第9話 駆け落ち婚

 父親から着信があった。珍しいこともあるものだ。

 とは言え、夏に母親と決別してから三ヶ月。彼女の電話番号は着信拒否に設定してラインはブロックしたものの、父親のほうは何もしていなかった。

 そもそも、父親のほうはそこまでうるさく抑えつけてくるタイプではなかったのだし、わたしのほうにも、両親双方と断絶してしまったらもう戻れるものも戻れないなという気持ちがあったので。

 仕事中だったので気づかず出られなかったが、用事があるならまたかかってくるだろうと放っておく。

 案の定、帰宅して夜八時ごろ、スマホが震えた。


「……もしもし」


 少しの雑音があって、低く穏やかな声が届いた。


『元気にやってるの?』

「うん、まあ」

『そっか』


 お互い手探り状態で、当たり障りのない近況から入る。電話の向こうで、不自然な咳払いが響く。


「……どうしたの?」

『いや、七緒、あのね』

「うん」

『母さんのことなんだけど……』

「うん」


 当然、そのことが俎上に上る。それは着信履歴を見たときから覚悟していたことだし、分かっていて電話に出たのだ。お互いそれを分かっているから、驚きもしない。


『父さんは、別に七緒の人生だから好きに生きればいいと思う。結婚はタイミングだしね、寛人くんのことは……許せないしこちらとしても裏切られた気持ちでいっぱいだ。だから、正直今回のことは、七緒が立ち直れているかも分からないまま見合いの話を進めた母さんに非があると思ってはいるんだよ』

「……」

『ただ……ね、着信拒否とかはやめてあげてほしいかな……』


 寛人の名前が出て、思わず息を詰めた。酔った勢いで致してしまった後輩に騙された寛人のことを、未だにわたしはかわいいと思っているし、愛おしい気持ちはそう簡単になくなってはくれないのだ。


「そうは言うけどさ、お母さんは、わたしの気持ちなんて何も考えてくれないで、自分の世間体とかばかり気にしてるのよ。解除したところで、まともな会話ができるとは、もう思えない」

『父さんも、こうなってから母さんとたくさん話をしたんだ。たしかに、父さんだって七緒に結婚してほしい、孫が見たい、という気持ちはあったから今まで母さんのやることに口を出してこなかったけど』


 黙って聞いている。


『でも、母さんから、七緒が信じられないわがままを言って見合いを蹴ったあげくに自分のことを侮辱してきた、と聞いたときに、父さんは自分たちが七緒を追い詰めていたことを理解した』

「……」

『それで、母さんにね、いろいろ言ったんだ。七緒がきみの希望を叶えるために生きているわけではないこととか』

「……」

『たぶん、ああなっている母さんに七緒の人格のことをあまり説いても無駄だと思ったから、ちょっとズルもしたけど』

「ズル?」


 見えていないだろうが首を傾げる。父親が、ふふふと笑った。ちょっと玲生くんの含み笑いに似ているな、と思った。


『実は父さんと母さんはほとんど駆け落ち同然の大恋愛結婚だったんだ』

「…………え、そうなの……?」

『そうだよ。だから、お見合いなんてそもそも、ねえ?』


 いや、待て待て待て、毎年父親の実家に帰省していたし、そんなに仲が悪そうには見えなかったぞ……?


『子はかすがいとはよく言ったもので、七緒が生まれてから関係が改善してね』


 昔を懐かしむような口調で語られて、ああ、そうなんだ、と思う。


『だから尚更かな、母さんは七緒が、自分の信じた幸せを歩めないことを恐れていたんだと思う。一度決裂してしまった親に、また幻滅されてしまうんじゃないかって』


 母親には母親の事情がある。そんなことは分かっている。でも、それはわたしに無理を強いる理由にしてはいけない。それは変わらない気持ちだ。

 だから、情に訴えかけてくるこの父親の電話を、正直切ろうかどうか迷っている。

 どんな理由や事情があったところで、わたしは絶対に母親の言いなりで結婚しない、と決めたのだ。


「……結局それもエゴじゃない。わたしを使って、おじいちゃんおばあちゃんとの間を持ちたいだけじゃない」

『うーん、そう言っちゃえばそうだね……まいったな、父さんは直接聞いてないからなんとも言えないけど、母さんは七緒にそんなにひどいことを言ったの?』

「三十にもなって結婚しないのを、恥ずかしいとか世間に顔向けできないとか言われた。全部、自分本位のご意見だったよ」


 電話の向こうが静かになった。

 ややあって、父親が、ぽつりと言った。


『まあ、なんだ……、もし今後結婚するとかなったら、遠慮せずに相手はうちに連れてきてほしいし、もちろん七緒もいつでも帰ってきていいし、まあ、あれだ……、父さんたちが死んだら線香くらいは上げてほしい……』

「……」


 すっかり意気消沈していることに気づき、気が強い母親とわたしの間に挟まれていつも小さくなっていた父親をもっと小さくさせてしまったような気がして、申し訳なくなる。

 しかし父親に同情したことと母親を許すことは、まったくの別問題なのである。

 わたしは、母親が本気で過ちを正さない限り、絶対に絶対に許さないことを、心に固く誓った。


 ◆

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