第8話 完全に間違えた

 窓から射し込む朝陽で目が覚める。頭ががんがんと痛むが、身体は軽い。

 となりに寝ている全裸の玲生くんを見て、しまったなあ、と今更ながらにひとりごちる。

 完全に、酔っていたとは言え自分の意志だった。そして、酔っていた、というのは三十路の言い訳としてはふさわしくない。酒は飲んでも飲まれるな。

 あのあと、ホテルの部屋に着いてからまずわたしと玲生くんは仲良く順番に吐いた。間一髪で便器に吐き出したので、セーフだ。


「んー……」


 大きく伸びをして、あくびする。

 そう、そしてその嘔吐のあと、お互い吐瀉物まみれの口をゆすぎ、アメニティの歯ブラシで歯を磨き、一緒に風呂に入った。

 貴様らさっき吐いただろ、と、傍観者がいたらあきれるようなキスをした。

 しかしそれにしても、玲生くんは意外と……。


「ん、む」


 となりの体温が唸り、眉を寄せ寝返りを打つ。剥き出しの肩をさすってあげると、ふわっと眉間がほどけてぐっとあどけない寝顔をさらしてくれる。いやまあ、年齢差的にも事実あどけないのだが。

 それにしても白い肌だ、うらやましいくらい白い肌だ。傷もないし、ほくろも少ない。

 じっと観察していると、右乳首の少し上に星座のようにみっつ、ほくろが連なっていることに気づいた。昨日は前後不覚だったからよく見ていなかったけど、こうして見ると新たにたくさんの発見がある。

 玲生くんの身体をまさぐってほくろを探していると、身じろいで起き上がってしまった。


「んあ、おあよ……」

「おはよ。玲生くん、乳首の上にこぐま座がいるよ」

「んん、くま……?」


 寝ぼけて自分の胸元を見下ろした玲生くんが、連なったほくろを指差すわたしに、ああ、と頷く。


「こぐま座ってどんなんだっけ……」

「知らない」

「お風呂入りたくない? もしかしてもう入った?」

「まだ」


 起こしていた身体をベッドにダイブさせて、わたしは目を閉じる。


「先入ってきていいよ、わたし、もうちょっと寝る……」

「え、一緒に入ろうよ~」

「めんどくさい」

「ええ~……」


 かわいく唇を尖らせて、玲生くんはしかしまったく恥じらうことなく全裸で立ち上がりバスルームへと向かった。そういう潔さは嫌いじゃないぞ。

 今日は日曜なので、二度寝したって誰に文句は言われない。布団を頭からかぶって丸くなる。

 いろいろと考えなければならないことはあるけれども、まず一番に思ったことは、「これってワンナイトなのか?」ということ。

 玲生くんのことはもちろん好きだ。でもそれが、性愛なのかと聞かれるとピンとこない。いや、やることやったあとで何言ってるのという感じではありますが、はい。

 恋人じゃない人間に身を任せることに抵抗がない、と言うほどただれた性生活は送ってきていない。玲生くんのことはもちろん信頼しているし、だからこそ身体を預けた。

 でもそれとこれとは別のような気がしてならないのだよなあ。


「七緒ちゃん、ほんとに寝ちゃったの?」

「……寝た」

「起きてるじゃん」


 悶々としていると、シャワーを浴びて戻ってきた玲生くんに、布団の上から声をかけられる。衣擦れの音や何かをごそごそする音がして、玲生くんが身支度を整えていることが分かる。


「ねー七緒ちゃん、シャワー浴びといでよ。ここ、もうすぐチェックアウトの時間だし」

「それを先に言ってよ」


 時間が迫っているなら話は別である。がばりと起き上がり、シーツを身体に巻きつけてバスルームへ向かう。

 一応わたしにも、明るい場所で裸をさらせない、という恥じらいは残っていたのである。

 シャワーを浴びてアメニティでスキンケアをし、バスローブ姿で部屋に戻ると、服を着た玲生くんがベッドに腰かけてスマホをいじっていた。


「軽くメイクする~」

「ん。あと二十分」

「急かすな急かすな」


 宿泊を予定していなかったポーチには、せいぜいファンデーションとリップくらいしか入っていないので、それで急ごしらえのメイクを済ませる。

 さて、昨晩玲生くんが剥いた服は、と、ベッドの横に落ちていた下着から服からかき集め、玲生くんのほうを見る。


「ちょっとあっち向いてて」

「……今更恥ずかしがる?」

「いいから!」

「ん」


 渋々壁のほうを向いた玲生くんを確認し、手早く服を着る。

 もういいよ、と言うつもりで彼のほうを見ると、真剣な顔でスマホと向かい合っていて、ちょっと声をかけるのがはばかられた。


「れ、玲生くん?」

「んあ。終わった?」

「うん」

「出よっか」


 太陽が昇り切っている。人通りもまあまああるので、ちょっと恥ずかしい気持ちになりながら玲生くんのとなりを歩く。

 歩きながら、わたしは考えていた。玲生くんとセックスしてしまったってことは、いずみくんともしなきゃフェアじゃないのかなあ、と。

 ただ、酔った勢いで致してしまったことの穴埋め的な感じで、しらふでいずみくんを相手するのは無理だな、と思う。無理だし、たぶんいずみくんに失礼だ。

 でも、ふたりが結んだアライアンスによると、わたしがこれを黙っていたら完全にわたしが玲生くんのこと好きみたいだしなあ。その誤解は避けたいなあ。

 いやでも待てよ? 黙っていればなかったことになるのではないのか?


「ねえ玲生くん」

「ん?」

「このこと、いずみくんには黙っておいてくれないかなあ」

「……なんで?」

「え、だって、酔った勢いでしちゃったことをわざわざ報告みたいなことするってのも変だし……」


 言っている途中で、玲生くんの顔色がどんどん優れなくなっていくのに気づいて、首を傾げて言葉を止める。


「玲生くん?」

「あ、え、っと……、……俺は、勢いじゃなかった、けど……」


 ぎく、と背筋が軋む。

 そうだ、玲生くんにとってわたしは「好きな人」なんだ。多少は勢いもあったかもしれないけど、それでも根底には好きな女を抱いたという気持ちがあったのだ。

 涼しい風が流れていく中で、冷や汗が浮かんだような心地になる。


「……そっか、そうだよね……七緒ちゃんは、勢いだってのは、分かってたんだけど……俺、どうしても期待しちゃって……」


 大きな瞳が急に潤む。今にも零れ落ちそうなくらいに溜まった水滴が、罪悪感を締め上げて斬りつける。

 その表情にようやく、自分が絶対に手を出してはいけないところに手を出してしまったことに、気がついた。


「…………ごめん」


 何に対して謝っているのかよく分からないままに、音にする。

 一気に重苦しい雰囲気が立ち込めて、頭が真っ白になってしまったわたしの手を、玲生くんが握りしめた。


「ううん。俺も、七緒ちゃんが酔っ払ってるところにつけ込んだの、よくなかったと思ってる。でも」


 ちょっと痛いかも、と思うくらいに手を握り込まれ、軽く後ずさる。


「俺は、なんにも後悔してないからね。七緒ちゃんとこうなったこと」

「……」


 駅の改札がすぐそこに見えている。でも、わたしも玲生くんも動かなかった。


「だから、お願いだから七緒ちゃんも、後悔しないで」

「…………」


 まっすぐすぎる目で見つめられて、わたしは、そんなの無理だよ、なんて言えなかった。


 ◆

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