12.恋の匂い
週末。梓はこんな日なのにスケッチ片手に、カバンには画材を入れ、いつもの格好で出掛ける。
そもそも男性のことを避けて過ごしてきたから、普段気に入って着る服しか持っていない。
彼は港町から、梓は逆に街を通り越した郊外から、お互いに中心街にある城山地区へと向かうことになる。
いつものオレンジの電鉄に乗り、路面電車に乗り換えてお城山へ。爽やかな秋晴れ、今日は城山の天守閣がいつもより青空に白く映えていた。
歴史ある松山城の麓にある繁華街もまた、この城下町で長く親しまれてきた街だった。
大きな通りの商店街から少し入った路地に、真田珈琲本店がある。古き良きカフェの佇まいをそのまま残し、今日もガラス窓から見える店内はお客様がくつろいでいる姿。そして、店先に差し掛かっただけで珈琲のいい香りが漂っている。
ガラスがはめてある木枠のドアを開けると、昔ながらの鐘がカランカランと鳴る。
カウンター席にバリスタがいて、梓はホールスタッフにお好きな席へどうぞと案内をされ、そのまま奥に進んで彼を探す、或いはいなければ窓際のお城山が見えるテーブルに座りたいなと思いながら……。
「梓さん」
いた。白いポロシャツにデニムパンツ。そして梓のように彼も今日はシンプルなパーカーを着ていた。
「おかえりなさい。松浦さん」
「梓さんも、頑張ったね」
優しく笑ってくれただけでもう……、その大人の眼差しと落ち着きに梓は安心してしまう。ひとりで頑張ってきたなにもかもが、ふわっと包まれてしまうようだった。
彼の向かいに梓も座ると、タイミングを伺っていたスタッフがやってくる。
「いらっしゃいませ」
女性のホールスタッフではなく、白いシャツ、黒いベストに足首まである長い黒エプロン、バリスタ姿の男性。その男性と目があって、梓はギョッとする。真田社長だった。
「あ、しゃ、社長。お、お邪魔いたします」
まさか社長自らホールにでているとは思わず、クライアント社長のため、梓は思わず席から立って深々と挨拶をしてしまう。
「いらっしゃいませ。永野様。困ります。ここではあなたのほうがお客様ですよ。来てくださって嬉しいです。どうぞ、ごゆっくり」
いつも怖い顔をしている狼社長さんが、ここでは柔らかなニヒルな微笑みを見せてくれた。でも、その柔らかい微笑みが船長さんとそっくりで、梓は釘付けになってしまう。
「おい、圭。どういうことなんだ。あとで聞かせてもらおうかね」
バリスタ姿の社長が、甥の船長さんにこそっと囁いた。でも甥っ子の彼は叔父に女の子との待ち合わせを見られても余裕げ。
「俺のプライベートだから関係ないでしょう。それに俺も客で来ているんだけれど。客にプライベートの詮索するんだ? 俺がいま甥っ子だというなら、タダにしてくれるのかよ、社長さん」
「タダで飲みたいなら、裏の事務所を訪ねて飲め。その時は自分で淹れろよ。ここに座ったなら客と店の者だ」
「真田さんー、すげえ怖い顔。他のお客様に見られちゃうよ」
甥っ子がにんまりとからかう笑みを見せると、あの真田社長のほうがハッと我に返り、にっこりとした微笑みに整えた。それを見た梓は逆に、プロ根性の微笑みを見ても、やっぱりいつものシビアな真田社長だと緊張してしまった。
「お決まりでしょうか。わたくしが淹れさせて頂きますよ」
極上の笑みでオーダーを尋ねるバリスタ社長に、甥っ子の松浦船長もにっこりとそっくりな笑みを見せる。
「社長さんが淹れてくれるならアイリッシュコーヒーとお願いしたいところだけれど、車で来ているから本日のおすすめコーヒーを。梓さんは……、」
梓も当然決まっている。
「社長さんが淹れてくださるならアイリッシュコーヒーをいただきたいです」
あとふたりでホットサンドなどの小腹を埋めるスナックを頼む。
「かしこまりました。お待ちくださいませ」
オーダー票を片手に、真田社長がカウンターに退いていく。
でも梓は興奮。
「真田社長が淹れてくださるアイリッシュコーヒーは最高だって聞いています。でもお店に立つことが滅多にないから、なかなか出会えない幻の一品だって……、事務所の先輩たちも言っていました」
それが今日、味わえるだなんて。すごい時に来店できたと思ったほどだった。
でも。松浦船長の眼差しが、カウンターでコーヒーを淹れる準備を始めた叔父様へ。その目が少し哀しさを含めたように見えた。
「わかっていて、今日、店に出てくれていたんだと思う。俺が上陸すると土日の昼前にはここに来ることを知っているからかな」
「甥御さんが長い航海から帰ってきて、叔父様のお店にくつろぎにくることをわかっているから、今日はお店にいらっしゃったということですか」
「たぶんね。俺の勤務態勢をしつこいくらいにSNSでチェックしてくるから。俺が店に来ても、叔父が店にいない日ももちろんあるし、半々かな。今日は出てきてくれたみたいだ。その時は俺のコーヒーは叔父が淹れてくれるよ」
「お客様と店の者とおっしゃっていましたけれど、それでも叔父様からの『おかえりなさい』の一杯なんですね」
さらに彼がふっと影ある眼差しを見せたので、梓はドキリとしてしまう。いままで大人の余裕で梓を慰めてくれた男の顔ではなかった。そのまま彼が窓辺に見える城山、白い天守閣を見上げた。
「いまこの街で、俺を気にかけてくれる家族は叔父だけだからかな。叔父は面倒見がいい人だから」
家族は真田社長だけ……。つまり独身で、真田社長がいなければ、船長さんはたったひとりの日常を過ごすことになるんだと知る。
でも梓はどこかほっとしていた。独身かと勝手に思っていたけれど、あれだけの大人の男性だから奥さんや恋人がいるのではないかと、彼と約束して初めて気にしていた。
「お一人なんですか」
でも恋人はいるかも、いたのかも――と思って聞いてしまった。
「春に故郷の愛媛に帰ってきたばかりで、ほとんどが海の上。ひとりだよ。実家は宇和島。そこで両親と歳の離れた姉が二人、嫁いで暮らしてるんだ」
「おなじ県内でも、宇和島だと遠いですね」
「まあ、南予地方でも船の仕事はあるんだけど、たまたま瀬戸内の客船会社に声をかけてもらえて帰ってきたんだ」
「それまではどちらかに? 貨物船も乗られたんですか」
彼が笑顔で『うん、貨物に乗っていた』と答えてくれる。
「いまのフェリー会社の前は神戸の海運会社、その前……、」
そこで彼が一瞬言い淀んだ。今度は憂いある眼差しどころではなかった。あからさまに眉間に皺を寄せ、松浦船長が一呼吸置いて水をひとくち飲んだ。梓から見ると、言いたくないことがあって落ち着こうとしているように見える。
「その前は東京の商船会社、船乗りの大学は東京と神戸にあって、俺は東京の大学で船乗りのことを学んで訓練をして卒業して、そのまま商船会社。知ってるかな。日本は輸入が多い国だろ。その輸入したもののほとんどが船で運ばれるんだ」
「そうなんですか。飛行機とかトラックとか鉄道とかだと思っていました」
「いやいや、一億数千万人の一国を担う食料に資材に生活用品だよ。膨大な輸入量だから陸運輸では回らない。しかも、船でも大変なんだ。大きな貨物に乗っている時は、船はどでかいのに数人で三ヶ月間運航するんだよ」
『嘘!』と梓は言葉を失った。あのおっきなタンカー船や貨物船には、大きいからたくさんの乗組員が乗船していると思っていたから。
「しかも、近頃は賃金が安い外国人船員を雇う会社も増えてきて、日本人の船員も重労働とあってなかなかの人手不足でね。俺が船に乗り始めた若い時は俺のいまの年齢で船長ということはなかった。もっと五十歳とかかなりのベテランがなるものだった。でも、いまはその人手不足とあって、俺のような年代で船長になる者も多くなったよ」
だから。俺はそれほど凄いわけでもないよ――と彼が溜め息をついた。
「船の世界は海の上だから。分かり難いですね。でも、私……、松浦さんが送ってくださった海上の写真、すごく楽しみにしていました。関門橋が写っていたり、ブリッジの窓から他の船が見えたり。夜だと真っ暗だけれど、船のランプでしょうか、それが見えて、フェリーの前に何かの船が航行しているから、きっと気をつけて前を見ている時に撮ってくれたんだろうなと勝手に想像していました」
と、自分の思っていたことを話してしまったと思ったら、目の前の彼がとてつもなく茫然とした顔で梓を見ていた。
「あ、勝手な想像過ぎましたか」
「いや、その……。そこまであの写真を見て、気がついてくれたんだと思って……。ああ、俺もなんだか自分のことばっかり話していた。梓さんは? 宇部が実家なんだよな。どうしてこの街に……」
そう聞かれ、今度は梓が答えに詰まる。ちょっと苦い思い出が蘇ってしまうし、そんな、つまんない話、聞かせたくないから。
大人の彼がそれにも気がついた。
「ごめん。いいたくないならいいよ」
「つまらない話になってしまうんです」
「俺はかまわないよ」
でも梓はやっぱり言えなかった……。
せっかくお互いのことを話せそうだったのに。梓がこの街に来た理由が苦い経緯があったこと、松浦船長も経歴を話してくれたけれど、なんだか言いたくないことがありそうで、そこで二人の会話が途切れてしまう。
「本日のコーヒーと、アイリッシュコーヒーでございます」
その間にちょうどよく、真田社長が淹れてくれたコーヒーが届いた。
小腹を埋めるために彼が頼んでくれたホットサンドも一緒に。
「どうぞ、ごゆっくり。……圭、また船に乗る日を連絡してくれ。忘れずに」
「わかったよ、叔父さん。いただきます」
真田社長がきちんとしたバリスタのお辞儀をして、銀トレイを脇に挟んで静かに去っていった。カウンターに戻ると、スタッフルームへのドアの前でホールに一礼をしてその部屋に消えてしまう。
「ほんとうに気にかけてくださっているんですね」
「この街に帰ってきて、あのように叔父が気にかけてくれるので感謝しているよ。叔父を安心させておくと、宇和島の家族も安心するから、それも含めてここに顔を出すようにしているんだ」
またそこで言葉が止まってしまう。お互いにいただきますと、社長自ら淹れてくれた幻のアイリッシュコーヒーを飲んだ。
表面にとろっと濃厚な生クリームがフロートされている。甘い生クリーム、そしてほろ苦いコーヒー、芳醇なリキュールがふっと梓の胸を締めつけた。きゅっと灼きつくような大人の感覚。そして最後にちょっぴりの塩味。大人の味。
「入浴剤、お渡ししますね」
オレンジ&リモーネの入浴剤、お試し用パックを三つ持ってきた。
「こんなに。お気に入りなのに、わざわざありがとう」
「自宅ではボトルに入っているものを使っているんです。これは買った時におまけでいただいたお試し用のミニパックです。お気になさらないように」
これで航海の疲れを癒してください――と渡すと、大人の男性がこのうえなく嬉しそうに受け取ってくれた。
「今夜、さっそく試してみよう。ありがとう、梓さん」
「おばあちゃんの入浴剤ですよ」
「うわ、だから。それに似ていただけで、これは甘くていい匂いだったよ」
ようやっとお互い明るく会話が弾み始めたと思ったら、船長さんがふと、また静かな眼差しで梓を見ている。
「海にいる間、この香り、忘れられなかった」
オレンジの甘い匂いをそばに二十日間の航海をしてきた人。
そして、梓はいま大人のコーヒーの香りに包まれながら、彼の視線を見つめ返している。
私はリキュールの香りと、潮の匂いを感じている。大人の男の匂いだと思う。
頬が熱いのは、アイリッシュコーヒーのせい?
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