第12話 三十路が集いて何か言う

 事務所の近くのコンビニでうどんを買って戻る途中、何もないのにため息が出てしまう。そりゃあもう特大のため息が。

 ハイヒールでタイルの床を叩きながらずかずかと事務所に入り、休憩室のドアを開ける。何人かの社員が食事しながら歓談している。


「お疲れ」

「お疲れ様~」


 同い年で営業の有村ありむら亜沙美あさみに声をかけてとなりに座る。座るときにも、うっかり小さなため息が漏れる。そしてそれを、彼女は聞き漏らさない。


「どした? なんかあった?」

「いや、なんか、うん、まあ、あったと言えば、あった……」


 うどんのパッケージを開けつつ、ほかに人がいる状況では口を割れないよなあ、とあぐねていると、わたしのそんな気持ちを敏感に察知して言う。


「今日飲みに行くか!」

「ちゃみ~! 好き!」


 ちゃみとは、彼女の愛称である。


「あたし、取引先から直帰だから、どうしよっかな、んー」

「取引先どこ? 最寄りの駅まで行くよ」

「ほんと? じゃあ……」


 待ち合わせ場所を決めて、うどんに箸をつける。普段ならずるるっと音を立てていただくところだが、職場の休憩室なので細かく噛んでお上品に食べる。なんでそうなってしまうのかはよく分からない。知り合いを前にしてのなけなしの羞恥心かも。

 仕事を終えて、支度を整えて職場を出る。ちゃみとの約束の駅に向かうためにいつもと違う電車に乗る。揺られながら、どこから話せばいいんだろうな、と自分の頭の中の整理を始める。

 結局よくまとまらないまま、電車を降りる。ちゃみはすでに改札の外にいた。パンツスーツを颯爽と着こなして姿勢よく立っているちゃみのほうに手を振って近寄る。


「ごめん、待った?」

「いや、なんか思ったより早く解放されてさ」


 しゃべりながら、駅から近い繁華街を歩いて、適当に見繕ったイタリアンバルに入る。お酒と食べ物を注文して、それが来るまでの間、わたしは結局自分が何も整理できていないことに気がついた。

 頼んだカクテルが運ばれてきた。


「じゃあ、お疲れ」

「お疲れ様、乾杯」


 あ。いずみくんがつくるカクテルの百分の一の薄さ。味も百分の一。


「で?」

「ん?」


 ちゃみが、一口あおって、口火を切った。


「何にあんなぽよぽよとため息をついていたの?」

「……うーん、どこから話せばいいのか……」


 結局わたしは、婚約破棄後、偶然立ち寄ったバーで酒を吐くまで浴びたところから話すことにする。すぐに、ちゃみの表情があきれたようなそれに変わる。


「そんなことになる前にあたしを呼びなさいよ……」

「あのときは、ただただショックだったし、かっこ悪かったから知り合いはちょっと呼べなくて……」

「……まあ、それもそうか……、で?」

「そう、それで、以来そのバーに通ってて」

「あんた図太い神経してるな」


 わたしとしては、底辺まで見せ切ったのだからもうこれ以上のことはない、というつもりであそこを行きつけにしたに過ぎないのだが、やはり一般常識としては微妙な線らしい。うん、わたしもそう思う。

 そして、先日いつものように飲んでいたところ泥酔している御曹司に出会い、偽装結婚の話を持ち出されたがそれは実はわたしのことを知っていて好意を持っていたがための口実で、なぜかバーテンダーにも求愛された……というところまで話し、ところどころ相槌を打ちながら聞いていたちゃみの表情がものすごく胡散臭そうなふうになっているのに気がついた。まあそうなるよな。


「それほんと? ナナに都合よくはしょられてない?」

「はしょられてたらどんなによかったことか」

「? どういう意味?」


 男前ふたりに言い寄られるなら万々歳じゃん、と彼女はきょとんとする。それで、ああ、と思った。ああ、ちゃみはまだ、誰かと時間をかけてお互いを知って恋愛をする気力があるんだ、と。

 まあ、彼女は婚約破棄されたり心を粉砕されたりしていないので当たり前か。


「あたしもう恋愛する気なくなっちゃった」

「はあ?」

「なんか、今からまた誰かのこと一から知って、時間をかけて愛を育んで……っていうパワーがない」


 グラスに残っていたカクテルを一気に飲み干し、ため息をつく。

 二階にある店のテラス席だった。夏のぬるい風が頬を撫でていく。


「それで、ため息なわけ?」

「そ。いくら好きって言われても、わたしは困るだけ」


 たぶん三十歳でそんなふうに思うのは早いんだと思う。生涯現役で恋をする人だっている。何度も結婚や離婚を繰り返す人もいる。でも、その人たちとわたしを比べたって仕方ない、だってわたしはわたしだ。週一でヨガをするだけの、体力のないわたしだ。

 好きじゃなくても人間として尊敬してさえいればセックスはできると思うし、生涯をともにしていけるはずだ。


「わたしは、婚活サイトに登録する」

「……結婚したいの?」

「うーん、親が、孫はまだかとうるさくて」


 まあそうだよねあたしたちもそういうふうに言われちゃう年齢にきてるんだよね……。ちゃみがしみじみと言い、二杯目を注文する。

 昨今三十歳で未婚の女は珍しくない上に、今は結婚なんかしなくたって生きていける時代だ。

 でもうちの親は、一昔前の女の幸せの幻影を追い続けている。二十代で結婚して仕事を辞め、こどもを産んで母になる、家に入るのが女の幸せだと、思っている。たとえ元彼と結婚していたとしたって、わたしはそんな、親の思うようなステレオタイプの主婦になる気はなかった。こどもを産んでも絶対に仕事に復帰する予定だったし、たまにはこどもを旦那に任せて友達と夜遊びにも行きたい。

 だいたいあれですよ、こどもを産んだからと言ってこどもがすべての生活になってみろ、彼らはいつか大学生になり、会社勤めをはじめ、結婚し、という節目節目で必ず親の手を離れていくんだぞ、すべてになってしまったこどもを奪われた親はどうなる、空っぽじゃないか。そんなのはごめんだ。

 実際、うちの母親、いまだに実家に帰るとかいがいしく世話を焼いてくるしこどもにも言わないようなお小言を言うし、たぶん子離れできてない主婦だ。


「でも、たしかに、うちら世代の親としては、女は結婚してこども産んで、ってのが当たり前か」

「そうなんだよねえ、うちのお母さんはさ、二十一で結婚して仕事辞めて二十三でわたしを産んでるから」

「ええ、早い」

「親世代ではたぶんふつうだったって」


 と、全然結婚する気のない三十路女ふたりは、周囲からの無言の、あるいは言葉を伴った圧について、生ハム盛り合わせをつまみながら愚痴る。

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