにおしいかったんだもの 】

 じゃあ、帰ったらつくってあげるな――と返信が来て【 ごめんね。やっぱり圭さんのお料理になっちゃうね 】と笑いあうメッセージのやりとりになった。

 あれから半月、二度目に菜摘が梓の目の前に現れてからなにもない。東京からまたふっとやってきて、あのまままた帰ったのだろうか。妙に静かに帰ったことが梓には気にはなっていたが、あれから無事に圭太朗の航海が終わりそうでひと安心しているところ。

 一見、日常に戻っているのに、どこかひっかかる毎日は消えていない。


 電鉄の駅にある桜の枝先に蕾がついた。

 デザイン事務所の仕事はゴールデンウィークと初夏の商戦オーダーへと移っていく。

「永野。次はこれだ」

 本多先輩に来たオーダーを少しずつ振り分けられるようになってきた。

 だが、今回は違うようだった。

「三好社長が依頼を受けて先方と話し合って獲得してきたオーダーで、おまえをご指名だ」

「え、わ、私を直接……ですか?」

 そうだと本多先輩が真顔で頷いた。

「新しい地酒のラベルとパンフレットだ」

「地酒、ですか?」

 普段あまり飲まないものだったため、若干怖じ気づいてしまう。それでも本多先輩が淡々と進めていく。

「永野のような女性がそう反応するからなんだろうな。オーダーは『若い女性向け、もっと地酒をワインのように身近に選んで欲しい。できればネットで全国発信したい』とのことだ。『真田珈琲、瀬戸内フルーツ紅茶』のパッケージを三好社長が見せたら、おまえに是非とのことだったらしい」

 今度は商品についての印刷物一式、しかも梓指名の仕事がついにやってきた!

「真田珈琲の新商品パッケージという実績ができたんだ。これから、真田の商品をやってくれたデザイナーならとおまえにもこうしてやってくる。いろいろアンテナ張って、ネタをためておけよ」

 『鉄以外にな』と本多先輩にまたくどくどと釘を刺された。

 高知に近い石鎚山にある『高原の村』、そこの小さな酒造からの依頼だった。

「こちらも、瀬戸内や石鎚山、高原などのムードと、女性ウケがいいものにしてほしいとのことだよ」

「わかりました。イメージラフから作ってみます」

 はあ、今度は石鎚の高原までスケッチかな。どうやって行こうと考えてしまった。

「ま、自由にやってみな」

 最後はさらっとオーダー票を渡され、本多先輩も自分の仕事に戻っていった。

 その背に、梓は密かに礼を言う。ほんとうに素晴らしいセンスの先輩に出会えたこの幸運と、気難しいけれど孤高のプライドでの指導をしてくれたことを。

 はああ、どうしよう。また緊張してきた!

【 圭さん、どうしよう。ご指名のお仕事来ちゃった。今度は商品関連の印刷物一式! 】

 ランチの時に思わず、メッセージを送ってしまう。小倉で仮眠を取っている時間かもしれないけれど、送ってしまった。

【 凄いじゃないか! おめでとう、梓。やっぱり帰ったらお祝いを盛大にしなくちゃな 】

【 圭さんと静かにふたりでしたいよ。クラムチャウダー、食べたい 】

【 わかった……。他にもなにかご馳走を考えておくな 】

 もうそれだけで涙が出そうだった。

 ランチを取っているカフェの窓辺、そこにも桜の枝先。もうふくらんでいて開きそうだった。

 少し前まで、梓は独りだったし、ただただアシスタントをするだけの日々に悶々としていた。でも、私もこうしてふくらんでほころんできたのかな。ためてためて、何日も何年もためて、そうしてある時期が来るとぱっと開く。仕事も恋もいま色づいて花開く。きっとなんでもそうなんだと思いたくなる季節だった。

 またスケッチブックにアイデアを書き殴る日々が始まる。

 酒造がある村のことを調べ、どのような風景のところか調べることから始めた。

 休みの日にそこまでどうやったら行けるかなどを調べていると、三好社長が『次の話し合いの時には永野も一緒に連れて行ってやるよ』と言ってくれた。酒造のご主人も梓に酒蔵や商品を見て欲しいと言っているとのことで、現場スケッチはなんとかなりそうだった。

 ひとりの時間は、新しい仕事の支度に没頭することができた。


 


 彼が帰ってくる時は、オレンジバスソルト。

 あなたの肌の温かさと、汗の匂いを思い出して。ひとりきりの時もオレンジの湯気の中でひっそり感じ取るの。

 待ってる。じっと待ってる。ひとりでもちゃんと、自分のことは自分で頑張れるよ。

 でもね、帰ってきたら、帰ってきたら。お願い。


 


「ただいま」

 花の匂いがする夜風がベランダから入ってきた時。玄関から彼の声。

 リビングのソファーで、濡れた髪の毛を乾かしていた梓は駆けていく。

 玄関には袖に金の四本ラインがある紺色ジャケットの制服姿の彼が靴を脱いでいるところ。

「圭さん……」

 別れた妻が彼を思い出し、急に訪ねてきたあの朝からやっとの再会。

 彼も梓を見て微笑みを見せてくれたが、梓と目が合うと急に真顔になった。

「ありがとう、梓。俺を船に乗せてくれて、航海をさせてくれて」

 あんなことがあってもいつもどおりの船長業務を全うできた。梓のことも心配してくれただろうし、ふたりの新しい生活を乱すような出来事が起きて、陸にひとり残された彼女の心情を無視するかのように仕事をしたことも気に病んでいないはずがない。それでも、何事もない顔で運航するのが彼の使命。

 玄関にあがった彼が黒いカバンを床に置くと、まっすぐに梓へと向かってくる。

「梓、待っていてくれて、ありがとう」

 ぎゅっと抱きしめられる。その力がいつもよりも痛いくらい強い。

「おかえりなさい、圭さん」

 大丈夫だったよ。私、寂しい時もあったけれど待っていられたよ。だって圭さんちゃんと帰ってくるとわかっているから。言葉にならなくて、ただ制服姿の彼に抱きついて、その胸に顔を埋めた。

「ごめん、あのまま置いていって」

 彼の胸元で梓は首を振る。

「ごめん、ひとりにして……」

 顔を見せてくれと、胸元でずっと首を振っている梓の頬を彼の大きな手が包みこむ。

 上を向いて、梓もやっと圭太朗の顔をじっと見つめる。彼も泣きそうな顔をしていた。

 梓の目を見つめている彼の眼差しが怖いほどまっすぐ。梓の額の黒髪を、よく知っている彼の指先が左右に分ける。梓も目をつむった。大好きなキスがおでこに熱く落とされる。愛されているとかんじる、いちばんのキス。

「また、オレンジの香りがするな」

「うん。好きでしょ、この匂い」

「ああ、好きだ。梓の匂いだ」

 今度は自然にふたり揃って目をつむって、お互いの唇が近づく。久しぶりに交わる男と女の体温を舌先で感じて、彼の男の味を確かめる。

 玄関での長いキスがいつまでも終わらない。二十日間、離れていたぶんの思慕が絡み合って離れない。

 唇が離れると、制服姿の圭太朗が梓の腕を掴んでひっぱりはじめる。強い力でぐいぐいと家の中、リビングへと連れて行かれる。しかしそこでも圭太朗は立ち止まらない。そのまま奥にある彼のベッドルームに連れて行かれた。

「いま、やりたい」

 あからさまに呟いた彼の言葉に、梓はギョッとする。帰っていきなり『やりたい』なんて、男の勢いを押しつけてくれるような人じゃない。

 まだ灯りもついていないベッドルーム、ベランダから春の月が見えていた。ジャケットの金ボタンを外し、勢いよく紺のジャケットを脱いだ圭太朗は月光に照らされているシーツの上へと放り投げる。

 ジャケットを脱ぐと、黒い肩章が突いている白シャツになる。その姿で、戸惑うまま側にいる梓に圭太朗が抱きついてくる。

「梓、あずさ……」

 洗ったばかりの黒髪へと彼が頬をうずめ、大きな手でかき乱す。その匂いを吸い込んで、もう彼は月の光に連れて行かれたようにして恍惚としていた。

「また、俺が帰ってくるのに合わせて……、オレンジの匂いにして」

 おかえりの儀式のようにして、梓はこの匂いを纏って彼の帰りを待ちかまえている。黒髪も肌も綺麗にまっさらにして、オレンジの匂いを染みこませて。その匂いに彼が酔う。酔った男は思うままに女を抱く。

 彼の息づかいが荒くなり、『梓も脱いで』と熱い息で耳元に囁かれ、耳元に優しいキスをしてくれる。それだけで梓も恋い焦がれていた胸が張り裂けそうになって、白いシャツ制服の圭太朗の肩に抱きつく。

 それが合図とばかりに、圭太朗にベッドの上に押し倒された。梓は風呂上がりで薄い部屋着、一枚脱いでしまえばもう下着しかない。身体から取り払っているその真上にまたがっている圭太朗も、寝そべっている梓の目の前でベルトを外した。そこで見えたものに梓は思わず『あ』と声を漏らしたくなって、でも息をひそめるようにして飲み込んだ。

 彼が『いま、やりたい』と早急に男になった訳を知る。

「凄く、愛したい、今。今なら梓と……」

 白いシャツも脱がず、圭太朗が素肌になった梓に覆い被さってくる。でも梓もそのまま真上にきた圭太朗の首に抱きついた。

「圭、圭さん。私の圭さん……、どこにも行かないで」

 目の前に彼の顔がきて、梓からキスをした。もう経験不足な女の子の拙いものではない、待つ女の渇望を注ぐ吸いついてしまうキスを施す。梓のキスが巧くなっているといいながら、彼も梓のくちびるを深く吸って濡らしていく。

「脱いで、圭さんも……、肌……重ねて」

 制服姿の船長さんにこんなふうに愛されるのも素敵だけれど、やっぱり皮膚と皮膚が密着する熱を感じたい。梓からシャツのボタンを外して、男の肌を探した。

 やっと現れた男の皮膚に、梓も唇を這わせて愛した。圭太朗の肌はもう汗ばんでいて、梓が最近覚えてしまった男の匂いがする。そして髪からは潮の匂い。

 待つ女の渇望に愛撫された男も、船では秘めに秘めていただろう渇望を爆発させている。男の大きな手で梓の肌の柔らかさを掴んで堪能している。

「梓……。オレンジを食べているみたいだ」

 お互いの唇は常に相手のどこかを愛撫している。目があったらキスをして、熱い手も彼の彼女のどこかを愛している。愛して、愛撫して、キスをして、そして……。圭太朗が梓の中にはいってきた。

「あっ」

 梓は思わず声をあげてしまった。

「け、圭さん……、す、」

 凄いと言いそうになって、もう声にならなかった。

 肌を愛したその果てに、彼が自然と梓の中にはいってきて、いま、ひとつに繋がっている。男の厳つさ、堅さに、強めの激しい声が出てしまう。いつもと違うのは、梓の中にはいってきた男の激しさだった。

 梓、梓――。白いシャツを羽織ったまま、胸元をはだけさせている男が、梓の真上で懸命に動いている。恍惚とした眼差しは熱く、梓の目と唇、時には乳房を見つめて、でも男の欲望を滾らせた律動を繰り返している。

「あ、凄いよ、圭さん……」

 涙が出そうだった。彼が健全な男の身体で愛してくれている。彼がいろいろなものを取り戻したんだという嬉しさと、身体の奥底から込みあげてくる女の熱にうかされる涙が混じっている。

「こうやって、抱きたかった、ずっと」

 それが叶ったといいながら、圭太朗も思いの丈を梓の肌にぶつけている。

 いままでは、ひとつになれても一瞬だけ。それでも幸せだった。でも今夜は熱い、ずっと熱くて、どこかに弾け飛んでしまいそう。

 弾けたら、あの月の光の粒になって吸い込まれてもいい。

 こんなの初めて……。別人みたいになる男の人が怖かった行為だったのに。

 潮の匂い、汗の匂い、海の匂いを纏って帰ってきた男が愛してくれているその姿に梓はうっとりしている。

 愛しているってこいういことだったんだと初めて知った。

「好き、圭太朗さん。圭……、素敵、愛してる」

 梓ももう我を忘れるように呟き続けた。

 


  まだ春の夜風は、夜更けになるとひんやりしている。

 それでもベッドで汗を滲ませ抱き合っているふたりには心地良いものだった。

 彼が初めて、梓の中で果てた。キスをしてその余韻を、ブランケットに一緒にくるまって感じ合っている。

「梓のおかげだ」

 男の胸に、彼女の黒髪の頭を抱き寄せて、少し息を整えている彼が幸せそうに微笑んでいる。

「素敵だった。私、忘れない、今夜のこと」

「よかった。梓に怖かったと言われたらどうしようか……と思うほどの勢いでやっちゃったかなって」

「もう、女の子じゃないよ」

 学生時代の気持ちのまま、とりあえず大人になった去年までの自分じゃない。

「私も圭さんのおかげ」

 大人の女として変わっていく自分を感じている。いままで『男の人と一緒にいることがそんなにいいこと?』と思っていたものが全て『素敵なこと』に変化していた。

「そうだな。梓、色っぽくなったな」

「そう?」

「でも、普段はまだまだかわいい女の子だよ。なのにな、薄い部屋着になったり、この家でくつろぐ梓は急に色っぽい顔つきや姿になるもんだからたまらないんだよ」

 胸元に頬を寄せている梓の頭を、圭太朗はずっと愛おしそうに撫でてくれている。

 梓の耳元で、満足そうに笑っていた彼が急に声をひそめた。

「圭太朗さん?」

 彼の顔を確かめると、また苦悩を思わす表情に変化していた。

「梓、……会おうと思う」

 なんのことかすぐにわかり、梓はハッとする。

「会って、今度こそ終わりにする」

 海上にいる時は【会いたくない】とつっぱねていたのに。

 別れた妻に会う決意を圭太朗が口にした。


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