第5話 ハッピーエンドで終わりたい

 いつの間にベッドに移動して寝ていたのか分からないが、朝目が覚めるとわたしはベッドに横たわっていた。


「……」


 むくりと起き上がる。窓から気持ちのいい日曜の朝陽が射し込んでいる。頭を数度ゆっくり左右に振って眠気を飛ばし、部屋を見渡した。


「誰もいない……」


 今何時だろう。

 休日に腕時計をしない主義のわたしは、スマホで確認するしかない。昨晩鞄を入口付近に置いた記憶はある。そう思って立ち上がり移動する途中、ソファの上にちょこんとわたしのクロエのバッグがお座りしている。ちびちびとお金を積み立てて買ったものだ。すごく気に入っている。

 昨夜、鞄をこんなところに置いた記憶はない。それにあの男の姿もない。

 はっとして、鞄の中身を慌ててあらためる。


「……大丈夫だ」


 スマホもキーケースも無事、財布の中身も手つかず。一瞬、悪い予感がしたもののどうやら杞憂だったらしい。のろのろと座り込む。

 バスローブ姿で鞄をあらためるという珍妙な状況に思わずへらりと笑ってしまったそのとき。部屋のドアが静かに開いた。


「あ、起きてる」


 ソファの手前に座り込んでいるわたしを見て、男はそう言ってほほえんだ。


「おはよう。なんか朝起きたら、七緒ちゃん俺の足元に縋りつくようにして寝てたから、ベッドまで運んでおいたよ。七緒ちゃん軽すぎて心配になっちゃった、ごはんちゃんと食べてる? ブランケット掛けてくれてありがとう。あっ、おなかすいてない? 一応サンドウィッチ買ってきたし、ルームサービスも頼めるよ。あと、昨日は迷惑かけてごめん。服汚しちゃったよね……クリーニングに出せば元通りになるかなあ? あとね昨日勢いで言ったけど俺本気だからね、結婚しよう」


 ぺらぺらとしゃべって、けっこうな情報量があったと思われる長い台詞だったが、最後の一言ですべて持っていかれてしまった。


「え?」

「朝ごはんどうする? サンドウィッチ?」

「そこじゃない」


 即座に否定すると、彼はきょとんとした顔で、自分の言葉を振り返っているようだった。数秒、眉を寄せたり首を傾げたり目線を上にやったりして、ようやく追いついたらしい。


「結婚の話?」

「そう、そこ」

「え、昨日説明したよね。偽装結婚お願いしますって」


 そう。

 昨晩ホテルに着くまでに、彼は言葉少なに説明してくれた。というのも、彼はいわゆるいいとこの坊ちゃんで、かわいそうにまだ若いのに周囲が結婚見合い跡継ぎ、と急かしてくるらしい。そのプレッシャーに耐えられなくなり、相手がいれば周りも少しはその攻撃の手を緩めるだろうと、昨日たまたま居合わせたわたしで手を打った……ということらしい。

 いいとこの坊ちゃん、というのがどの辺を指しているのかが分からず、わたしは昨日悶々としていたわけである。たとえば大富豪の御曹司ならまだいい、これが法に外れたシノギで札束風呂に浸かるたぐいのいいとこであってみろ、わたしは無事では済まない。


「結婚って言っても契約だから、お互い好きな人ができたら円満に話し合いをして、離婚するなり公認の不倫をするなりすればいいし、私生活には干渉しない。家庭内別居みたいな感じ。ザ・仮面夫婦。俺は俺で好きにやるし、七緒ちゃんも好きにやっていいよ」

「……いや、いきなりそんなこと言われてもさ」

「昨日は乗り気だったのに……」

「すいません酔ってました」


 しょんぼりしてしまった彼に慌てて言い訳する。ほんとう、大人として「酔っていた」というのを理由にするのがいけないことくらい分かっている。酔っていたら何をしてもいいのか、という理論にはそんなことは絶対にないですとしか言えない。

 しかし現実、わたしは酔っていて気が大きくなっていて、端正なお顔立ちの彼に結婚しようと迫られてご機嫌だったことは事実なのである。


「いいじゃん、結婚しようよ」

「いやあの」

「……俺とは結婚したくない?」


 その聞き方はなんだかこちらの良心に訴えてくるようなずるさがあるような。

 もちろん、結論としてはしたくないのだけど、そう答えるとわたしがあまりにも極悪非道な女になるような。

 こんな行きずりの男に悪印象を残したところでのちのちの人生にちっとも響きやしないのは分かっているのだが、ノーというのはどうにも答えづらい。

 返答に窮していると、彼はため息をついて少しだけ眉を下げた。


「やっぱ駄目かあ……」


 美青年の憂いを含んだため息というものの殺傷力は時に刃物より勝る。

 いよいよ言葉に詰まったわたしに、男はとどめの一言を吐き出した。


「誰かほかの人に頼むね……」


 これでいいはずなのだ。わたしは得体の知れない男と結婚しないし、男はほかの誰かと結婚する。これでハッピーエンド…………。


「あてがあるの?」

「ない……」


 今にも泣き出しそうな潤んだ瞳が、わたしの二十五歳前後くらいから急に育ち始めた母性を刺激した。それはもう、熟練の足つぼマッサージ師のような的確さ、力強さで。痛気持ちいい。

 三十歳を越えるとこどもがいてもいなくても涙もろくなる。少なくともわたしはそうだし、周囲の未婚の女友達も軒並みそう主張している。

 一番すごいと思ったのは、友人Rの「こないだ少女漫画読んでたら、当て馬キャラの扱いの雑さというか適当に第二の女とハッピーエンドになっていることに泣いてしまった」という告白だ。

 彼女が憂いているのは、扱いが雑なこと自体ではなく、「とりあえずみんな幸せならいいんだろ」という価値観の押し売りのせいなのだと言う。あんなにヒロインのことを好きだったのにあっさり第二の女に心変わりさせられて、いわゆる大団円、にまとめられていることに納得がいかなかったそうだ。

 つまり彼女の言いたいことは、「男女間の愛だけがすべてじゃねえんだよ! 大団円、ほかにもっと方法あったろ! あたしはあいつには自分の力で幸せになってほしかったんだ! 適当に宛がわれた作者の考える幸せじゃなくて!」だそうだ。これ、酒を飲みながらくだを巻いているんだから始末が悪い。

 まあ、気持ちは分からないでもないが、少女漫画に特別思い入れはないので、それで泣くほどではない。

 ちなみに彼女は義両親とうまくいっていないらしく、そのせいで夫との関係にもひびが入りかけているらしく、いわゆる傷心だ。そんなセンシティブな時期にセンシティブな少女漫画を読むんじゃない。

 そしてそんなことを思い出したわたしは今、目の前の美男子が「ハッピーエンド」、「幸せ」を迎えられないのではないかということを危惧していた。


「……結婚しよっか」


 みんな幸せである必要なんかない。世の中には程度の差はあれど不幸な人というのは一定数存在するし幸せは見る角度によって万華鏡みたいに変わるものであるので、一見不幸に見える人も実は当人は幸せであるということも珍しくない。

 だが、とりあえずこんなに幸の薄そうな美男子は率先して幸せにしてあげなければならない。わたしと結婚することが幸せなのかはさておきだ。彼が望んでいるのならそれを叶えてあげるのが筋ではないか。


「ほんとう?」


 かろうじて思いとどまっている涙をちらつかせ、彼がこちらをまたたいて見つめた。母性本能が丸裸にされてものすごい勢いでくすぐられる。このうつくしい宝石みたいな目ん玉は、どんな人間も絡め取って叩き落す勢いだな……。

 こくこくと頷いて見つめ返すと、ぽろりと涙が一粒、すべらかな肌を伝い落ちた。目の真ん中からきれいな筋を描いて零れた涙に、捨て犬に見つめられた気持ちになってもうどうにでもなれと思ってしまう。

 もしかしてわたしはこのジュニアスイートという非日常空間で、正気を失ってしまったのかもしれない。


「結婚するのはいいけど、とりあえず保留で、まずはきみのことを教えてほしいな」

「俺?」

「そう、たとえばわたしはきみの名前も知らない」


 時計は十二時過ぎを指していた。


 ◆

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