第6話 傷とドブ
「正確に言うと、婚約者がいるんだ」
「婚約者……」
「で、それがまた馬の合わないお嬢さんで……」
げんなりとした顔でそう語る三瀬くんに、ふと疑問がわいた。婚約者がいるのにわたしのような相手をつくったりするのは彼女や彼女の親との契約違反になるのでは?
そしてそれは結果的にわたしにも火の粉がかかる事態になるのでは?
「婚約者がいるのにわたしなんかと契約して大丈夫なの?」
「向こうも俺のことを疎ましく思ってるから、こっちから婚約破棄してもらえて万々歳じゃない?」
「そういうものなの?」
「お互い、理由もなく破棄したら経歴に傷がつくしね、向こうは、女の子だし俺みたいな強硬手段も使いづらいだろうし」
それはたしかに一理ある。女の側が「ほかに好きな男がいます」と言って婚約破棄するのと、男がそうするのとでは、悔しいが心証の差がある。どうしてもそういうことになったときに傷がつくのはこどもの産める女のほうであることは、仕方ない、で済ませてしまうと悔しいけど仕方ない。
「きみの経歴に傷がつくけどそれは?」
「俺はいいの。経歴に傷がつくのと人生ドブに捨てるのと秤にかけたら、どっち選ぶ、って話でしょ」
「なるほど……」
婚約者のお嬢さんとの結婚が行き着く先はドブなんだな……、とおそれおののきつつ、一応理解する。
そして、三瀬くんはその長いまつげをしぱしぱとまたたかせ、わたしを甘ったるい瞳で見つめてにっこりと笑った。
「昨日バーで飲んでいたのが七緒ちゃんで、よかった」
わたしも、三十歳になっても年下の男の子にちゃん付けしてもらえる機会があってよかったと心の底から思う。わたしという女はけっこうそういう些細なことで喜んだり悲しんだりできるようになっていると思う。
というわけで、とりあえず三瀬くんを使いっ走りにして、近くのお店で適当な服を買ってこさせることにする。そうしないとわたしはこのジュニアスイートルームから脱出できない。
幸いこの地区は、ジュニアスイートを擁するホテルがあるだけあって、栄えているのである。
「あと……大変申し上げにくいんだけど」
「うん、なに?」
「……できればブラジャー、できなければカップつきキャミを……買ってきてほしい」
「いいよ。サイズいくつ?」
いいの?
Mサイズのカップつきキャミソールを買ってきてもらうつもり満々だったので、ブラのサイズをお伺いされてしまいうろたえる。
しょぼしょぼと、小さな声でサイズを伝えると、オッケー、と羽より軽い感じの了承が打ち返された。
喜んで走っていった三瀬くんを見送り、バスローブのままソファに沈み込む。深々と肺に溜まっていた空気を吐き出して、だらしなく寝っ転がる。
きれいな、染みひとつない天井をぼんやりと睨みつけながら、やっぱり早まったか、と何度目かの後悔をする。
結局、きれいな顔に絆されて、もしかしてわたしはこのあと経歴に傷をつけた上に人生をドブに捨てることになるのではないだろうか、と消極的な思考が頭を支配しだす。
「わあ~」
うつぶせて足をばたつかせて、彼が帰ってきたら、やっぱなし、と言おうかすごく悩んだ。
しかし結局あのうつくしい瞳に見つめられるとそのふつうの思考はまたたく間にしぼんで現金なわたしが顔を出すのだろうことも、なんとなく今までの経験で知っていた。
わたしは、おいしいものときれいなものに弱い。そんなのは三十年生きてきてじゅうぶんに分かっている。
どうせ、婚約破棄になって会社の同僚からは腫物扱いで、一度人生はドブに投げ捨てられたようなものだし、この際一回くらい道を踏み外してみてもいいのかもしれない。というか、もうすでに婚約破棄の時点で正しいレールは進めていないし。
「ただいま、女の子の服ってよく分からないから、ちょっと……七緒ちゃんのイメージじゃないかも」
「あ、おかえり」
「普段どういう服着るの?」
ふつうにOLさんが着ているような、オフィスカジュアルだよ、と返しながら、紙袋を受け取って目を剥いた。
「ちょ」
「好みじゃなかった?」
「いや、待って」
紙袋に印字されているブランド名は、たとえて言うならこの店で頭から足の爪先まで揃えたら余裕でわたしのクロエのバッグくらい超えるんじゃないのか、というお値段のブランドのものだった。どうしよう。こんなの恐れ多くて袖を通せない。
わたしがぷるぷると震えているのを、別の意味に捉えたらしい、おろおろしながら彼は紙袋を開き服を引きずり出した。
「これとか、七緒ちゃんのこと考えながら選んだから絶対似合うよ、着てみて!」
この薄い薄い白のサマーニットが一枚いくらするか考えただけでこわい。
しかしさすがに、返品してファストファッションの店で買い直してきて、とは言いづらい。わたしのことを考えた、などという殺し文句がなおさら、その言葉に待ったをかける。
いろいろなものをこらえにこらえ、着替えてくる、と一言告げて紙袋を抱きかかえバスルームに籠城した。
紙袋の中から、某下着ブランドの包みが出てきて、あー……と思いながら開ける。純白の総レースブラとセットのショーツが出てきて、あー……こういうのが好みなんですね、はいはい、と思いながらせっかくなのでショーツもはき替える。
そして、薄い薄い白のサマーニットに袖を通す。
「うっ……」
なんというすべらかな触り心地! 離れすぎずまとわりつきすぎないこの絶妙なフィット感! 自然と軽やかになる身のこなし!
「悔しい……」
白いサマーニットに濃紺のタイトスカートが、甘すぎず辛すぎない大人っぽい装いにしてくれる。そして、昨日わたしが履いていた黒いヒールのパンプスと合わせると、完璧なオフィスカジュアルだ。
洗面所を出ると、待ち構えていた三瀬くんがきらきらと目を輝かせた。
「やっぱり似合ってる、かわいい」
「ど、どうも」
にっこりと笑ってわたしの周りをうろつきながら観察してくるので、居心地が悪くて年甲斐もなくもじもじと足を擦り合わせる。照れ隠しで睨みつけると、きれいな顔を笑みのかたちにゆがめたまま、手を差し伸べてきた。
「行こうか」
「どこへ?」
「俺の家」
「なんで」
わたしの当然の疑問に、きょとんとして首を傾げた三瀬くんは、なんで、と復唱した。
「なんでって、結婚するんでしょ?」
「…………うん」
ちょっと悩んだの傷つく、と口を尖らせて笑い、彼は続ける。
「夫婦は基本的に同居するんじゃない?」
「偽装婚ならそこまでしなくても」
「……いや、でもリアリティ出さないと……」
「ていうか、わたしとりあえず契約は受けたけど、もうちょっときみのこと知ってから籍入れたいんですよ」
三瀬くんがぷちんと口をつぐむ。それから、しばらく考えて、なるほど、と喉の奥から絞り出すように呟いて顔を伏せてしまった。
これはわたしの逃げの一手ではあるんだが、何か、悪いこと言ったんだろうか。
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