第6話 歩く無能
いずみくんの心情を聞いたところでわたしの罪悪感が薄れるということはないが、気持ちはある程度整理できた。その間彼らから来ていたメッセージにはきちんと返信していたし、通話くらいならしていた。
しかしそれはそれで、わたしは新たな問題にぶち当たっていた。
婚約破棄でにわかに炎上したわたしの周囲が、再び燃え上がってしまっていたのだ。
「ねえ白石さん」
営業の、よく半年前とか前年度とかの請求書や領収書を上げてくる中年男性社員(つまりわたしが目の敵にしている)が廊下で声をかけてきた。
「なんですか?」
「昨日営業先からこっち戻ってくるときに見かけたんだけどさ、ビルの入口で」
「はあ」
「あの男性は彼氏? 仲良く相合傘してたね」
「……」
いずみくんー!
笑顔がぴしりと固まったわたしの様子をうかがうように顔を覗き込んできながら、彼が続けて言い放つ。
「イケメンだったね。白石さんってああいうタイプが好みなんだねえ」
世が世ならセクハラ。いや、普通にセクハラだしプライベートに土足で入り込まれて靴底をねじねじとなすりつけられている気分なんだが。
「……彼氏じゃないですよ」
「またまたあ。雨の中迎えに来させて彼氏じゃないなんて、悪い女だねえ」
彼の左手薬指をちらと見る。経年劣化なのか身に着けている人間の業なのか、くすんだように見える指輪が鈍く光る。結婚指輪はプラチナと相場が決まっているので、そしてプラチナはかなり経年劣化しづらいので、くすんでいる理由は後者である。
なんかどこかの誰かが、「結婚しているということはそれだけで他者とコミュニケーションが取れるということだから人間としてのステータスが高く、人として信頼できる」みたいなことをほざいていたが嘘である。
もう一度言おう。結婚しているから人間性が保証されるなんて言説は大嘘である。
「白石さんは美人だから男がほっとかないでしょ。だって、夏前だっけ、婚約が破談になったんでしょ? もう新しい男だ、すごいよ」
あまりの言い草にぴくぴくとこめかみが動く。
このご時世にここまでハラスメントを地で行けるって、天然記念物か? 絶滅危惧種か?
そういえばちゃみも、彼氏がいるせいかこの人には目をつけられていろいろ絡まれているとうんざりしたように言っていた。
下卑た笑みを浮かべている男に、青筋が浮き出しそうなのを必死でこらえ笑顔を向け、言う。
「ミーティングの準備があるので失礼します」
半年前の請求書を出してくる根性は、こういう無神経なところからきているんだろうなあ、と納得しながら、会議室のドアを開ける。
ドアを閉める直前に、まったく悪びれた様子もなく、彼は最後に言い放った。
「白石さん愛想ないなあ、そんなんだから結婚できなかったんじゃないの」
おめーは母ちゃんの腹ん中にデリカシーと常識置いてきたのかよ。
セクハラ・モラハラ・無能が服を着て歩いているような彼が、わたしは苦手……いや大嫌いだ。
ミーティングの資料をチェックしながら、イライラが収まらない。
言いたい放題言いやがって、これだから常識のない既婚者は嫌なんだ。というかよくあれで結婚出来たな、あの男の妻は人として大丈夫なのかそれとも神経をすり減らしてそれこそお愛想で一緒にいるのか?
考えれば考えるほどイライラしてきた……。
「はあ」
なんて思っていたのが、いずみくんが傘を差してくれた翌日の火曜のこと。
そして、さざなみのように、風が吹くように、じわじわと、噂がわたしの周囲を浸食していったのだった。なんせ、あのときのいずみくんを見ていたのは、あのクソ営業マンだけではなかったのである。
クソ営業マンみたいに表立って聞いてくる人は、今回は多かった。なんせ、前回の婚約破棄と違って明るい話題だからだ。
見ていた人からはイケメンだっただのどういう関係なのだの聞かれ、見ていない人からもどういう関係なのか聞かれ。
いい加減うんざりしたわたしは、その手の話題を避けるためにしばらく昼休憩を外に食べに行くことにしていた。今日も、会社の近くのパスタチェーンの店でスマホをいじっていた。
「いずみくんが会社に来たせいで炎上してるんだけど」
うらめしくそんなふうにメッセージを打てば、昼の時間は暇なのだろう男から即座に返信がきた。
『知りませんよ、自分のケツは自分で拭いてください』
「いや、汚したのきみでしょ」
『なんて紹介してるんですか?』
「へらへら笑って無言を貫いてる」
既読がついたまま返事が来ない。あきれられてるな、これは。
ぼうっとしていると、新しいメッセージが届いた。玲生くんからだ。
『七緒ちゃん! この間観たいって言ってた映画、今週末公開だよ!』
そんな言葉とともに、映画のホームページのリンクが送られてきた。何気なく開いて見ているうちに、めちゃくちゃ観に行きたくなってしまった。
あらすじもキャストもいい感じだったから、何の気なしに観たいと言っていたが、予告映像などを見ているうちにものすごく観たい欲が高まってしまった。
「行きたい」
『行こうよ! いつ行く?』
玲生くんにプラス一だな、と思いながら、週末の約束を取り付けてしまう。
いずみくんからは、それ以後返信はなかった。
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