第18話 わたしを傷つける人

 父親が転勤族だったので、わたしには故郷と呼ぶほど愛着のある土地がない。両親が終の棲家に選んだのは、転勤にて北から南まで全国津々浦々住み替えた結果の結論なのか、西だった。タコがおいしい、という認識しかないくらい馴染みのない街だ。

 新幹線の駅で降りて在来線に乗り換え、実家を目指す。


「ただいま」

「おかえり」


 そういうわけで、両親ともに方言や訛りというものは存在しない。出迎えた母親は明らかにそわそわしていた。きっと、わたしがとうとう腹をくくったと思っているのだ、見合いに対して。

 まったく真逆の意味で娘が腹をくくっているとはつゆ知らず、リビングに荷物を置いて椅子に座った途端、テーブルの上に見合い写真を広げ始めた母親に、悟られぬようこっそり息を吐いた。


「この方とか、どう? 銀行勤めでまじめな方だし、転勤あるけど県内で済むらしいの。七緒も、そろそろ腰を据えなきゃね」


 じっとわたしを見つめている細身の眼鏡の男を睨みつけ、口を開く。


「そのことなんだけど」

「え?」

「わたし、結婚はしないことにした」


 母親の顔がきょとんとして、意味が分からない、というふうな表情になる。


「どういうこと?」


 息を吸い込む。


「お母さんは、わたしが寛人との結婚が駄目になったとき、慰めの言葉ひとつかけてくれなかった。しっかり掴まえておかないから、とか、せっかくの相手だったのに、とか。お母さんの中の女の幸せが、結婚してこどもを産むことだっていうのは知ってるよ。それもひとつの価値観だし、若い女の子にもそう思っている子はきっといる。でもわたしはそうじゃない。わたしは、わたしの幸せがほしい、お母さんが思う女の幸せじゃなくて。たとえ結婚したとしてもこどもが生まれたとしても仕事は続ける、楽しいもん、仕事。お母さんとわたしは、別々の人間なんだから、幸せのかたちだって違うはずでしょ? お母さんはお父さんと結婚して家庭に入ってわたしを産んで育てるのが幸せだったかもしれない。でも、わたしの幸せはそうじゃないことを分かってほしい」


 口を挟まれないように、用意していた気持ちを一気に吐き出した。母親は、しばらく黙っていた。

 そういえば父親はどこ行っているんだろう、今日は平日だし仕事か。そう、気持ちが横道に逸れるくらい、彼女は黙っていた。

 休日の朝の揺れるバナナハンガー、目の前に座って拗ねていた玲生くんの尖った唇、洗濯物を干していたいずみくんの広い背中。


「……三十にもなって何を甘えたことを言っているの?」


 そして、ようやく絞り出したと思えば、そんな言葉だった。


「ありえないでしょう、何のためにここまであなたを育てたと思ってるの? 孫はいつ抱かせてくれるの? ひとり娘が三十過ぎて独身なんて、お母さん恥ずかしくて世間様に顔向けできない……」

「いい加減にして」


 ありとあらゆる臓物が煮えたぎりそうだった。

 お母さん恥ずかしくて世間様に顔向けできない? 冗談じゃない。

 わたしはこんな人のために、今まで必死で婚活だのなんだの奔走していたっていうのか。


「わたしはお母さんのために生きてない。育ててくれたことは感謝してる、でもお母さんに恥かかせないために結婚するのなんて絶対嫌」

「冗談でしょ、このお見合いだって、相手方に話が……」

「頼んでないしわたしは嫌だって最初に言ったよね?」


 唇を震わせて、彼女は顔面蒼白になって毛を逆立てんばかりの勢いでまくしたてる。


「わがままもいい加減にしなさい、あなたのためを思って用意してるのよ? こんなんだったらひとり暮らしなんてさせなければよかった、東京の大学なんか行かせなければよかった、変な価値観仕入れてきて!」


 親子だから、家族だから、肉親だから分かり合える、理解できる、なんて嘘だ、まぼろしの理想論だ。現に今、わたしは母親の価値観を自分の生き方に反映できないし、母親はわたしの価値観を理解しようともしない。

 結局この人は、娘を自分の道具だとしか思っていないのかもしれない。自分の世間体のために利用することしか考えていないのかもしれない。道具だと思っているから、わたしに個別の感情や考えがあることを理解できないのだ。


「……いつかは結婚するかもしれない、誰かとこどもをつくるかもしれない。でも、それはお母さんに急かされたり決められたり、強制されてすることじゃないの。わたしが、わたしのタイミングで全部決めて、納得してすることなの。だって、わたしにも人生があるんだもん」

「何様のつもりなのよ!」

「こっちの台詞だよ! わたしのためって言ってるけど、お母さんの世間体のためでしょう? わたしのことほんとうに考えて尊重してくれるんなら、こんなふうに無理やり結婚の話を進めたりしないし、頭ごなしに否定なんかしない!」

「あなたが自分の力じゃ結婚さえできないから力添えしてあげているだけでしょ!」


 唐突に、ぷつんと何かが切れてしまった。

 これ以上は無駄だな、とあきらめの気持ちが急に浮かび上がってくる。どれだけ、わたしにはわたしの意思があり身体があり人生があると告げても、全部否定されてしまうのだ。どうしようもない。

 この人には、何も理解できないし、理解してほしくもなくなってしまった。


「じゃあ、話し合いは決裂ね」

「何のこと? ちょっと、まだ話は終わってない」

「自分の気持ちだけを押しつけて、相手にも感情があることを認識していない人とこれ以上何を話すことがあるの?」

「それはあなたでしょう!」

「少なくともわたしは、お母さんの価値観を否定はしない。そういう幸せもあるっていうのは分かってるつもりだから」


 立ち上がり、つい先ほど置いた荷物を持ち上げる。もともと、こうなることをどこかで予想していたし、泊まる気はなかったから、軽いハンドバッグひとつだ。東京にとんぼ返りである。

 母親がわたしの腕を力いっぱい掴む。


「……何?」

「育ててもらった恩を仇で返そうって言うの……」

「…………お母さんがわたしを育てた目的が、結婚して家庭に入ってこどもを産んでもらうことだったとしたら、お母さんの子育ては失敗ね」


 振り払い、玄関に向かう。靴を履いていると、追い縋ってきた彼女はわたしの肩を強く揺すった。


「いい加減にしてよ! お母さんがあなたを育てるのにどれだけ自分の人生を費やしたと思ってるの?」


 ブーティのファスナーを上げて、立ち上がる。玄関の段差があってようやく、わたしと母親の視線が同じになる。この人はこんなに小さかったっけ、と思った。

 目尻をつり上げた母親に、にっこり笑う。


「じゃあね、失敗作は東京に帰って自由に暮らす。また機会があれば会うこともあるかもね」

「なっ……!」


 父親の仕事について転校を繰り返していたので、この町に会いたい友達なんていない。だから、その気になれば、こんなに簡単なのだ、親と絶縁状態になるのは。

 どちらにせよ少し距離を置かないと、わたしは少なくとも精神的に参るし、母親だって冷静になれない。まあ、冷静になったところで、という気はするけれど。

 家を出てまでは追いかけてこない。駅までの道を歩きながら、自分の頭を冷やすように深呼吸する。

 言ってしまったなあ。やってしまったなあ。そんなわずかな後悔も、頭をよぎらないわけではないけど。

 東京に戻ったら、このままシャントに直行しよう、と思って、改札を通った。


 ◆

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