28.タイムスリップ18

 江戸時代から続く古い港町にも桜が咲く。春爛漫、夕になっても空は明るく花の匂いに満ちている。

 そこの駅を降りて少し先には、これまた古くて小さな商店街がある。

【 叔父と話し合いをしているんだ。今夜は遅くなる。夕食は叔父とするので、ごめん、梓は適当にしておいて 】

 そんなメッセージが来ていた。里見夫妻とどのようにして会って、どのようなことを話すのかを相談しているのだろう。

 電鉄の駅を出て、梓は商店街へ向かう。

 今日は『アジフライ』の気分。先日、商店街に用事があり歩いていた時に古い定食屋さんの入口に『今週は鯵フライ定食がおすすめ』とあったのが気になっていた。

 日が長くなった春の夕だが、古い定食屋は開店し客もはいっていて活気づいていた。

 圭太朗が留守の時、仕事帰りには寄ることがたまにあるため、梓も慣れている。いつもの席に座り、エプロン姿の女将さんが注文に来てくれるのを待つ。

「いらっしゃいませ。ご注文おきまりですか」

「はい。おすすめのアジフライ定……食……」

 エプロンをして三角巾で頭を覆っている女性を見上げ、梓は硬直する。それは向こうも同じ。

「菜摘……さん?」

「梓さん……」

 女ふたり、食事をしている客がいる中、カウンターの向こうで忙しく料理をしている親父さんと女将さんが動き回っている中、かちんと時が止まったように見つめ合っていた。

 正気を戻したのは菜摘のほう。

「アジフライ定食ですね。かしこまりました。お待ちくださいね」

 ぎこちなくも、なんとか笑顔で彼女が応えた。

 梓も頭の中は困惑でいっぱい。このまま立ち上がってこの店を出て行こうと思った。でも、身体が立ち上がらない。つまり――、どうして彼女がここにいるのか聞かずには帰れないと感じているのだと考え至った。

 しばらくすると、いつもこの店で食事をしているように定食が運ばれてきて、梓はそのままもくもくと食べた。美味しいのに、記憶に残るとしたら複雑な思い出になりそうと思うほどのものだった。

 食べ終わり会計をする時も、店内の接客を任されているだろう菜摘がレジに来た。

「ここの定食、すごく美味しいわよね」

 彼女から話しかけてきた。笑顔で。それはもう、圭太朗の妻として取り乱していた女性の顔でもなく、記憶を取り戻し思い出した夫を想って憔悴している女の姿でもなかった。

「とても美味しいです。だから仕事帰りに、ひとりだけの時はここに良く来るようになりました」

「私もよ。あなた達のマンションを訪ねた帰りにお腹すいちゃってふらっとはいったのがここなの。東京でもなかなか食べられないほど美味しくて、パートさんを募集していたから面接して雇ってもらったの。すぐそこ、商店街を抜けたところの小さなアパートにいま住んでいるの」

 びっくりして、梓は彼女の顔を直視してしまった。菜摘がちょっと申し訳なさそうにゆるく笑った。

「安心して。あなたたちの邪魔はしないから。たまたま……、近所になっただけ。……もちろん、信じてくれないこともわかってる」

「待ってください。いま、ここで、独り暮らしなんですか」

 菜摘が致し方ない微笑みのまま、そっと頷いた。

「東京の……」

「新学期の準備は済ませてきたの。夫もわかってくれて、アパートを借りてくれたの。ひとりになりたかったの。勝手だとわかっている。失うものもあるでしょうね。でも、いま、駄目なの。あの家にいると私が壊れる」

 独身である梓にはなにも言えない、ましてや、よその家庭のことだった。

「聞いているでしょう。圭太朗のいまの休暇の間にもう一度話をさせて欲しいと申し込んでいるの。それだけはさせて……」

 梓の手に釣り銭を握らせた彼女はもう真剣な真顔だった。

「なっちゃん! はよう、これ、運んでくれや!」

「はい。ただいま!」

 彼女が行ってしまった。仕事をしている以上、梓も呼び止めて問いただすことが出来そうになかった。

 古いガラスの引き戸を開けて、暖簾をくぐる時、彼女へともう一度、振り返る。

 生き生きしていた。いま自分の力でなんとかしようともがいている女性に見えた。

 ―― 失うものもあるでしょうね。

 梓の脳裏に彼女がいまの夫と離婚するのではというのが浮かんでしまった。

 いまの家庭は自分には覚えがないから、思い出そうと努力してもどうにもならないから、だから『ひとりになろうとしている』?


 もちろん、梓は帰宅した圭太朗にいちばんに報告をした。

「商店街の定食屋で菜摘が働いていた!?」

 新居の目と鼻の先に、会いたくない元妻がいると報され、圭太朗も仰天していた。

「圭太朗さんが帰ってくる少し前に、一度東京に帰ったはずの菜摘さんが、またこのマンションまで訪ねてきて私を待っていたと話したでしょう。あの時からみたい」

「じゃあ……、いま、里見氏と菜摘は別居状態ってことなのか」

 そうみたい、と梓も静かに答える。圭太朗がしばらく茫然としていた。

「なんだよ。なんで近所なんだよ」

「たまたまだって言っていたよ。美味しい定食屋さんで、たまたまパートさん募集していたんだって」

「あいつ、あまり働いたことないだろうに」

 え、そうなの? と梓は聞き返してしまった。

「そりゃ結婚するまでは二、三年働いていたみたいだけれど、俺と結婚してからは専業主婦だったし、里見氏と結婚してもそうだったんだろう。そんな、どうして」

 でも、そつなくやっているように見えたし、生き生きしていたと梓は言いたくて、でも圭太朗が怖い顔をしていたので飲み込んだ。

「なんなんだよ。旦那もそうならそうと先に言えよ。まったく、こっちには後出しでなんでも情報をだしてきやがって」

 彼が大きな溜め息をついた。それでも気を取り直して、彼が梓に告げる。

「真田珈琲本店の定休日、店内で待ち合わせることになった。梓もおいで」

「いいの……?」

「梓もいて欲しい。いま俺には梓がいるんだということを見せておきたいんだ」

「わかった。ありがとう」

 どんなに同棲生活をしていると言っても、圭太朗とはまだ他人。そんな関係でもそばに置いてくれると嬉しかったが、気が重くなる気持ちも拭えなかった。


 


 真田珈琲本店は月に一度、週中に定休日がある。お客様が誰もいない、店内の照明もしぼられた中、圭太朗と共に訪ねる。

「いらっしゃい」

 出迎えてくれたのはバリスタ姿でひとりでカウンター内に控えていた輝久叔父だった。

「あちらは」

「ご夫妻揃っていらっしゃったよ」

 圭太朗の目線が店内を探す。窓際を避けた壁際の長テーブルにご夫妻が揃って座っていた。

 遠目に見ても長い年月を共にしたと思える、しっくりするお二人の姿、なのにいまそこに夫妻の絆が切れそうになっている。

 ひとりになって、住んだこともない地方の港町で働き始めるだなんて余程だと梓は思う。

 圭太朗と一緒に過ごしている時は、なるべく楽しくしていたいので、里見夫妻のこと菜摘のことは話題にすることはなかった。それでも、圭太朗も梓と同じことを胸の内で感じていたと思う。

「梓さん、珈琲かな紅茶かな。たまにはアイスのフレーバーティーはいかがかな。叔父さんが淹れてあげるよ」

 輝久叔父が忙しくお茶の準備をしているカウンター席へと座るように促された。叔父さんがお茶を作ってあげるから、だからここに座っていないさと言われている目だとわかった。圭太朗を遠くで見守っていないという意味。梓もこっくりと頷いて、静かにおじ様の目の前に座った。

「オレンジ、ピーチ、柚子……どれが良いかな」

「あ、瀬戸内フルーツ紅茶のアイスティーですか」

「そうだよ。私なら誰よりも上手に淹れてあげるよ」

 凄い自信だけれども、輝久叔父だからとても似合っているし、贅沢なものだった。梓はそれならと『オレンジ』を頼んだ。

「圭太朗は何がよいかな。あちらのご夫妻はまたアイリッシュ珈琲を頼んでくれた」

「梓と同じがいい。俺もオレンジアイスティーで」

「わかった。持っていくので、あちらのご夫妻に挨拶をしてきなさい」

 真田社長と呼んでいる時に梓がよく見る、恐ろしく真剣な眼差しで甥っ子を促している。そして、圭太朗はやはり躊躇っていた。『会いたくない、話したくない』その気持ちが表れている。一歩前に進むのも辛そうだった。

「無理しなくても……」

 梓がそう言いかけたら。

「圭太朗。終わらせてあげなさい。そして、おまえも終わるんだ。今度こそ」

 叔父に強く言われ、圭太朗が顔を上げた。彼だけが、梓を置いて、里見夫妻の元へと行ってしまう。

 梓の胸に不安が渦巻く。圭太朗がどうなってしまうのか怖い。梓を忘れるとか、彼女と元通りになるとかそんなことではない。

 圭太朗が、圭太朗でなくなってしまわないか。また傷ついて立ち直れない日々を迎えないか。

 梓が知らない『彼』を目の当たりにしないか。怖い。

 でも圭太朗はついに里見夫妻と向きあった。

 あちらの夫妻もすぐに立ち上がる。

「ご無沙汰しております、圭太朗さん。この度は大変ご迷惑をおかけしております」

 里見氏から楚々と挨拶をしてくれる。その隣にいる菜摘はじっと圭太朗だけを見つめていた。その眼差しは、彼を想って想って焦がれていた女性の熱いもの。

「正直、あなた方とは二度と会いたくないと思っています。それに、近づくなと法を盾に強行的に要求してきたのはそちらですよ」

「重々承知しております……。ほんとうに申し訳なく思っています」

「妻と離婚の話し合いもさせて頂けませんでした。筋を通さなかったはそちらですよね。それが、今になって元に戻ったからもう一度話し合ってほしいだなんて虫が良すぎませんか」

 里見氏が上品そうな紳士ハンカチを手に額を押さえ平身低頭、ひたすら『ごもっともでございます』と頭を下げている。

 それでも菜摘は圭太朗だけをじっと見つめている。

「圭太朗、ふたりで話をしましょう」

 まるで今の時間など、彼女には関係ないかのように……。圭太朗ににっこりと微笑んでいる。それが圭太朗には恐ろしく感じたのか、ゾッとしたような顔をしている。

 だけれどそこで圭太朗の顔つきも変わった。毅然としたものになり、彼もしっかりとかつての妻の目を捉えた。

「菜摘、別れてくれ」

 まだ席にも座らない圭太朗が立ったまま言い放った。

 ようやっと菜摘の表情に変化がでる。見る見る間に形相が変わっていく。

「おまえがいま、まだ、十八年前にいるというのなら、俺もそこに戻って言う。おまえとはもうやっていけない。別れてくれ、離婚してくれ」

 時が戻っていく――。

 梓と輝久叔父がいるカウンターから見えるあの離れたテーブル、同世代の男ふたりと女ひとり、その三人のところだけ十八年前に戻っていく。まるでタイムマシンのように。


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