第3話 今決めたもう決めた
それからというもの、金曜夜はわたしの安寧の時間ではなくなってしまった。
噂が噂を呼び、どんどん雪だるま式に転がって、閑古鳥がぎゃんぎゃん喚いていたシャントは、あっという間に女の溜まり場になってしまったのだ。
男前バーテンダーがめちゃくちゃ美味しいカクテルをつくり、すんごく美味しい料理を供してくれるとなれば、駅から徒歩二十分だろうと三十分だろうと女たちはいくらでも歩くのである。
実際駅からシャントまでは、徒歩二十分ちょいだ。
「……つっまんねえな」
「七緒ちゃん、顔やばいから……」
ナッツをつまみながら、大盛況の店内を見回す。九割女性だ。というか残りの一割は玲生くんである。
カウンター五席は満席、テーブル席も、四人ずつ座れるが、それぞれ三人と二人で埋められていた。こんなににぎわっているシャント、見たことない。どうなっているのだ。
しけた空間が一気に華やかな花金感を醸し出して、若干化粧品や香水の香りも漂い、まるで女子トイレのパウダールームである。
カウンターの向こうで黙々と働いている男を見て、はあ、とため息をつく。
別にいずみくんと喋れなくなったのが痛いわけではない。それもあるけど、ちょっとだけだ。
わたしはここにしっぽりと一週間の疲れを癒しに来ているのだ。決して、会社の休憩室の延長みたいなきゃぴきゃぴ空間で酒を飲みたいわけじゃない。
わたしの会社の男女比率は、男が三割の女が七割だ。そして男は営業職に偏っている。つまり、休憩室はだいたい女ばかり。
「ね、七緒ちゃん、機嫌直して」
「このままでは、そのうち定時ダッシュしたって席すら空いてない日とか来るんだ……」
「そこはいずみさんにリザーブしてもらおう」
「それは申し訳ない~」
度数の低いロングのカクテル一杯でぐだぐだと年下の男にくだを巻くわたしってなんなんだ。
こうなったら、もう手段はひとつしかない。
「玲生くん、どっか新規開拓しよ!」
「え」
「きっと探せば、前のシャントみたいな場末はある!」
「ええ……」
息巻けば、カウンターの向こう側からぎろりと射殺さんばかりの視線が飛んできた。
おおっと、こわあい。
「ごめんて、場末なんて言ってさ」
「そこじゃないです」
「え、どこ?」
「七緒ちゃん! あんまりいずみさんを逆撫でしない!」
「ええ? なに?」
ちゃんと分かっている。そこまで馬鹿でもないし鈍くもないし、純情ぶるつもりもない。
いずみくんが場末と言われたことに怒ったわけでもないのも、彼の気持ちを逆撫でしているのも、分かっている。
しかしそれとこれとは別なのである!
「ここだとゆっくり話もできないし」
「七緒ちゃあん……」
いずみくんを敵視して目の敵にするわりに、玲生くんはいずみくんに弱いと思う。
結局優しいのだ、彼は。かわいいなあ。
「玲生くんは? 残る?」
「残るわけないよね?」
身支度を整えて立ち上がると、玲生くんもちゃっかり立ち上がる。心底恨めしそうな顔をしているいずみくんに、軽く投げキッスを送って外に出る。
「いいな~、七緒ちゃんの投げキッス」
夜道を歩きながら玲生くんがぶつぶつと何か言っている。
わたしの投げキッスなんか、教科書の余白の落書きと同じくらいの価値だぞ。
「なに、ほしいの?」
「おこぼれみたいな感じではいらないかな……」
「あまのじゃくだなあ」
とりあえず駅前に向かって歩きながら、玲生くんがぽつんと呟いた。
「いずみさん、ちょっとかわいそうだったかな」
「……でも、お店が繁盛するのはいいことだし、本来はあれが正しい姿だし、そりゃあ三人で喋ってお酒飲んでいろいろつまむの楽しいけどさ、お店としてはそれは駄目だよ……」
「うん、そうなんだけど」
いずみくんのつくるカクテルは美味しい。料理だって(あんまり食べたことないけど)美味しい。
だったら、それを皆が知るのはすごくいいことだし、わたしは歓迎したい。
手放しで喜べない自分がちょっと嫌なんだけど。
「大丈夫、今がピークっていうか、そのうちリピーターになる子とそうじゃない子がふるいにかけられて、落ち着くよ」
「うん……まあ、そうだね」
ちょっと煮え切らない返事をした玲生くんに、一気につまらない気持ちになる。
「そこはもっと元気に返事してよ!」
「うーん」
困ったように眉を下げて笑っている玲生くんは、にぎやかになってきた街並みに顔を上げた。
「駅前には場末はないと思うけどなあ」
「そりゃそうだけどさ」
新しいシャントを探そうと思ったわけではない。
わたしにとってあの場所は、いずみくんがいつか「俺の大事な場所だから、嫌な思い出をつくってほしくない」、と言ったように、楽しい場所になっている。
いずみくんのお酒を飲んで、となりで飲んでいる玲生くんと喋って、ふたりに背中を押されて人生のターニングポイントを越えた。
静かにお酒が飲めるとか、仲のいい人がいるだとか、それだけの場所ではなかったのだ。
だからこそ、店として正しい姿になったシャントに、戸惑いを覚えている。
「わたしはさあ」
「うん」
「ふたりのことすごく好きだよ」
「えっ何急に、俺も好き」
「でもやっぱり、それはよくないことなんだろうなって、今日気づいてしまった」
「……え?」
はあ、とため息をついて、駅前のにぎわう灯りをじっと見つめる。涙の分泌量が多いタイプのわたしは、別に泣いているわけではないのに、視界がきらきらしている。
「……無理に結婚しないって決めたよ。でも、それはふたりを好き勝手利用していいことにはならないし、わたしの思う通りに相手をどうにかしたいっていうのは、駄目だと思う」
「……」
「というわけで、しばらく頭を冷やしたいので、シャントには行かない」
「えっ」
「そして玲生くんとも会わない! じゃ、また今度!」
「えっ、待って、待って七緒ちゃん、ちょっと待って!」
今決めたもう決めた間違いない。
わたしは、少しふたりと距離を置いて頭を冷やして、これからの身の振り方を考えなければ。
結婚しないけど、大人の女としてそれなりのふるまいをしなくてはな。大人の女としてこれが正しいというのはないが、わたしが思うそれなりのふるまいを見つけないといけない。
支離滅裂になってきた。駄目だ、チャイナブルーで酔っ払うとはわたしも落ちたな。
とにかく、わたしの都合で未来ある若者ふたりを潰していいなんてことは、絶対にないのだ。
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