第16話 疲れたなあ

「で、婚活はうまくいってるんですか?」

「今それ聞かないで……」


 トイレの便器といちゃいちゃしながらいずみくんに背中をさすられる。えずいて、胃の内容物を洗いざらい吐き出しながら冷や汗をかいて、腰のあたりが震える。

 ホルダーからティッシュペーパーを引き出して自分の指が汚れるのもいとわずわたしの口元を拭い、となりに膝をついたいずみくんはつまらなさそうな顔で言う。


「それにしても、酔い潰れる原因が原因なだけに、俺は今マジでむかついてるんですが」

「え……? げほっ」


 指が、わたしの口の中、喉の奥にまで入ってきて、残滓を掻き出そうとうごめく。え、え、と最後の一滴まで吐き出して、口をゆすいで、ようやく意識がクリアになる。

 ほっとため息をつく。カウンター席ではなく、テーブル席に座らされ、何食わぬ顔で手を拭いているいずみくんのほうを見やる。


「いずみくん、さあ……」

「? はい」

「ほかの客の口にも手突っ込んでんの……?」

「……」


 数秒黙って、言葉の意図を咀嚼して飲み込んだのか、彼はあきれ返ったような顔をして見せる。


「あ、ここ滅多にほかに客こないか……」

「何が楽しくて酔っ払いの口に手を突っ込まなきゃいけないんだよ」


 わたしの嫌味を完全にスルーしたいずみくんは、何か苛立ったように、手を拭った布巾をシンクに投げ捨てた。


「俺は、酔っ払いじゃなくて七緒さんの口だから手を突っ込んでるんです」

「……」


 なんだかんだ言って、いずみくんはほしいときにほしい言葉をくれる。わたしを特別扱いしてくれる。きっとわたしが二十五歳の女の子なら、舞い上がっていた。

 でもわたしは、結婚しなきゃ、親に孫抱かせなきゃ、相手は年収がそれなりにあって、ほどよい距離感でわたしと一緒にいてくれて、恋がなくても愛はたしかにそこにあって…………。


「……わたし、焦ってるわりには高望みしすぎだよな……」

「……」


 なんで、わたしこんなに焦っているんだろう。

 ちゃみの顔が浮かぶ。同い年の彼女はまだ結婚なんてこれっぽちも考えていない。今は仕事が楽しいから彼氏とも一定の距離を保っていると言っていた。つかず、離れず。お互いそれくらいが今は心地よいのだって。彼氏がいるからって結婚に焦っていない。

 そう、今時ちゃみのような女は珍しくもなんともない。キャリアを優先して、いわゆる一昔前の「女の幸せ」が後回しになる人なんかごまんといるのだ。

 それなのになんでわたしはこんなふうに焦らなくちゃいけないんだろう。したくもない結婚をしなくちゃいけないんだろう。


「……疲れたなあ……」


 ぽつんと呟く。そうだな、疲れたな、なんかいろいろ。

 両頬杖で頭を支えてぼんやりしていると、目の前に湯気の立ったカップが置かれた。見上げると、いずみくんがまたとない真剣な瞳でこちらを見ている。カップに目を戻す。ホットミルクのようだった。


「とりあえず、これ飲んで落ち着いてください」

「……」


 薄い膜の張った表面をひと口舐めて、ほ、とため息をつくと、となりに座った彼が、とりとめなく話し始めた。


「七緒さんはいつもこのバー、人がいないだのなんだの言いますけどね、そもそもここはバーじゃないんですよ」

「……は?」

「昼は喫茶店をやってるんです、俺の伯父が。バーは伯父が趣味で集めた酒瓶を、何かに生かせばっていう常連の冗談を真に受けて始めたものなんです」

「ふうん……」


 そう言われて見ても、ほかのバーと遜色ない壁一面の酒瓶は、とても昼は喫茶店だとは信じがたい。


「大学を卒業してバーのほうを任されるようになって、まあ、七緒さんの言う通りほかに酒屋のあるような立地じゃないし分かりづらいから人も集まらないし、バーのほうは収益が赤字気味なのは間違いないです。ただ、俺はこうして、ひとりひとりの客と向き合えるのが嫌いじゃない」

「……」

「玲生は、喫茶店のほうの客だった。近くに私立の高校あるでしょ、そこの生徒だったんですよ。帰りにちょくちょく、ひとりだったり、友達だったり彼女だったり連れてきたり」


 そういえば、三瀬くんのその後についてまったく何もフォロー入れていないけど大丈夫かな。寛人がうまくやってくれてればいいけど、あいつそういうの気が利かないからな。


「あのさ、七緒さん」

「ん?」

「ここで、あんまりしみったれた顔しないでくださいよ。赤字だけど俺にとっては大事な場所なんだ、七緒さんにも、嫌な思い入れをつくってほしくない」

「……」


 そう言って、いずみくんはにっこり笑った。わたしに初めて向けられた、屈託のない笑みだった。

 ぐるりと、店全体を見回して、いずみくんがほうとため息をついた。


「もうやめれば?」

「え?」

「何に追い立てられて婚活してるのか知りませんけど、あんたの人生はあんたのもんだろ、外から操作できるもんじゃない」


 吐いてすっきりしたと思ったけど、まだ酒が残っていたのかもしれない。気づけばわたしはぽろぽろ泣いていた。

 なんで、ってずっと思っていた。なんで母親にわたしの人生を操作されなくちゃいけないんだって、わたしだって好きなタイミングで結婚したいって、婚約が破棄になったときくらい小言を言うんじゃなく慰めてほしかったって。

 そう思っていた。


「わたしだって……仕事楽しいし、自分でちゃんと人生設計考えてるわけだし、まあそりゃ婚約破棄で少し齟齬は出たけどそれでも自分の人生なんだからさ……」

「うん」

「何が見合いだよ、地方銀行勤めの長男って、完全にわたしのこと地元に戻して囲い込む気満々じゃねーか、ふざけんな子離れしろ……」

「うん」


 つらつらと母親への文句を連ねていると、いずみくんの手が伸びてきて、髪を撫でた。ふわふわした頭で、気持ちいいな、と思う。


「いずみくん、モスコミュール」

「まだ飲むつもりかよ」


 ◆

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