第11話 恋は理屈じゃない
「そうだな。七緒さんが俺を拒否するのは自由だし、玲生がアタックするのも勝手だし、俺が七緒さんに迫るのもまるで自由だ」
「いずみさんは黙ってて!」
いずみくんに噛みついた三瀬くんを横目に、そっと鞄を手繰り寄せる。今のうちに逃げて、ラインをブロックして、二度とこのバーに足を踏み入れさえしなければ、わたしの完全勝利ではないか? そう思いながら、そっと帰り支度をととのえて、スツールから腰を浮かせたそのとき。
「七緒さん」
「七緒ちゃん」
「あ、はい」
呼び止められて、不自然にならないように腰を下ろす。いずみくんがにやりと笑った。
「今逃げればイケる、とか思ってるとこ悪いけど、俺七緒さんの勤めてる会社知ってるんで」
「俺も俺も」
「なんで」
職場を押さえられているだと。なぜだ。
「だってあんた、初めてここで飲んでた日に、だいたいの個人情報、ゲロと一緒に吐いてたよ」
「……」
「だから名前も年齢も知ってんだし」
酔って記憶を失うタイプじゃないので、そのことはうっすら覚えている。
たしかに、たしかにわたしは元婚約者の職場と自分の職場を明かし、そして経理事務という仕事がいかに面倒で面倒で面倒であるかを愚痴った。コンプライアンスもクソもない。それを、彼は静かに、時に酒を供しながら、時にもう飲むなと諫めながら聞いてくれていたのだ。まさかそんな下心で聞いていたなんて。
「勘違いしないでくださいね、あのときはただただ失恋したクソかわいそうな女でしたから」
「もっとオブラートに包んでください?」
口の端が引きつる。笑顔でいずみくんを睨みつけ、三瀬くんのほうを見る。
「三瀬くんは、なんで? ……まさかストーカー」
「違う! 違うよ!」
慌てて手を振り首を振り、三瀬くんが目をうろうろとさまよわせた。何か、言いづらい事情があるらしい。やっぱりストーカー……。
「玲生、もうこの際、隠さなくてもいいだろ」
「……」
いずみくんが、彼の頭にぽんと手を置いて促す。唇をへの字に曲げて、三瀬くんがぼそぼそと呟いた。
「俺の、父さん、アジア・ライジングの社長で……」
忘れもしないその社名。元彼の勤めていた中規模の貿易会社である。高給で福利厚生がしっかりしていて、有給取得率は高くて社員満足度も高いという、あのアジア・ライジング。
「その……その……俺も跡を継ぐなりなんなり、勉強中で、今いろんな部署で経験を積んでいる最中で……今は営業部にいる……」
だいたい分かった。要するに、三瀬くんはわたしの元彼と交流ないし接点があったわけである。で、わたしのことも知っていた。わたしが、彼の後輩に彼を寝取られて婚約破棄されたことも、知っていた。
知っていて、結婚しようなどと言ったわけである。
三瀬くんの顔色が冴えなくなってきている。わたしは、ため息をついて、完全に帰る気を削がれてスツールに腰を据え直し、カウンターに頬杖をついた。
「三瀬くんさあ、わたしのことかわいそうだって思ったの?」
「ちがっ……」
勢いよく顔を上げ、彼は今度は顔を赤くして白状した。
「俺……
人懐こい元彼のことだ、社長の息子だと媚を売られたり遠巻きに見られたりする三瀬くんに、何のてらいもなく近づいたのだろう。あいつはそういうやつである。三瀬くんに取り入って出世、とかそういうのが一切頭をよぎらないタイプなのだ。よく言えば楽天的、悪く言えば脳みそにまで筋肉が詰まった元サッカー部。
「七緒ちゃんと話をしてくるんだ、って言う綾木さんの後をつけた。それで、七緒ちゃんを初めて見て、そのときの七緒ちゃんが、泣いてて、なんて言うか、俺だったら絶対泣かせないのに、って思った、不遜にも」
「不遜すぎる」
いずみくんが鋭くツッコミを入れる。たしかに不遜すぎる。
「三瀬くん、あのね」
元彼と別れ話をした夜を、わたしは思い出していた。彼の告白は青天の霹靂すぎて、一瞬何を言われたのか分からなかったけれど、たしかに泣いた。悔しかった。
親に急かされていたのもある、わたしが彼を好きだったのもある。だから、彼と結婚することになんの疑問も感じていなかった。だからこそ、その裏切りが許せなくて泣いた。
でも、泣いて縋れば彼が戻ってくるとも、泣いて縋って彼に戻ってきてほしいとも思っていなかった。これで終わりなんだと、頭の冷静な部分が告げていた。
「わたし、次に付き合う人と結婚する。でも、その人とはもう恋愛はしない」
三十になって、一度掴みかけた結婚という人生最大のイベントを逃して、それでまた新しく恋人をつくって愛を育むだけの力は、わたしにはもうない。何せ、週一でヨガスタジオに通うだけの人間なので。プロポーションには自信がないわけではないが、筋肉が有り余っているとは言い難い。
だから、次に付き合う人とは、なるべく静かに過ごしたい。親を安心させるために結婚するけれど、たぶんそこに愛はない。たとえば、戦友のような人でいい。愛がなくても、わたしと同じような気持ちを抱えている人であるとか。
「わたしはもう、恋愛は疲れた」
目の前の金色に輝くカクテルを見つめ、わたしは言い放つ。
「だから」
「それが何だよ」
だから、と言いかけたわたしを、いずみくんがものすごい勢いで遮った。
「恋愛はさ、理屈じゃねーんだ、七緒さんがもういいやと思ったって向こうは待っちゃくれねーんだよ」
「……そうなの?」
「そうだよ。気づいたら相手のことを考えてしまう。気づいたら好きになってて抜け出せない。そういうもんだよ」
わたしの飲みかけのカクテルのグラスを取り上げ、新しいグラスにペリエをそそいだバーテンダーは、それをわたしの前に差し出してにやりと不敵に笑った。
「少なくとも俺はそうだ」
おお……なんかわけもなくときめいた……。男前が男前に自分の恋心を認めるというのは、ときめくな。よいものを見た。
「七緒ちゃん今、眼福、とか思ってるでしょ」
「うーん、否めない」
「いい加減にしろ、ババア」
「きみ、それが好きな女に対する態度か」
「そうだよ。好きな女はいじめたいんだ」
いじめるの範囲軽く超えていないか。げんなりすると、三瀬くんがわたしを守るようにいずみくんのことを睨みつけた。
「七緒ちゃんのどこがババアなの! こんなにかわいいのに!」
「うるせえぞ玲生、かわいいのは知った上でババアっつってんだよ」
あ~も~やめてくれ~。
◆
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