第7話 五歳差なんか誤差

 仏頂面のバーテンダーがカウンターの向こう側からわたしを嘗め回すように見てため息をひとつ吐き出した。


「馬鹿だとは思っていましたが、これほどとは」

「ちょっと言い方!」

「だって彼氏に浮気された末に婚約破棄されたその二ヶ月後に、出会ったばかりの男と偽装結婚って、馬鹿でしょ」


 仮にも「お客様」に向かってなんたる言葉遣いだ。と憤れば、バーテンダーはさらりと、だからあんたみたいなのは客じゃないんだってば、と言ってのける。

 それにしたって、仮にもわたしは彼よりも年上なわけで、一応なんていうか年功序列的には敬われるべきであって。


「ほんの五つしか違わないでしょ」

「あっきみ二十五歳? あのね、五つってでかいよ。わたしが女子高生だったときあんたはランドセルしょってた」

「そりゃこどもの頃はね。今はもうお互い大人ですから」


 再びため息をつき、で、と言う。


「で、どうするんですか」

「どうするって?」

「言っとくけど、あいつの家はほんとうにすごいから、七緒さんの手には負えないレベルの事態に発展することもじゅうぶんありえますよ」

「三瀬くんと知り合いなの?」

「まあ、腐れ縁みたいなものですね、いい弟分」


 三瀬家がどんな規模のものか知らないが、ほんとうにすごいとか言っておきながらその御曹司を弟分扱いしている彼はもしかしてけっこうな大物なのではないだろうかという気持ちになる。というか、弟分という単語を聞くと、三瀬家、どうしてもいやな予感が拭え切れなくなるからやめてほしい。

 じっとりとした目つきで品定めしていると、わざとらしく咳払いして言葉をつなぐ。


「とにかく、断ったほうが七緒さんのためになると思いますよ」

「でももう三瀬くん、親に婚約を解消してほしいって電話してたよ」


 差し出されたカクテルのグラスを揺らしてかき混ぜながらそう報告すると、彼はぎくりと身体をこわばらせ、動きを止めた。ルジェカシスティーを一口飲んだところで、視線だけくれてバーテンダーは呟く。


「……のんきに構えてたら足元をすくわれるってのはこのことですね」

「何言ってるの?」

「七緒さん」


 思わずスツールに腰かけていたお尻を軽く浮かせて上半身が後ろに反った。バーテンダーがカウンターに両手をついて身を乗り出してこちらに顔を迫らせたのだ。両手で持っていたグラスの中身が揺れて、カウンターにこぼれて染みができた。


「この際だからはっきり言います」


 これまでもけっこう歯に衣着せぬはっきりした物言いだったがな?

 とは、彼の気迫に押し負けて、言えず。

 彼は、この上なく真剣な顔をして、その男前な太い眉をくっと寄せた。


「俺はあんたが好きですよ」


 数秒、目をぱちぱちとしばたかせて、放たれた言葉の意味を考えた。


「は?」

「は? ってなんですか」


 そして答えがこの間抜けな一音である。

 今日も今日とて客はわたし以外におらず、閑散としているバーの店内。頭の中に、なぜか不意に愛子ちゃんとその相手の笑顔が浮かんだ。


「いや、きみは散々わたしを客じゃないだのしけてるだの罵って」

「俺は客を恋愛対象にはしませんので」

「屁理屈だね」


 そんなにわたしを客として認めたくないのか、とげんなりしてしまう。

 その気持ちが視線に出ていたのだろう、彼はぶすっとした顔でもう一度、俺はあんたが好きです、と言う。それでようやくわたしも、言われたことが現実なのだと思った。しかし、現実に愛の言葉が放たれたからと言って簡単にそれを鵜呑みにするほどうぶではない。


「ええ、きみはさあ、初対面で吐くほど飲んで戻したものの処理をさせて、その上ちびちび安いメニューで店に居座るような女が好きなの?」

「はい、まあそうなりますね」


 けろりとしてそう認めるも、わたしだって一度育てた疑念をそう簡単に枯らすわけにはいかない、意地のようなものがあった。


「初来店でめちゃくちゃきみに迷惑かけたじゃん」

「こういう職業なので、汚物の処理は慣れてます」

「だいたい、わたしはきみより年上だし」

「だから大人になったら五歳差なんか誤差なんだって」

「しかも酔っ払った勢いで初対面の男と結婚を決める馬鹿だ!」

「それに関して言えば」


 ずいっと、彼が顔を寄せてきた。うっ顔が良い。


「七緒さんがイケメンに弱いのは知ってるんで、俺にもつけ入る隙があるなと思ってますね」


 自分で自分をイケメンだって認めやがった。イケメンだけど。

 男っぽい、三瀬くんとはまた違ったおもむきのある美形を前に、わたしはなぜか、オールバックで決めている彼の髪の毛から香る整髪料のにおいなんだかそれとも香水なんだかに、意識を奪われていた。

 どぎまぎしながら、じっと心の奥底まで覗き込んでくるような瞳から目を逸らす。それから、彼の気持ちをどうにかこうにか否定しようと言い訳を探す。


「そ、それに……」

「それに?」

「わたしきみの名前知らないし……」

「……」


 彼が、意外そうに眉を持ち上げた。苗字は知ってるんだ? と聞く。


「さすがに知ってる。いずみくんでしょ。ちょっと前に来たときにいた常連さんみたいなおじさんが呼んでるの、見た」

「…………七緒さん」

「はい」

「それ名前です」

「えっ」


 ◆

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