第14話 アウト・アウト・アウト

 定時過ぎ、仕事を終えて会社の入っているオフィスビルを出ると、視界に何やら不穏なものが映った。


「七緒ちゃん!」


 こらテメー近くにはわたしの同僚とか先輩とか後輩とか上司とかいるんだぞこの野郎!

 無邪気にわたしに手を振った三瀬くんは、新卒らしからぬお坊ちゃん然とした仕立てのいいスーツ姿だった。職場を知っているからって職場に来るのは完全にアウト。アウト!


「三瀬くん、アウト」


 近寄ってきた彼にそう告げるが、それと同時にあることに気づく。鞄に加え、ポスターなどが入りそうな大きな筒をふたつしょっている。まさかこいつ営業帰りか。


「ごめん、近くを通ったから、もしかして会えるかなって思って、そしたらビンゴしちゃった。悪気はなかった」

「うん……まあ……」


 そのうつくしいかんばせで目を潤ませて小首をかしげられると、駄目と強く言えない自分がいる。憎い。美形と男前に迫られるとあやしい書類に判を捺してしまいそうになる自分もいる。憎い。

 立ち尽くしているわたしの手をあまりにも自然な動作で取り、歩き出す。足に力を込めて踏ん張る。


「俺このあと、会社戻らなくちゃいけないんだけど、お茶でもどう?」

「いや、まず手を離してほしい……」


 会社の人が、こちらのほうをちらちらと見ている、そんな視線を感じる。明日から、わたしの噂に何かいやなものが追加されるんだろうか、若い男をたぶらかしているとかそういうのが追加されるんだろうか、やだやだ。

 でもそろそろ、腫物扱いされるのもうんざりだし、もうちょっとアグレッシブな話題があっても……いや、だからそもそも話題になる必要はないんだってば。黙ってりゃあ人のうわさなんかそのうち消えるのに、そこに新たに火種をくべてしまう必要なんかないんだってば。


「三瀬くん」

「……」

「三瀬くん?」


 たしなめるつもりで名前を呼ぶが、返事がない。顔を覗き込むと、むすりと晴れない顔をしている。


「……いずみさんのことは名前で呼ぶのに」

「……わたしいずみくんの苗字知らないし」

「俺だって玲生って呼ばれたいよ!」

「……」


 ええい、叫ぶでない!


「速やかに帰社しないと名前で呼ばない」

「帰る! 帰るから玲生って呼んでほしい……!」


 うるうると涙目になって両肩を掴まれ、ぐわんぐわん揺らされてたまらず引き絞るように、れおくん、と言う。

 彼がぱあっと花が咲いたように笑顔を見せ、わたしを解放した。


「じゃ、じゃあっ、俺帰るね! またラインするね!」

「……もう二度と会社には来ないでね……」


 切なる願いが届いたかどうか、分からない。ただ、彼は何度も首を大きく縦に振り、手も振り、駅のほうに向かって軽やかな足取りで走って行った。

 一日の終わりにどっと疲れた。ほんの五分、十分の会話だったのに。

 そわ、とあたりを見回すと、いくつかの好奇の視線と目が合って、白々しく逸らされた。

 なんかもう、あれだな、こうなったら三瀬くんと結婚するの、ある意味ありだな、と思えてきてしまう。恋人に婚約破棄されて、やけくそになって若い男をたぶらかしている、とまできたら、とことんやけになって尾ひれ背びれをつけたくなってきてしまう。一度燃えた火種を、こうなったら炎上させ尽くしたいと思うのは、わたしに限った話じゃないと思う。

 やらないけどな。

 三瀬くんと結婚なんて冗談じゃないのである。年齢が~とか、御曹司だから~とか、それ以前に元彼の会社の社長の息子だというのが問題なのである。結婚なんてしたら、あからさまに元彼へのあてつけみたいになる………………。

 ありでは?


「なんか今日だめだな……」


 首筋を指で掻いて、もうおとなしく帰宅することにする。

 というかだ、冷静になって考えてみると、わたしは自分に恋愛感情を抱いている人と関係を持つべきじゃないんだよなあ。もう、これ以上恋愛はしないって決めたし。愛はともかく恋は面倒くさい。

 もう体力がない、ヨガスタジオでハッピーベイビーのポーズだの鳩のポーズだのやってへらへらしているわたしには体力がない。

 帰り道にあるスーパーで、安くなっている惣菜を手に取り吟味し、レジを通過し帰宅する。

 電気をつけて鞄を床に置き、大きくため息をついて服を脱ぐ。夏を乗り切るためのカットソーが、この猛暑の中歩いてきたためにびしょびしょになっている。洗濯かごに入れて、上半身ブラ一丁でようやくほっと肩の力を抜いた。

 腕時計を外してにぎやかしにテレビをつける。ちょうどよく分からないバラエティ番組にチャンネルが合っていて、どっとひとり住まいの部屋がにぎやかになった。ここは東京なのに、関西弁の芸人がわちゃわちゃしている。

 わたしの実家は関西よりも西なわけだが、実はそうなってくるともっとテレビはわちゃわちゃしている。それがいやで、わたしは実家に帰ったときにほとんどテレビを見ないんだけど、そもそも年末年始しか帰らないわけで、年末年始のテレビはいつにもましてわちゃわちゃしているわけで、もう、なんか……という感じで、ひたすらおせちをつつきながら母親の嫌味に耐えるのである。

 そう、わたしがこうも結婚を急ぐのは、したいからではない。母親(たまに父親)からのプレッシャーが、圧が、信じられないレベルでわたしの精神を蝕んでくるからなのである。

 テーブルに惣菜を並べてもくもくと口を動かしながら、スマホのチェックをする。


「…………」


 最近ラインを覚えた母親から、お見合いのお知らせがきている。仕事忙しくてそっちに帰ってる暇ないから、とすげなく返す。しかし彼女も負けてはいない。


『有休を使えばいいと思います。年末だけではなくたまには顔を見せなさい』


 なんで貴重な有休をそんなことのために使わなきゃならんのだ。なんで自分の都合でわたしの有休を操れると思っているのだ。頭がおかしい。

 思ったまま、見合いのためなんかに有休を使いたくない、と送信すれば、既読がついたまましばらく沈黙があった。そして。


『あなたそんなので結婚できると思っているの?』


 惣菜と一緒に買ったビールの缶を開ける。ぷしっと炭酸が逃げるいい音がして、一気に飲んで、スマホに向かって怒鳴りつけた。


「したくて結婚するんじゃねーんだよ、ばあーか!」

『すみません、聞き取れませんでした』


 いつの間にか起動していたAIアシスタントに、遠回しに「何言ってんだおまえ」と言われ、がっくりと肩を落とす。

 とにかく、さっさと母親に文句を言われないような男と結託して結婚しなければ。

 ビールの缶をわきに置き、ノートパソコンを開く。婚活サイト、で検索してめぼしいところをいくつかサイトの外観や紹介文、さらには口コミなどを見て品定めする。

 その中のひとつに絞り込み、新規登録ページに進む。必要事項をちゃちゃっと入力して、登録ボタンを押してしまう。

 これで、どうにか結婚できますように……なむなむ……。


 ◆

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