うつくしき憧憬
待ち合わせ場所に向かうと、玲生くんはすでにそこに立っていて、ひときわ目立っていた。同じように誰かを待っている女の子たちが色めき立ってちらちらと視線を送り、通りすがる女の子もみんな彼のことを一度は凝視する。
少し長い前髪を、普段はお仕事モードで軽くサイドに撫でつけているが、今日は休日仕様なのかそのまま垂らされている。軽めのロングコートをはおって、細い黒のパンツと品のいいシャツ姿といういでたちでそこに立っている玲生くんに、声をかけるのがためらわれた。少し遠くから見ていると、彼のほうでわたしに気がつく。
「七緒ちゃん!」
「おはよう……」
神秘的なくらいきれいだった人待ち顔が、急に犬のように人懐こくなる。駆け寄ってきた玲生くんは、何のためらいも不自然さもなくわたしの手を握った。
「えっ」
「えっ?」
「手……」
「手?」
自分たちのつながれた手を見て、玲生くんがしゅんとする。だめ? と目線で聞かれて断れる女子がいるか、否。
握り返して、見上げる。
「行こっか」
「うん!」
普段は座って向かい合っているからあんまり意識しないけど、背高いんだよなあ。しみじみと思いながら、周囲の視線が少し気になるわたしは、意味なく髪の毛を手櫛で整えた。そんなわたしをまじまじと見下ろして、玲生くんはぽつんと呟いた。
「今日、なんかかわいいね……?」
「まるでいつもがかわいくないかのような」
「あっ、そうじゃなくて、えっと、いつにも増してかわいいね!」
わたしの冗談で放った皮肉を本気にして、慌てて言い直す。笑うと、ようやく冗談だったことに気づいたみたいで、むくれる。
ところでわたしが今日いつにも増してかわいいのには、理由がある。いつも、金曜の夜は味もそっけもない仕事着だし、たまに土曜にもシャントには行くが、まあまあ気を抜いた服装なのである。つまり、今日は、玲生くんのとなりを歩くことを覚悟して、それなりに気を使ってきたのだ、服装も、メイクも。
「まあ、デートだしね」
「……! マジか……!」
なんかすごく感動されているんだけどいずみくんとのデートにもそれなりに気合を入れたという事実を彼は想像しているのかな。
週一でヨガをしていると、体力は育たないけど体型の維持には役立つ。なので、三十路でもわたしはそれなりにいい感じの身体をしている自負はある。顔、については不細工ではないとは思う、くらいの自己評価ではあるが、一応会社の人には「こんなにきれいな人と結婚できるのに、浮気なんかする奴いるんですね」と言われる程度には……、もちろんそこまで言わしめる美女ではない。なので、まあ、玲生くんのとなりにいたって「やだ~釣り合わない~マジクソブスおばさん~」ってことはないはずだ……。
「今日は、どこに行くの?」
「映画を観て、それからランチをして、ショッピングしよう!」
「ふうん……何観るの?」
「それは、映画館でふたりで決めよう」
てっきり、前売り券か何かを買ってしまってあるのかと思ったら、そうではなかった。安心して、そっか、と言うと、玲生くんが顔を覗き込んでくる。
「どしたの?」
「いや……あー、えっと……」
玲生くんに、寛人はけっこう何でもかんでも自分で決めてしまってわたしの意見を聞かないタイプだった、なんて話をするのは残酷だ、と思って濁すが、濁したのをやっぱり怪訝に思って問い詰めてくるので、諦めて口を割る。
「元彼は、わたしを驚かせようとして全部先回りして自分で決めてたなあって思って」
「……そ、そっか……」
「あのね、だから、一緒に決めるの、うれしいなって思っただけだからね!」
一気にしょんぼりしてしまった玲生くんに慌てて言い訳するのだが、顔色は冴えない。だから言いたくなかったのに。
「楽しそうな映画観ようね、ねっ」
「う、気を使わせてごめん……」
ぐっと歯を食い縛り何かを耐える様子の玲生くんを引っ張って、映画館に入る。いろんな映画をやっているみたいなので、わたしはとりあえず目についた恋愛映画のポスターを指差したり、漫画の実写映画のポスターを見たり、いろいろと玲生くんに提案してみる。
「……七緒ちゃんは、普段どんなの観るの?」
「えっと……わたしは、ミステリとか、サスペンスものが多いかな……」
「じゃあ、これは?」
玲生くんが指差したポスターは、今話題の小説が原作のヒューマンミステリだ。ポスターを見て、俳優の名前と原作小説の作家の名前を見て、うん、これは間違いないな、と思い頷いた。
「これにしよっか」
チケットを購入(玲生くんに泣きつかれたが意地でも奢らせなかった)し、シアターに入る。肘掛けを譲り合った結果、なぜかわたしの手の上に玲生くんの手がくることになり(なぜだ)、館内が暗くなるのを待った。
そういえば、最近映画館で映画を観ていないかもしれない。かと言って、レンタルやテレビの枠で観ているかと聞かれるとそうでもないので、映画自体久しぶりだ。次々と流れる宣伝は、どれも心がうきうきして惹かれる。次はこれを観に来たいかもしれない、などなど思っていると、ようやく本編が始まった。
結果から言って、これを選んだのはちょっぴり失敗だった。
わたしはこの原作を読んでいないから知らなかったし、たぶん玲生くんも知らなかったんだろうけど。あれ? 年齢制限なんかかかっていなかったよな? と思うくらい濃厚なシーンが続出したし、ストーリーの肝であったので仕方ないが、妻が不倫していた。なんか気まずい。夫は殺害されていた。気まずい。
「……なんかごめん」
「え?」
シアターを出て、人の流れに沿うように歩きながら謝ると、玲生くんはきょとんとした。
「デートで観る内容じゃなかったよね……」
「……そう? けっこう丁寧に動機とか心情とか描かれてて、俺原作も読んでみたくなっちゃったけど」
「あ、いや、そうじゃなくて」
わたしの煮え切らない言葉に玲生くんはますます首を傾げる。映画館を出て、ちょうど席が空いていたカフェに入ってコーヒーを注文し、わたしはため息をつく。
「デートで、ドロドロ不倫の話なんか、縁起悪いじゃない?」
「……あっ、そういう」
わたしが何にもぞもぞしていたのか、ようやく分かったように、玲生くんも神妙な顔になる。
「でも……俺、あの旦那さんの気持ち、分かるような気がするな」
「え? 妻に浮気されてるの知ってて、黙ってたって? わたしだったら問い詰めちゃうし、最悪離婚する……」
「いやなんて言うか……うーん、こういうの思うのって、男だけかな?」
「何?」
神妙な顔のまま玲生くんは少しそのうつくしいかんばせを伏せ気味にして、わたしを上目に見つめた。
「……自分の彼女とか奥さんがさ、ほかの男の手垢ついてるの知ってて、そういうことするのって、ちょっと興奮しない?」
「……? どういうこと?」
玲生くんは、難解な数式を前にしたときのように眉を寄せ、腕組みをして考えながら口を開いた。
「こう……、うまく表現できないけど、彼女は、俺にはばれてないと思ってほかの男とそういうことするわけじゃん」
「うん」
「で、さ。俺はもちろんそれを知ってて、でも知らない顔で彼女とそういうことするわけじゃん」
「うん……」
そこの「素知らぬ顔をする」という前提がもう理解できないんだけど、とりあえず話を進めてもらう。
「彼女はたぶん、俺とその浮気相手を比べてる」
「そうかもね」
「もしかしたら、相手のほうが俺とより相性がいいかも」
「そ、そうかもね……?」
「彼女がどう思ってるかは、俺には分からない」
そりゃそうだ。彼はいったい何が言いたいんだろう。
頼んだコーヒーが運ばれてきて、湯気が立っている濃い茶色の液体にミルクをそそぐ。一瞬マーブル模様になった水面が、すぐにベージュになる。
「俺はひとりで、あいつのほうがいいのかな、でも俺と別れる気はないんだな、どっちのほうが気持ちいいのかな、彼女の身体と心が向こうに傾いてたらどうしよう、と悶々とする」
「はあ」
「それが興奮する」
「それ、男っていうか玲生くんだけが感じるものだと思う……」
わたしと今まで交流のあった男(交際に限らず、男友達も含めてだ)には、少なくともそういうのに興奮するやつはいなかったと思う。独占欲が強くて、彼女が数合わせで合コンに行ったくらいでキレるやつが大半だ。
「玲生くんって、彼女が黙って合コン行ったらどう思うの?」
「怒る。むかつく。なんでなんでって思う」
「……?」
理解できない。合コンは駄目で、浮気の性行為はオーケーなのか?
「そうじゃなくて……、うーん、俗っぽい表現をすると、俺は彼女を寝取られることに興奮してしまうんだよね……」
一瞬、脳が理解することを拒否した。
「え? なんで?」
「それもこれもいずみさんのせいなんだけどね」
ここで急遽、閑古鳥の鳴くバーのバーテンダーが登場した。まったくもって理解できない。
「ほら、言ったでしょ、俺の好きな子いずみさんが横から奪ってったって」
「う、うん」
「けっこうその子といい感じで、付き合ってるってわけじゃなかったけど、なんかお互い両想いって分かってる感じで、お付き合い秒読みだったわけなんだよ」
「うん……」
つまり、つまり……?
「なんて言うか、その子の唇を見るたびに、あ、俺のものになるはずだったこの唇にほかの男がキスしたんだよな、って思ったらなんかよく分かんないけど、めちゃくちゃ興奮してしまって」
「……」
「いずみさんがこの肌さわったんだな、とか、ああこの子こんなかわいい顔してるけどいずみさんとするときはエロい顔するんだろうな、とか、考え出すともう大変で」
「……」
つまり?
「…………ごめん。七緒ちゃんには一目惚れだったけど、深みにはまった理由は、綾木さんと付き合ってる人だったからなんだ」
頭の中でマイムマイムが鳴り響く。不特定多数の、どこかしらの民族衣装を着た人間たちがわたしを取り囲み包囲網を狭めていく。
「待って、意味がよく分からない」
「こんなにきれいな人が、綾木さんの前ではエロい顔するのかな、とか思うと興奮してしまって……」
「え、だって、俺なら泣かせないとかかっこいいこと言ってたじゃん?」
「それはそれで本心だけど性癖とは別なんだよね」
うつくしく儚くほほえんだ玲生くんが、コーヒーに角砂糖をぽちゃんと落とす。
もしかして、わたしはとんでもない男に好かれてしまっているのでは? ひょっとして、さっきわたしが元彼の話をしたとき、しょんぼりしていたのではなくて興奮していたのでは? もしかして寛人と復縁の話が一瞬持ち上がったあのときも、青ざめた顔をしておいて内心燃え滾っていたんですか?
そんな、確信めいた予感を抱いて、こわごわと玲生くんの顔を覗き込む。彼は、にっこり笑って言った。
「大丈夫、俺、七緒ちゃんが好きだよ」
は~い! 顔がうつくしい! 最高の告白! 百点満点! 解散!
結局わたしは性癖よりも顔面が大事なんだなあ、とつくづく自分の現金さを思い知ったデートだった。
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