13.俺のこと、怖い?
「今日は、わざわざありがとう。梓さん」
ひとしきり、ここ最近のお互いの話をしてお茶を楽しんだ後、車で来ている船長さんと真田珈琲の駐車場で別れようとしていた。
ぴかぴかにしてある黒いセリカを見て、梓はにっこりしてしまう。
「綺麗にして乗っているんですね。すごい」
彼がまた優しく梓に笑う。
「梓さん、ほんとうに乗り物が好きなんだな。俺と話している時より、目がキラキラしている」
「え、そ、そうですか? そんな私、つまらなそうにしていました?」
つまんなくなんかなかった。二十日もある乗船勤務中の話や、改めて送信してくれた海の画像がどのような状態の時なのか、また海峡を航行する時に船長はブリッジで双眼鏡片手に周囲にいる船の動向を読みより舵を指示するという話を聞くだけでもわくわくしていたのに。
「そういうわけではないけれど。やっぱりまだ、俺の仕事の話より、車のほうが格が上なんだなあと思っただけ」
「格なんてないですよ。船の話、すごく楽しかったです。その、私、船に……嫌な思い出があって……」
松浦船長の表情が固まった。
「なに、嫌な思い出……とか……。気になっちゃうな」
「でも、松浦船長さんのお話を聞いて、そんなこともう忘れられそう――そう思うほど、これからは私の【大好き鉄コレクション】の中に、船もいっぱい増えると思います。というか、いままで船を避けていた分、いま凄く凄く船のこと知りたいです」
「ほんとうに……。珍しいな、そんな女の子は初めてだよ」
「父と祖父の影響ですね。もの心ついた時には父と鉄道をおっかけていた気がします」
松浦船長がまた黙ってしまった。でもただただ梓をじっと見つめてくれている。
「車で送っていくよ」
「いいえ。自宅は逆方向です。お疲れなのに申し訳ないです」
「まだ休暇は始まったばかりで、俺もそれなりに退屈なんだよね」
彼のことは信用している。でもまだ初めて二人きりで会ってすぐに、まだそれほど知らない男性の車に乗るのは、梓にとっては大冒険、不安が募ることだった。
「俺のこと、怖い?」
信頼されていない。大人の彼がそれを読みとってしまう。梓は首を振る。
「男の人が、怖いです」
「それは船が嫌いだったことと関係ある?」
梓は素直にこっくりと頷いた。それだけで、彼が安心した優しい顔に戻った。
「じゃあ、船への好意は回復できたんだ。よかった」
「船は悪くないんです。私の心持ちが悪かったんです」
「そうやって、自分を責めない。ね……」
優しい言葉にまた梓は心がほぐれていくのを感じた。ほんとうにこれまでどうして自分もあんなに心を頑なにしていたんだろうと思うほどだった。
しかし今度は彼が吐露する。
「俺も実は女の人が怖い」
梓に合わせて冗談を言ってくれているのだと思った。でも、こっくり頷いてうつむいていた顔をあげると、背が高い彼の顔はまた強ばっている。初めて見る怖い顔だった。
「だから、この歳、四十を過ぎても独身」
それでも梓とこうして一緒にいると、特段に奇妙なところなど感じない、本当に人当たりのよい大人の男性にしか見えない。でもよく聞く。四十過ぎても独身の男性はなにかあるから独身なのだと。つまりそういう人?
「私は……、船長さんに嫌な思いを感じたことは、今日まで一度もないです」
「……俺、バツイチなんだ」
それにも梓は驚かなかった。四十の男性が独身なら、それもあるかもしれないと容易に予測はつけていた。未婚で独身でも、離婚で独身でも、大してかわりはなかったから驚かない。
「……そうかもしれないとは、思っていました」
「別れるのに揉めてね、いろいろあったもんだから、それで真田の叔父が俺が独りでいることを気にかけてくれているわけ」
そんな話、聞いてもいいのかなと梓は思ったから、なにも返事ができなかった。
「なんだろう。梓さんに自分を責めないでと言える自分がいるだなんて、今日まで思わなかったな」
どんな心境か、若い梓にはおこがましくて計り知れず、ただ船長さんの哀しそうにゆるいだけの笑みを見つめることしかできなかった。
「私、学生時代にお付き合いしていた彼が、学部の中でいちばんセンスがあって才能がある方だったんですけれど、彼が獲れなかった賞を私が取ってしまったんです。呉の護衛艦の写生大会で――。それから彼が怖い男性になりました。いえ、私が勝手に怖がってしまったのかも……」
「なんだ。そんなの。幼い頃から乗り物に親しんで絵を描いてきた梓さんが有利であって、センスもあっただけじゃないか」
「私も気弱だったんです。あの時の自分をいまも殴りたいと思っています。もっと正々堂々としていれば、彼を怖い男性にすることにはなかったかも。彼も本当は私のそんな態度に苛ついていただけかも。彼のことはもうなんとも想っていません。でも、最後に胸を張って彼と別れたかったな……」
いつのまにか、数年間溜めていたものを梓も吐き出していた。
そこに静かに静かに梓を見守るように微笑んでいるだけの船長さんがいる。
秋晴れの駐車場、白い天守閣が見える緑の城山から柔らかな秋風が吹いてくる。
「わかるよ。俺も、あの時の俺をぶん殴りたい。そうか。ぶん殴ればいいんだな。あの時の俺を。でも、俺も梓さんも『あの時の自分はもうぶん殴れない』か……」
彼も心に残している『別れ』があるようで、あの時の自分を殴りたくても殴れないという思いに、どうしようもない溜め息をついて哀しそうに笑っている。そう梓もきっとこんなだったのだ。
そういう気持ちを持っている人、そして、梓の気持ちに共鳴してくれた人。もう、それだけで……。
「車、乗せてもらっても……いいですか」
梓から言ってみた。もう心臓がばくばくしている。自分から男の人と二人きりになろうとしていて、自分から飛び込んだ気持ちだった。
でも、松浦船長がとても驚いた顔を見せると、すぐに笑顔になって助手席のドアを開けてくれた。
「もちろん。なにもしないって約束するし」
「船長さんも、女の人が怖いんですよね。私、大丈夫なんですか」
女の人が怖いと言って安心させる常套句かもしれないとも疑ってみた。船長さんはそんな人ではないと信じているけれど。
だが松浦船長がそこでまた、黒いセリカのドアを開けたまま、ふっと眼差しを哀しそうに伏せる。
「俺が怖いのは『女性』、ごめん、梓さんは俺から見ると『女の子』だ」
ああ、つまり梓は『子供みたい』ってことなんだと、わかっていたけれど、ちょっとがっかりもした。
「あ、ごめん! 女性らしくないという意味ではないよ。俺がいう女性が怖いのは……」
そこで言葉が止まった。梓がじっと黙って待っていると。また彼が一瞬、憎しみを込めたような眼を見せたから、梓は固まってしまう。
「女性、『女の性(さが)』が怖いんだ」
性(さが)? 別れた奥さんの性(さが)が原因? 浮気されたのかなと思ってしまったから、梓はもう触れまいとなんとかしようとした。
「えっと、では、女の子、乗ります~。私も船長さん怖くありません」
そっと助手席のシートに乗ると、そこであんなに怖い目をした船長がふっとおかしそうに笑い出した。
「そっか。俺も男性ではなくて、船長さんか。うん、わかった」
助手席のドアが閉まると、彼がボンネットを回って運転席へ。ドアを開けるとさっとかっこよく運転席に乗り込んだ。
「どうせなら、市外の海に行ってみないか。スケッチブックせっかく持ってきているだろ」
「いいんですか。私、車の運転免許持っていないので、あまり市外に出たことがないんです」
「よし。決まりだな。長浜に行こう。で、帰りは梓さんのお祝いの夕飯にしよう」
いまご馳走になったのにと言ったら、船長さんが『好きなものを頼むという約束だっただろう』と、大人の顔に戻った。
「じゃあ、お好み焼きかなあ。自分が作るものではなくて、お店のものが食べたい。でも、お店で一人で食べると味気ないんです。」
「いいね。俺もそうだ。船の食事係が作るお好み焼きしか最近食べていないな」
隣のシートで船長さんがシートベルトをして、ハンドルを握る。昔ながらの銀色のキーを回すエンジンスタート。
これまた最近の車にはない、ドウンとした迫力のエンジン音が響いた。
「わあ、すごい! こういうエンジン音大好き! 鉄道で言うと、ディーゼル機関車みたいな!」
「90年代のスポーツカーが、ディーゼル機関車みたいと言われる日が来るとはね」
「ずうっとこの車だったんですか」
また。彼が一瞬だけ真顔で黙った。
「うん、そう。商船会社で社会人になって、船乗りになって稼いだ金で買った車。こいつだけがずうっと俺と一緒にいる」
また寂しそうな目……。よほど辛い離婚だったのだと窺えた。いつの頃の離婚かわからない。でもきっと梓がまだ大人になってもいない頃のような気がする。こんな90年代のスポーツカーだけが彼とずっと一緒だっただなんて。そんな気がした。
黒いセリカのアクセルを船長さんが踏むと、軽快に発進をする。お城山の国道を抜け、お堀を通り過ぎ、車は郊外市外へ。長い海岸線の国道へと向かう。
でも秋晴れの海辺のドライブはとても気持ちがいい。梓も心が軽くなるし、やはり船長さんとの会話は楽しかった。
制服姿の大人の船長さんもかっこよかったけれど、シンプルなだけのカジュアルスタイルの松浦船長が運転している姿もかっこよかった。
それに、笑うと本当に爽やかで、なんでも大人の余裕で梓を大事に扱ってくれて優しい。今日は彼から柔らかいシャボンの匂いがするし……。
でも。時々、彼の中でひっかかる『棘』が残っているのを、梓でもしばしば感じてしまう。こうして長くいると気がついてしまう。それがどのようなものなのか、梓にはまだわからない。
長浜のミュージアムがある浜辺で、梓はまたスケッチをさせてもらう。
ひろびろとした海の向こうに、タンカー船や貨物船が見える。それは港の景色とも違うし、秋晴れの海の色も違う。夢中になって描いた。
その隣で船長さんは梓がいつも持っているブランケットを砂の上に敷いて、寝転がって『日光浴』。
「私は描いているからいいんですけれど、船長さんは退屈ではないんですか」
「全然。出来上がっていく絵を見るのも楽しいし、こうして、……人が隣にいるのが、……不思議だ……」
また。哀しい声。梓は動かしていたコンテの手をとめてしまう。
「私も同じですよ。この街に来てから、ずっと一人。もちろん、私が自分で避けてそうしてきただけなんですけれど」
「俺は怖い?」
再びの問いに、梓はもう首を振っていた。『怖くない』と。
「俺も怖くないよ」
ゆったりと寝転がっている松浦船長の長い腕が、梓へと伸びた。その大きな手が、コンテを持っていた梓の手にそっと触れる。
「また、会えるかな」
少し躊躇っている声は、いままでのどの声よりも弱々しく聞こえた。
「今度はいつ乗船なのですか」
「一週間後、次の土日が明けたら。乗る前に会えるかな」
「はい。連絡しますね」
彼が静かに微笑む。『わかった』と答えてくれたその顔には、もう夕の陽射しが当たり始めていた。
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