第5話 望むこと

「七緒さんが、俺たちを振り回すのを忍びないと思うとか、自分の中で罪悪感覚えるとか、そういうのは分かるよ。でも、……なん、つうかな……」


 いずみくんが言葉を濁して、何かを探すようにうろうろと視線が左右に動く。

 その様子をぼんやり眺めながら、パンプスが水に濡れて足先がひんやりとしてきたのを厭う。


「俺たちは、もちろん自分が七緒さんに選ばれたいと思ってる」

「……」

「でも、玲生が選ばれたとしても俺は祝福できる自信がある……いやない……ある……あるし」


 おい。


「俺が選ばれても玲生は…………あいつ寝取られ好きだしな……」


 知っていたのか。


「でもたぶん」


 たぶん、と言ったあとで、いずみくんは数十秒黙った。信号待ちで止まっている間中、黙った。

 青になって歩き出し、彼が再び口を開いた。


「俺たちは、どっちも選ばれないことを心のどこかで望んでる気がする」

「……え……?」

「正確に言うと、誰かが心変わりするまで、ずっとこの関係でいることを」


 この関係。ふたりがわたしを好きでいてくれて、そしてわたしはそれに答えを出さずふたりとそれぞれデートを重ねる関係を?


「だから、ほんとうにひどいのは俺たちなんだ。七緒さんに罪悪感があるのを分かってて、アライアンスなんか結んで、七緒さんを共有しようとしてる」

「……」

「七緒さんに答えを出させないようにしてるのは、俺たちなんだ」


 パンプスの傷んだ先端からにじんでくる雨水を冷たいと思い、それから意識を上に引き上げる。いずみくんの横顔を見つめると、彼は視線を感じ取ったのか静かに目を合わせてきた。

 のろのろと歩きながら、見つめ合う。


「俺も玲生も、七緒さんに自分たちを振り回させるように仕向けてるから」

「…………」


 駅前のきらきらした繁華街が近づいてきた。濡れて、より一層光って見える。

 きっとこの雨を境に、季節が動く。そんな予感のする冷たい雨だった。


「だからほんとうは七緒さんが罪悪感を感じる必要は全然ないし」

「でも」

「むしろ俺たちが悪いと思うべきなんですよね」

「あのさ」

「七緒さんは、どっちも選ばないで、このままシャントにも来なくなって、俺たちの前から消えるつもり?」


 言葉に詰まる。

 そうしようとしていたのは自分なのに、やすやすとそれをできない自分もたしかに存在しているからだ。

 きっと、ふたりにとっても、今の関係がわたしが思うように居心地がいいのだろう、楽しいのだろう。それは、彼の口ぶりから分かった。

 でもそれとこれとはやっぱり別問題な気がするし、何よりわたしの罪悪感はそんな告白ごときで解決してハイ消滅というわけにはいかないのだ。

 投げかけて、それ以後、彼はわたしからの返答を待っているようで、口を開かないし、何なら微妙に駅舎から離れた今この傘の下から逃げたらせっかくここまで無傷だったのにあれよあれよ、という狡い位置で立ち止まられてしまった。

 大人なんだかこどもなんだか、よく分からない二十五歳だ。


「わたしは……、でもやっぱり、ふたりがどう考えていようと、自分の中での常識を突き崩すのは無理だよ……」

「つまりそれは、俺たちとはこれきりってこと?」

「……」


 同じ傘の下で男に詰め寄られて言い淀んでいる女のなんと哀れなことか。

 やっぱりいずみくんは狡い。楽しい今の関係を、続けるのも手放すのも嫌ではっきりしないわたしに、こうして選択を迫ってくる。

 そしてその選択肢は、選ばせているように見えて一択だ。

 わたしが、そうだよこれきり、と答えられない聞き方をしている。


「も」

「も?」

「もう少しだけ、気持ちが落ち着いたら、またシャント行くから……」

「……」

「金曜じゃなかったら、客足は落ち着いてる?」


 バカでかいため息をついて、いずみくんが傘を持っていないほうの手で額を押さえた。


「落ち着いては、ないけど……金曜よりほかの平日のが、まだマシかな……」

「そっか」

「つうか何なんだよあの女たち、ほんとマジで酒より飯より俺の顔見に来てんのが丸見えで引くんですけど」

「そのセリフ、いずみくんの顔面だから許されてるとこあるから気をつけなね」


 いずみくんの顔面じゃなかったら勘違いもいいところの自意識過剰の馬鹿野郎になるからね。

 いずみくんの顔面だから勘違いでも自意識過剰でもないんだけどね。

 うんざりしたように、いずみくんは吐き捨てた。


「俺は、あの場所が好きなんで、変な動機でいたずらに引っかき回してくあの女どもはちょっとほんとに許せないんですよね」

「あのさ、ちょっと聞いていい?」

「なんですか」

「いずみくんは、なんでわたしのこと好きなの?」

「今それ聞く?」


 すごく、今気になった。

 だってわたしは、彼の大切なあの場所で、彼氏に婚約破棄された悲しさで飲み明かして挙句の果てにトイレに吐瀉物をぶちまけた女だぞ。

 心底嫌そうな顔をしたいずみくんにその旨を伝えると、すん、と少しまじめな顔をした。


「……たしかにね、何だこの女とは思いましたよ」

「思ったんだね」

「ふざけんなとも思いましたよ」

「……すんません」

「あんだけ醜態さらしたんだから、もう来ないだろと思って、というかそんなことすら考えてなかったのに、なんてことない顔をして入店したあんたを見て」


 いずみくんがそこで歩き出したので、慌ててついていく。駅のほうに向かっている。


「……恥ずかしいんですけど、あ、この人にとってこの場所は、俺の接客は心地が良かったのかもしれない、って思った瞬間に」

「え」

「はい駅着いたそこのコンビニで傘買って帰ってください痴漢と変質者には気をつけてあと風邪ひかないようにしてくださいねじゃあ」

「あ、ちょっと」


 屋根のあるところまで誘導されたと思ったら、口早にそう告げられて、彼はさっさと来た道を戻って行った。言わずもがな、シャントの方角、ひいては彼の自宅の方角に、だ。


「…………」


 呼び止める間もなく、背中が遠くなる。

 でも、妙に納得した。

 彼にとって、あの場所がほんとうに大切で、だからリピートしたわたしを見てうれしくなったのだ。それがいつの間に恋に変わってしまったのかはともかくとして、そういうきっかけというのは大いに合点がいく。

 そして同時に気づく。

 ああ、だから彼は、ほんとうに、自分の愛する場所を興味本位で荒らす彼女たちを、許容できないのだろうなと。


 ◆

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