25.船乗りの妻ならば

 春風を感じる夜。梓は初めて、真田珈琲本店の裏にある事務所へと、里見夫妻と一緒に連れてこられた。

 そこで話が合わない夫妻が向きあう。彼女も少し落ち着いたようで、真田の叔父の事務所にあるソファーでじっと座っている。

 雑然とした事務所の奥にあるキッチンで、真田珈琲の主でバリスタである輝久叔父が珈琲を淹れている。

 私服だけれど輝久叔父の洗練されたバリスタの動きを、梓もそばで手伝いながらじっと眺める。本当だったら、大好きな彼の叔父様『素敵、かっこいい』とはしゃぎたいところだけれど、そんな気分にはなれない。

 向きあったまま会話をなくしてしまった夫妻の間に、真田社長自ら淹れてくれたアイリッシュコーヒーが振る舞われる。

 ラッキーな方達だと梓は思う。ここの市民なら真田珈琲社長が自ら淹れてくれるコーヒーに出会いたいと思っているだろうに、そのうえおじ様が淹れるなら右に出る者ナシのアイリッシュコーヒーが飲めるなんてなかなかないこと。

 でも、いまこの人達には関係がないのだろう。そして、そんなことは真田社長にも関係がない。市民が持て囃しているだけのことで、自分は特別なものと有り難く思って欲しくてふるまっているのではない。その思いが梓には伝わってくる。

 きっと、落ち着いて欲しくて、気分をほぐすリキュールの香りがするコーヒーを選んだに過ぎない。

 手持ち無沙汰な様子の夫がまずカップを手に取った。ひとくち飲むと、表情が一変した。

「うまい……、初めてです。このようなコーヒー」

 それだけで沈んでいた彼の表情が笑顔になった。梓はおじ様のコーヒーは人の心を動かすものを持っているプロだと誇らしくなる。

「菜摘も飲んでごらん。すごくうまいよ」

 咄嗟に妻に勧めているその語り口は穏やかで、自然なもので、夫の顔だと梓は感じた。

 彼女も、目の前にその男性がいることに納得はしていないようだったがカップを手に取った。

 彼女の表情も一変する。でも彼女は夫とは違う顔。カップの中に揺れるコーヒーの水面へと、じっと視線を落としている。

「これ。初めてじゃない……、気がする……」

 真田の叔父が、縁なし眼鏡の顔でふっと笑った。

「覚えていてくれたんだね。菜摘さん。結婚する時、圭太朗の実家がある宇和島まで挨拶に行ったでしょう。その時、私の、この店にも寄ってくれ圭太朗と挨拶に来てくれたましたね。その時と同じものです」

 彼女が黙った。圭太朗が夫だと思い出したのなら、結婚しようとした幸せな時も覚えているはず。でも彼女はコーヒーのことは忘れている。

 輝久叔父がわざとこれを準備したのかと梓は勘ぐってしまう。でも、梓の隣に静かに控えているおじ様の微笑みは穏やかで、そんな猜疑心でこの最高の一杯をだしたのではないと、すぐに梓は思い改めた。

「宇和島……、遠かった」

「そうですね。圭太朗の母親、私の姉ですが、嫁いでからこちら市街に出てくるはなかなか大変なようでしたよ」

「でも。蜜柑の段々畑が綺麗で、これぞ瀬戸内という景色が見られて素敵だと思った記憶はある……」

「ありがとう。この地方のことをそう言ってくれて」

「気がついたら、自転車がそばにあって舗道で倒れたままでした。少しだけ気を失っていたようで、通りかかった方に起こしてもらった。景色に違和感があって、ひどく恐ろしくなりました」

 梓と輝久叔父は揃ってはっとして顔を見合わせた。

 落ち着いた彼女がどうしてこうなったのか話し始めている。

「なのに、帰る道がわかるんです。どこの家に帰るかもわかりました。でも私の家ではないと思いました。恐る恐るドアを開けると、私より背が高い若い男の子がふたり。『おかえり』と言った。しかも『どうしたんだよ、母さん。服の袖が破れている。転んだの』と心配そうな顔で聞くんです」

 まるで、いつまでも続く目眩のようだったと彼女が喩えた。

「違和感があったけれど、彼らが私の子供だというのはわかった。娘も同じ。違和感はあるけれど、気持ちも身体も自然に彼らのために動いた。だからこそ、それが余計に違和感になる。夫だというこの男性との違和感はさらに強く、どうして私がここにいるのか聞くのが怖かった」

「そうだった。急によそよそしくなったな。黙り込んで考え込んで、遠くから俺をじっと見ていた。なにを聞いても答えてくれず、一週間前に彼女がいなくなった。突然――『いまは探さないで』と置き手紙がありました」

 里見氏がその続きを伝えてくれる。

 そして彼女も交代するようにその続きを。ふたりがこんな時に息が合っているように梓には見えてしまい不思議な感覚。

「圭太朗と一緒に住んでいないこと、何処にもいないことがショックでした。子供もいる。彼らを放っていけない苦しみもあった。でも! 私の心はもうどうしようもなかったの……、こんなの続けられない、圭太朗を捜して、捜し出して、どうしてこうなったか確かめなくちゃ。圭太朗が貨物船に乗る日に別れたままだなんて嫌! 私は妻なのに、彼が夫なのに!! だから探偵社に依頼して捜してもらったのよ!」

 また彼女が苦悩するように頭を抱え、長い栗色の髪を振り乱した。

 上質なワンピースに仕立ての良いジャケット、恐らく圭太朗と同じ四十代だろうけれど、綺麗にメイクもしていて、髪も艶やか手入れもスタイリングも行き届いている。夫の里見氏も朴訥とした感じだが優しそうな男性で、彼が着ているスーツもピシッとした上質なもので、彼らの生活が裕福なのが若い梓でも一目でわかる。

 そんな家庭の主婦だから、探偵社を雇うのも容易かったのだろうか。彼女がいうには『離婚後、圭太朗が東京の商船を辞めて神戸の海運会社に移ったのがわかった。去年、故郷の同級生が官僚から地方の汽船会社の社長に就任した時、圭太朗が引き抜かれたのを知った。生まれ故郷の愛媛にいると知って飛んできた』という。社宅にいると聞いたが越したあとだった。また探偵社を雇い、いまの住まいと突き止めた。そして朝一番に圭太朗がいるかどうか訪ねたら、ちょうど出掛ける船長制服姿の圭太朗を見つけたとのことだった。

「立派な船長になっていた。彼の夢だったの。制服の袖に金色の四本線、船乗りの妻ならすぐにわかる。夫がどれだけその袖に憧れていたかもね」

 水先人の話が出てこなかった。この女性といた時の圭太朗はまだ水先人よりも船長になることが目標だったのだろう。まだ若い船乗りの青年が憧れていた時の姿をこの女性が見てきたということらしい。

「私、あんなに苦しくても待っていたのよ。彼の帰りを、なのに、どうして。記憶がなかったから? 捨てられたの?」

 泣きさざめく彼女を見て、また里見氏の顔色が青ざめている。震える指先を押さえるように、そっとカップをソーサーに戻したのも見て取れる。

 さらに隣にいる輝久叔父も僅かに唇を震わせているのに梓は気がついてしまう。怒っている顔だと思った。狼社長の時と同じ容赦ない眼差しになっている。

「菜摘さん。あなた、ご自分が事故に遭ったことは覚えていないのですか」

 彼女が不思議そうに叔父を見た。

「事故? なんのことですか」

「圭太朗が航海中で留守の間に、あなたはそこの里見さんと会っていた。助手席にあなたが、運転席は里見さんが。夫が留守の間に男性と車に乗って事故に遭っていたんですよ」

「里見君は大学の、ただの同級生ですよ。時々、同級生として会うだけでしたもの。やましいことなんてなにもありません」

「思い出して、あなたの帰った家に、その同級生がいて、子供が三人いて、あなたはなんとも思わなかったのですか」

 叔父の口調がいつもの落ち着いたものではなく、徐々に追い立てるような険しさを増してくる。

「里見君はただの同級生。だからこそ! 彼が夫のようにして目の前にいて驚いて、どうしていいかわからなくて、ここまで圭太朗を探しに来たんですよ。妻だから! 私の今の気持ちはあの人の妻なんです!」

 そうして彼女がまたあの凄まじい形相になって立ち上がった。

「独身なんでしょう、まだ圭太朗もひとりなんでしょう! 記憶をなくした私が結婚した後も圭太朗は誰とも結婚しなかったのでしょう! ずっと私のこと待っていてくれたのでしょう!」

「違う!!」

 輝久叔父が珍しく憤って怒鳴った。

「あなたが圭太朗のことをすっかり忘れて、それでもあなたと暮らそうと努めた圭太朗を置いてあなたは家を出て、その男性と結婚したいと言い張って、圭太朗に『もう近づくな』とまで、弁護士を代理人としてたてて法律で払いのけようとしたでしょう。圭太朗がどれだけの苦汁を飲まされ傷ついて、ひとりを噛みしめ、ようやっとようやっと落ち着いて前を向き始めたところだったんですよ」

 その叔父がさらに吼えた。

「迷惑です。出て行ってください。二度と圭太朗に近づかないでください。この梓さんにも! 帰ってください。後ほど、わたくしどもも弁護士を送らせて頂きます。十八年前、圭太朗になにをしたか、お二人でよくお考えください!」

 梓が知っているのは怖い顔をしていても落ち着いた狼の社長さん。でも、今日の真田社長は、いや、輝久叔父はいつものおじ様ではなかった。ほんとうに家族として、父親同然の姿で憤っている。

 里見氏もすぐに立ち上がって、スーツ姿で深々と頭を下げた。

「もちろんです。ご迷惑をおかけ致しました。菜摘は連れて帰ります。申し訳ございませんでした」

「里見さん、あなたもですよ。あの時、筋を通さなかったこと、私は忘れていませんからね」

 言葉にはしなかったが輝久叔父は『圭太朗から妻を奪った不義の男』と怒りを抑えているのが梓にも伝わってくる。

「いや、圭太朗に会わせて! 話をさせて!! 帰らない!」

 また彼女が取り乱しはじめる。里見氏がおろおろしつつも、逞しい体つきで妻を抱きかかえなんとか宥めようとしていたが逆効果で、夫が触れれば触れるほど彼女が発狂してしまう。

 その時、梓のスマートフォンに着信音。

【 無事、出航です。朝は視界が悪かったけれど、晴天。 梓、どうしている。あの後、大丈夫だったか 】

 瀬戸内海、緑の島の灯台が見える画像を送ってくれていた。

 梓はスマートフォンを握りしめたまま、泣き叫んでいる元妻へと向かう。

「出航しましたよ。無事に。見てください。夜の島、興居島の前を通過しているところです」

 だからなんなの――と泣きはらした目で、彼女が梓を冷たく見た。

「お客様が乗船しています。船も乗員もお客様も、そして、側を通過するたくさんの船舶。それら全て、なにごとも起きないように細心の注意を払って責任を担っているのが船長をしている圭太朗さんです」

 梓は泣き叫ぶだけの彼女の目を捕らえる。これだけは伝えておきたい。

「妻だというなら、船長の仕事を全うさせてあげてください。お客様の命を預かって海の上を航行しているんです。彼の精神を乱すようなことはしないでください」

「あなたになにがわるの! 私は彼と結婚して二年、妻としてじっと待っていたわよ!」

 そういわれると梓もなにも言い返せなくなる。自分はまだ恋人になったばかり。半年も経っていない……。

 だがそこでおじ様が梓の隣に来て、彼女に言ってくれる。

「ご自分のことしか考えられないのであれば、船乗りの妻には相応しくなかったということではありませんか。きっとそれが事故を起こしたのです」

 いつもの淡々とした社長さんの口調に戻っていた。

 辛辣なひとことに、さすがに取り乱していた彼女も茫然とした顔になる。

「そんな取り乱してばかりの状態では、船乗りの妻はつとまらないでしょう。お帰りください。妻だと主張し、圭太朗に会いたいというのならば、落ち着いてからにしてください。こちらも店を構えて仕事をしているため、支障が出るならばそれなりの対処をさせて頂きますよ。今後は代理人を通しましょう。里見さんよろしいですね」

「はい。よろしいです」

 ようやっと彼女が夫に肩を抱かれ、ふらつきながら事務所を出て行った。

 それでも梓はやっぱりこれで終わりと感じられない。

「あの、このままでいいのでしょうか」

 飲みかけのコーヒーカップを片づけ始めた輝久叔父が溜め息をついた。

「どうせまた会いに来ますよ。万全に整えてこちらも向かわないとね」

 ひとまず帰ってもらうために、今回はそうまとめただけ。おじ様にも今後もまだ続くという見通しはちゃんとあるようだった。

「まったく。夕食もまだだ。梓さんもだよね」

「はい。私もこんな時間になるとは思いませんでした」

 十九時前に港のマンションに帰宅して、すったもんだして、なんとかこの事務所に彼女を連れてきて、またすったもんだ。圭太朗が出航する時間になってしまった。

「そこに美味い老舗のトラットリアがあるんですよ。ご馳走しますよ」

「ほんとですか。お腹すきました」

 もとはクライアント社長と依頼先事務所の女性社員という関係だったが、もうすっかりおじ様と甥っ子の彼女として打ち解けられた気がした。

 真田珈琲本店はまだ営業中だけれど、事務所を締めた真田社長と一緒にライトアップされているお城山の繁華街の裏路地を歩く。

 まだトラットリアという呼び方が日本で聞かれるようになる前からある店だと、歳月の風合いに馴染んでいる小さなお店に連れて行ってくれた。

「疲れたでしょう。いっぱい食べましょう」

 優しく労ってくれる紳士なところ。圭太朗と似ているなと梓は思ってしまった。

 ほの明るい店内とイタリアの田舎を思わせるかのような素朴な店内、でも豪快な田舎風のメニューが次から次へと出てきた。

「圭太朗さんに送っちゃおう」

 彼を安心させようと、出てきた料理を携帯カメラで撮影して、すぐにSNSで送信。

「おじ様とごはんを食べています――」

 これできっと安心してくれるはず。実際に輝久叔父がいてくれて、梓もひと安心してこうして食事ができてるから。

「よし。私もやってやろう」

 おじ様まで出てきた料理をスマートフォンのカメラにおさめ、SNSで送信している。

 しばらくすると、お互いのスマートフォンに着信音。

 梓が笑うと、輝久叔父も笑っている。

「羨ましがっているな、圭太朗」

「私のほうも同じです。陸でうまいもん食べやがって――という返信です」

 でも。その後におじ様には見せられなかったひと言が。

 梓、愛しているのはおまえだよ。すぐに会えないけれど、梓のところに帰る。待っていてくれ。

 涙が出そうになったけれどなんとか堪え、梓はおじ様と笑いあいながら食事をした。

 ひとり留守番の港のマンションに帰ったら、ゆったりとオレンジバスソルトのお風呂に入ろう。

 あの匂いにつつまれたらきっと元気になれるから。


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