第15話 カフェ・シャントにて

 落ち着いたヒーリング系のミュージック。湯気を立てるマンデリン。壁一面に並ぶ酒瓶を照らす西日。カウンターの向こうでサイフォンの手入れをしているマスター。


「二宮さん」

「はい」

「やっぱり、玉子サンドお願いします」

「かしこまりました」


 お昼からずっとここにいるけれど、よく考えたらお昼にナポリタンをいただいてからコーヒー二杯で粘っている。夕方になって小腹がすいてしまった。

 マスターに玉子サンドをオーダーして、少しだけぬるくなったコーヒーをひと口飲んだ。


「閉店、何時でしたっけ……」

「十七時なので、あと三十分ですね」

「あー……じゃあ、それ食べたら帰りますね」

「大丈夫ですよ。営業時間なんて、あってないようなものですから」


 あらそう? なんて目配せを送ると、にっこりと微笑まれた。ほんとうによく似ている。

 それにしても、珍しいこともあるものだ。今は土曜の夕方なのに、お客さんがひとりも来ない。普段なら、常連さんでにぎわうのに。


「ねえ二宮さん」


 それを話題にしようとしたところ、ドアベルが鳴ってドアが開いた。


「伯父さん、なんだよ表の張り紙」


 お客さんの顔を見ようと惰性で視線をやった先にいたのは、いずみくんだった。


「…………え」

「え? あれ、七緒さん?」


 目を真ん丸にしたいずみくんが、わたしを凝視して、それからおじさんをじろりと睨んだ。


「そういうことか」


 マスターが、茶目っ気たっぷりに口角を上げた。


「二宮さん、いずみくんが今日帰国するって知ってたんですか」

「さすがに知ってますよ」

「教えてくれてもよかったのに」

「せっかくだからサプライズにしたくて」


 ほんとうに茶目っ気が強い。

 いずみくんも、きっとわたしがここにいることは想定外だったのだろう、驚いている。

 キャリーケースを引きずった姿が、二年前の空港で最後に見た姿と重なる。

 キャリーを入口に放置して、いずみくんはわたしのとなりに座ってため息をついた。まるで用意されていたかのように、アイスコーヒーが彼の前に置かれる。


「おかえり、いずみくん」

「……ただいま」

「髪伸びたねえ」

「うん、まあ、一回イタリアでオーダーうまく通せなくてタラちゃんみたいにされたんですよ」

「ウケる」


 ここでバーテンダーをやっていた頃は、すっきりと短いツーブロだったのに、今はすっかり伸びて肩につきそうになっているのを後ろでひとつに結わいている。

 コーヒーにストローを挿したいずみくんが、ちら、と横目でわたしを見る。


「元気そうで、何よりです」

「ふふふ、そう見えたなら何よりです」

「なに? 含みのある言い方」

「三十過ぎたらなんか身体のいろんなとこにガタが来ちゃって」

「病気したの?」

「うーん、まあ、そんな感じ。まあでも、今は小康状態よ」


 いずみくんが旅立ってから少しして、健康診断の血液検査で引っかかった。詳細はいずみくんには伏せるものの、半年前まで入院していたのだ。


「コーヒーなんて飲んで平気なの?」

「うん、嗜好品もだいぶ許可が出たよ」

「そう」


 いずみくんがここに帰ってきたということは、だ。

 彼は二年間で学んだことを生かして、ここでまたバーテンダーをやるのだろう。


「いずみくん、ここでまたシャントのバー営業するの?」

「ん? うん。今度は、閑古鳥鳴かないようにちゃんとしようと思って」

「そっか。応援してる」

「また飲みに来てくれるでしょ?」


 ああ、うん。


「ごめん、もう来れないよ」

「……なんで?」


 二十七歳のいずみくんが、捨てられた子犬みたいな顔をした。


「……病気したから、お酒飲めなくなっちゃったの」

「…………」

「いずみくんのカクテル、すごく楽しみにしてたんだけど、残念だ」


 表情を曇らせて、いずみくんが、そっか、と呟いた。

 いつかまたいずみくんがつくったカクテルを飲めると思っていたんだけど、退院のときの医者との面談で、お酒は極力口にしないよう言われてしまったのだ。

 まあ、病気の原因もお酒と不規則な生活だし、仕方ない。

 これ以上この話をしても何も生まないので、わたしはあえて明るい話題を振る。


「あのさ、玲生くん結婚するの知ってる?」

「え」

「いずみくんがあっち行ってからいろいろあったんだけど、まあ、そのいろいろが積み重なって、今ね、会社の先輩ちゃんと婚約してるの」

「……そ、そうなんだ……」


 珍しく動揺している。そんなに驚く要素、あったか?

 まあでもたった今日本に帰ってきた彼はまさに浦島太郎状態なのだろうから、優しくしてあげないとな。


「ちゃみは結婚して、今産休中」

「ああ」

「でも育休明けたらまた働くのよ」

「そう」


 あれ、あんまりちゃみの話は興味がなかったかな。

 でも、あといずみくんとわたしの共通の話題は、思いつかないしなあ。

 そう思っていると、いずみくんは居心地が悪そうに貧乏揺すりして、あのさ、と言う。


「あのさ、俺が聞きたいの、ちゃみさんの話じゃない」

「そうだよねえ、何が聞きたい?」

「七緒さんのこと」

「え? わたし?」


 きょとんとする。だって、わたしの話は最初にした。病気をしてしまってお酒を飲めなくなったことを。


「そうじゃない」

「ええ? 何?」

「俺は七緒さんのことならなんでも聞きたい。空港ではあんなふうに言ったけどさ、アホみたいに二年間ずっと七緒さんのこと考えてたよ」


 二年前。有休をとって空港にお見送りに行ったとき。いずみくんはゲートの前で別れる前にわたしに言った。「俺は一途に離れてても想い続けるなんて器用なことはできないし、チャンスさえあれば向こうの女と恋愛もするだろうし、だから、七緒さんは俺の酒待ってなくていいよ」と。

 俺のこと、と言わずに、俺の酒、と言ったのは彼の最後のプライドだと思うけど。


「器用だったんだねえ」

「……もう笑えよ……俺も自分で死ねよって思ったわ」

「……笑わないよ」


 笑わないよ。自分のことを一途に想っていた人を笑うなんて、しないよ。


「……あのさ、七緒さん、アルコールが入ってないカクテルもあるんだ。だから」


 これはいずみくんなりの歩み寄りだって分かる。

 器用に二年間わたしを思い続けていた彼の、不器用な歩み寄りだ。

 わたしのことならなんだって知りたいと言うのなら、きっとあのことも教えてあげないと、やっぱり駄目だろうなあ。


「ねえ、いずみくん、もう一個報告があるんだ」

「ん?」


 すう、と息を吸い込んで、タコが美味しい街のことを思い浮かべる。


「わたしこの間、母親と一応仲直りしたのよ」


 この言葉の意味を、彼はあと少しで分かってしまう。

 ちょうど、シャントのカフェ営業時間が終わりを告げる時間だった。五時。閑古鳥ではなくて鳩時計の鳩が鳴く。


 ◆了

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私事ですが結婚します 宮崎笑子 @castone

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