第17話 愛の重さの計量法

 飲みすぎて記憶がない。

 朝陽が射し込む中、自然と目蓋が持ち上がる。スズメの鳴き声、ベーコンの焼ける匂い、ふかふかの枕。完璧な朝。

 …………ベーコンの焼ける匂い?


「はっ?」


 がばりと起き上がる。知らない場所だった。でも、ホテルの一室ではなくて、確実に誰かの家だ。黒と白を基調にした少し雑然とした部屋は、おそらく男の部屋だろうと予想がついた。わたしはとうとうやってしまったのか、酒に酔って一夜の過ちというやつを。


「あ、起きた」


 ひょいと、顔を覗かせた男に、心臓が一瞬止まり、声にならない悲鳴が喉から絞り出される。いつもの、白シャツにスラックス姿でオールバックじゃない、黒いTシャツとデニムを身に着けた洗いざらしの髪のいずみくんがそこにいた。


「待って、これは、何の間違い」

「……その様子だとなんも覚えてないですね?」


 かろうじてパンツははいている、しかし逆を言えばたったそれだけなのである。わたしは服を着ていないのである。

 眉を寄せてこちらに近づいてきたいずみくんに、思わず身体が防御のポーズをとった。布団を胸の上まで引き上げて、その腕を顔の前でクロスさせる。

 いずみくんがわたしの顔を覗き込んで首を傾げてにたりと笑う。


「そんなびびらなくても、昨日の夜全部見たから」

「聞きたくない!」

「ほんとに覚えてないんだ……」


 あきれたようにそう言って、いずみくんはため息をついた。それから、少し黙って、顎をくいと自分の背後を示すように動かした。


「朝飯、できてますんで」


 いやこの状態でのほほんと朝飯食える女っている?


「おいしい!」


 いた。


「七緒さんピクルスの盛り合わせしか頼まないから知らないだろうけど、あのバーは軽食ならつくって出せるんで、人並みに料理はできます」


 嫌味たっぷりの言葉を受けながら、彼のシャツを拝借して、ベーコンエッグといずみくん特製さつまいものポテトサラダに舌鼓を打つわたしである。もぐもぐと口を動かしながら、わたしはおそるおそる聞いてみた。


「あの~……昨日の夜は……そのう……」

「ああ」


 パンで、半熟の目玉をつつきながら、いずみくんはこともなげに言う。


「まあ、据え膳食わぬは何とやらと言いますよね」

「……」

「というのは冗談で」

「きみの言葉はどこからどこまで本気なんだ……?」


 まだなんだかんだ言ってこの子二十五歳だよな? なんなんだこの落ち着き、余裕。それに対してこの三十路女の余裕のなさ!

 バナナハンガーにかけられたバナナがわたしを嘲笑うようにぷらんと揺れている。バナナハンガーっておしゃれな家にしかない無駄インテリアじゃないか……。


「ま、ここでセックスしたって言うのは簡単なんですけど、フェアじゃないので正直に言いましょう。七緒さん、昨日モスコミュールのあとマジで足腰立たなくなって、仕方ないからここに連れ込んだら、また吐いて。間に合わなくて七緒さんの服全滅したんで、今洗濯してます」

「よ、よかったー! 未遂か!」

「喜ぶところか? 大人として最悪の醜態をさらしておいて?」


 いずみくんがすかさずツッコミを入れてくるが、わたしにとって重大なのは、セックスしたのかしてないのかなので、ここは喜ぶところである。だいたい、いずみくんに今更醜態云々言われたところで、もう相当見せてきているので問題ない。

 ほっとして、さつまいもポテサラを喜色満面で口に入れたところで、インターホンが鳴った。お客様だ。

 いずみくんが立ち上がり、玄関のほうに向かう。ドアが開かれる。届いた声に、やばい、と思った。


「いずみさん、その靴誰の?」

「さあな」

「……七緒ちゃんのだね?」

「さあな」


 やばい。何がやばいのかよく分かんないけど、これはサード修羅場の予感しかしない。玄関先で軽く言い争いをしたのち、三瀬くんが部屋に押し入ってくる。


「七緒ちゃん!」

「……おはよう」


 泣き出しそうな顔をして、三瀬くんがぎゅっと歯を食い縛る。うつくしいかんばせが、悲哀に歪む。それをわたしは看過できない。


「あっ、あの、ごめんね、大丈夫、未遂だから大丈夫、酔い潰れて介抱してもらっただけだから」

「ほんとに?」

「……たぶん?」


 記憶がないのでいずみくんの言うことを信じるほかないが、たぶんそうなのだろう。というか、だ。三瀬くんに、大丈夫、と言い訳をするってわたしはいったいどの立場にいるのだ。

 三瀬くんがこらえきれずに一粒涙をこぼし、わたしの肩や腕をぺたぺた触る。


「ほんとになにもされてない?」

「……っていうか酔い潰れたのはわたしが悪いし、仮に何かあってもいずみくんを悪者にするのは……」

「いずみさんはそういう人なの! 狡いの!」

「心外だな、玲生」


 玄関から戻ってきたいずみくんが、にやにやしながらわたしが食べたものの食器を片づける。


「吐いたこと以外は七緒さん、甘えてきてかわいかったぞ」

「いずみさんは黙ってて!」

「おまえ、七緒さんのゲロ処理できんのかよ」

「できないけど愛を吐瀉物で測るな!」


 会話の内容がわたしにとってたいへん穏やかでないが、三瀬くんの言う通りである。ゲロ処理ごときで(粗相したわたしがごときと言ってはいけないが)俺のほうが愛が重いとかそういうことを言うのはこどもっぽい。

 テーブルの椅子に座って、膝を抱える。と、すかさず三瀬くんが飛んできた。


「七緒ちゃんパンツ見えてるから!」

「あっ」


 足を下ろす。わたしが着ているいずみくんのTシャツの裾をめちゃくちゃ伸ばして引っ張って、三瀬くんは険しい顔をした。


「これ見よがしに彼シャツみたいなことさせやがって許さん……」

「自分好みの服買ってきて着せたおまえに言われたくない」


 そんなこともあったな……。


「俺は! 七緒ちゃんのバストサイズ知ってるから!」

「なんのマウントとってんの? 俺だって知ってるよ。今ブラ洗ってるからな」

「え? 七緒ちゃん今ノーブラ?」

「そうだよ」

「ええ!」


 三瀬くんがぐわっと顔をこちらに向けてくる。思わず胸元を腕で隠す。


「素肌に自分のシャツはひどい……」

「しょうがないだろ、七緒さん服に全部ぶちまけたんだから」

「え、また?」


 遠い目をしてグラスの水を飲む。でも、なんだかんだ言ってこのふたり。


「仲、いいね」

「どこが!」


 噛みついてきたのは三瀬くんだけだ。いずみくんは相変わらずにやにや笑っている。食えない男である。そして、洗面所のほうから洗濯機が彼を呼ぶ。


「今から干すから、七緒さんはしばらくここから出られないし、おまえは帰れよ」

「いやだ」


 べっと舌を出して、三瀬くんはわたしの向かい側の椅子に座る。いずみくんもたぶん本気で帰れと言ったわけじゃないみたいなので、にやにやしながら洗面所に向かった。


「……ねえ、七緒ちゃん」


 頬杖をついて、三瀬くんはじっとわたしを見つめた。何を言われるのか、薄々察して身構える。


「綾木さんのこと、なんだけど」

「うん」

「ヨリ、戻す……?」

「戻さないよ」


 グラスを指でさわりながら、揺れるバナナをじっと見る。彼とは目を合わせられそうにない。


「……でも七緒ちゃん、あんなに悲しそうだったから、戻すかなって、思ったけど……」

「三瀬くん、あのさ、終わったものはもうどうにもならないんだ。気、使ってくれてうれしいけど、やり直しはできない」

「…………玲生って呼んで」


 今その話してないだろ。ため息をつく。甘えんぼの柴犬みたいだ。


「玲生くん」

「……うん。綾木さん、ちょっと泣きそうだったから、駄目だったんだなっていうのは分かったけど」

「……」

「綾木さんのことは、許せないけど……七緒ちゃんが幸せなのが一番だから、元に戻るのが幸せならそれでもいいかなって思った」


 玲生くんは、きっと本気でそう思ったのだ。わたしのことがほんとうに、好きだから?

 洗った衣類の入った洗濯かごを抱え、いずみくんがわたしたちのそばを横切る。ベランダに続く窓を開けた。快晴だ。

 玲生くんの、わたしの幸せを願うまっさらで純粋な気持ちや、いずみくんの、わたしの気持ちが一番大事だと言い切った真摯な瞳が、たぶん少しだけ、わたしを勇気づけた。


「ねえ、玲生くん」

「ん?」

「わたし、来週急遽、有休をとろうかなって思う」

「……?」


 眉を下げて笑いかけて見せる。そういえばメイク落としてないなあ、とか、顔も洗ってないなあ、とか、歯も磨いてないなあ、とか、風呂すら入ってないのでは、とか、いろいろ急に思い出されたけど。

 三十代に足を突っ込んで、初めて親に反抗する勇気がわいたんだ。

 それは紛れもなく、わたしに恋をしてくれたふたりの年下の男のおかげで。


 ◆

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