第3話 わたしにとって大差ない

 日本人の女子の三十歳なんて、平凡な人生を歩んでいればたかが知れている。

 小さい頃は三十歳というのは果てしなく大人で、もう分別もついて善行しかしないし、お金もいっぱい持っていて、それこそ全知全能の神、みたいな扱いだったのだが、実際三十歳になってみてどうだ。

 赤信号も平気で渡るし、燃えるごみのところに新聞紙捨てちゃうし、なんにも知らないし週末のバーで安いピクルス盛り合わせとカクテル一杯で五時間粘る女の出来上がりである。

 ちっとも全知全能ではないし、むしろこどもの頃のほうが人間としてよくできていたような気さえしてくる。

 つまり、人は年を取るにつれて妥協を覚え現実を見据え、退化していくのだ。なんてことはない、大人になるということは、誰のためにつくられたんだかよく分からないようなマナーや常識にとらわれてちっちゃくまとまることなのだ。

 何が言いたいかというと、酔いってこわい。うん、何もうまいこと言えてない。


「……まじか」


 ホテルのスイートなんて泊まったことはおろか、足を踏み入れたこともない平凡な三十歳女子であるのだが、なぜかそんなわたしは今、ホテルの最上階のあほみたいに広い部屋に棒立ちになっている。

 広い。ぶち抜きの続き部屋がとにかく広い。堂々たる風格で奥のほうに鎮座しているベッドは、クイーンサイズかキングサイズとかいうやつなんだろうか。

 男が、アメニティのタオルを差し出した。


「あ、ありがとう」

「ん。シャワー浴びといで」


 ひとり掛けのソファにどかっと腰を下ろした彼におっかなびっくり近づいて、どうでもいいことを口走る。


「ス、スイートルームって、こんなに広いんだね、びっくりした」

「ジュニアスイート」

「え?」

「スイートルームじゃないよ、ちょっとグレード低い部屋。ジュニアスイートっていうの」


 そんなこまごました違いはどうでもいい。

 こんなに広い部屋には入ったことがないということを主張したいだけなのだ。


「スイートは、マンションの一室みたいに完全にリビングルームとベッドルームが独立してる」

「へ、へえ」


 とりあえず相槌を打つ。彼のほうはまだ酔いがさめていないようで上機嫌だが、わたしはちょっとお酒が抜けてきて正気に戻りつつあるのだ。

 あのあと、突然求婚されたあと。

 呆然とするわたしとバーテンダーを置き去りに、彼はわたしに抱きついてめそめそとくだを巻き始めた。


「俺さあ、もうこれ以上プレッシャーに耐えらんないの、ほんとさあ、周りが好き勝手言ってさあ、俺の意思なんか無視なの、もうやだ。俺にだってさ、俺にだって感情と都合と予定と理想と……」


 そしてあろうことか愚痴の途中で吐いた。わたしの服に。


「ぎゃー!」

「七緒さん!」


 慌ててタオルを持ってすっ飛んできたバーテンダーが、わたしの服を拭い出す。


「ちょっと、変なとこ触んないでよ!」

「緊急事態にあんた何言ってるんですか馬鹿なの?」


 ちょうど胸元に吐き出されたために、彼の手はきわどいところを触れていく。それに文句を言っていると、事件の当事者中の当事者である彼が、吐いてすっきりしたのかのほほんと言う。


「俺近くのホテルに部屋取ってるから、そこでシャワー浴びたら?」

「おいおまえ」


 なんだか他人事のように言っているが、犯人はおまえだぞ。わたしとバーテンダーは、そんなつもりで彼を思い切り睨みつけたのだが。


「ホテルってどこよ」

「駅前だから、歩いて十分くらいかな」

「だったら……」

「七緒さん!」


 結局、服を汚したまま家に帰るのは、電車の中で冷たい視線を浴びることを思うと無理で、わたしは彼の申し出を受け入れた。たぶん、酔っていた。

 いや訂正する。めちゃくちゃ酔っていた。

 背後で、普段ポーカーフェイス気味で落ち着いているバーテンダーが、珍しく取り乱しているが、わたしはもう今すぐこの胸元にかかった吐瀉物をどうにかしたくて、ホテルの場所を知っているのは男のほうなのに、引っ張っていく勢いでバーを出た。


「じゃ、じゃあシャワー浴びてきます……」

「ん」


 そそくさとバスルームに駆け込み、ドアに鍵をかけた。とりあえず、ここでいったん落ち着こう。

 酔っ払ったノリで、そしてこの汚れた服で帰るのがいやで、ここまでのこのこついてきてしまったが。どう考えたってこのあとの展開は一択だ。

 このまま服を脱いでシャワーを浴びてきれいにしたところで、結局は汗をかく。(破廉恥!)

 というか、それでいいのか白石しらいし七緒。今日初めて会って、身元もはっきりしない、こんな若いくせにジュニアスイートの部屋を取るような得体の知れない男でいいのか。たしかに美青年だったけど、美青年だったけど!

 もしも彼がちょっと世間に顔向けできないような反社会的勢力の一員だったらどうするのだ、ただじゃ済まないぞ。

 とはいえ伊達に三十年生きてきていないので、たぶんそんなやばいタイプの人間ではないだろうということくらいは分かる。分かるが、わたしより年下なのは確実で、そんな年下の彼がこんな部屋をちょろっと取れるというのはつまりどういうことなんだっていう疑念は消せない。

 このくらい意識がはっきりしていたらのちに無理やりでしたと言うこともできない。つまり言い訳のできない状況なのだ、今。自己責任、という言葉が頭に重く重くのしかかってくる。

 なので、もう遅いかもしれないがわたしは今更考えているわけである。ほんとうにこのまま、シャワーを浴びて汚れた服を脱いで、この備え付けのバスローブを着てバスルームを出てもいいのか、と。わたしはそんな尻の軽いあばずれだったのか、と。

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