第9話 修羅場製造機

 人生でそうそう修羅場というものを経験することはない。仕事でミスをして得意先に謝罪に行ったが取り付く島もなく激怒しているとかそういうのは、修羅場にカウントしないことにする。

 私生活において、痴情のもつれによる修羅場を経験したことのある人間はそう多くないのではと思っているが、わたしはつい二ヶ月前に元婚約者と修羅場を演じたばかりだと言うのに、懲りずに二度目の幕を上げていた。


「いずみさん、そういう卑怯なことするんだ」

「俺はちゃんと正々堂々告白した。偽装結婚に持ち込んだおまえのほうが卑怯だ」


 カウンターを挟んで火花を散らしている年下の男たちを見ておろおろしている三十歳の女ほど滑稽なものはない。

 なぜこのふたりがこんなに険悪なのか分からない。いずみくんは三瀬くんのことを、いい弟分と呼んでどうやらかわいがっているふうだったじゃないか。

 日曜。わたしは三瀬くんとバーで待ち合わせして、いずみくんを問いただす予定だった。実際、問いただすまではふつうの和やかな雰囲気だったのだ。いつも通り、客はわたしたち以外には静かに飲みたいらしいおじさんひとりしかおらず閑散としていたし。


「いずみくんってなんでわたしのこと好きなの?」

「あんたまだ信じてなかったんですか」

「にわかには信じがたいというかなんというか」

「……ねえ、どういうこと?」


 にこにこしていた三瀬くんが顔色を変えた。男にしては少し高めの声が地を這うように低くなっていて、ん、と思ったときにはすでに、彼は眉間に皺を寄せ、厳しい顔をしてわたしといずみくんを見ていた。


「いずみさん、告白したの? いつ?」

「玲生には関係ないだろ、別に」

「七緒ちゃん、結婚の話したときいずみさんのことなんて話にも出さなかったってことは、俺よりあとだよね」


 変なところで鼻が利くんだな、と思っていると、三瀬くんはきりっといずみくんを睨みつけた。


「いずみさん、そういう卑怯なことするんだ」


 さて、どうして三瀬くんがこんなに怒っているのかがよく分からない。しかし、いずみくんはこの反応が予想の範疇だったと言わんばかりに冷静な顔をしている。


「七緒ちゃんは俺の申し出を受け入れたんだから、それを分かってて今更告白するほうが卑怯だよ」

「……玲生、おまえ、七緒さんにさ、お互い好きな人ができたら円満に離婚するって言ったんだよな?」


 カウンターに肘をつき、にやりと笑う。なんだか、妙に色っぽいそのしぐさに先ほどまでとは別の意味でどぎまぎしていると、三瀬くんはちらりとわたしのほうにその涼しい視線を送り、にっこり笑った。しかし、その笑は、どこか攻撃的だ。わたしを見つめたまま、彼はいずみくんに話しかける。


「いずみさんとなると話は全然違ってくるんだよね」

「そりゃ屁理屈だ」

「そうでもないよ。自分の過去の所業を思い出してくれるかな」

「……なんのことだか」


 仲良しなんだなあ、と思いながらほんの少しうらやましく見ている。わたしには、こんなふうに喧嘩できる友達がいないような気がする。なんだかんだとおべっかを使い、相手を傷つけないよう注意を払いながら楽しく笑い合うだけの友達しかいないような。

 別にそれがいやだと言っているんじゃない。ネガティブな関係は自分にとってストレスがたまるし、喧嘩なんかしないで済むならそれが一番だ。

 ただ、こういうふうに何かあったときに言いたいことを言い合えるというのは、なんだかすごくうらやましい。

 ……ところでこの場合の何かって、なんだ。


「三年前」


 三瀬くんが、不意にわたしから視線を外して硬い声を出した。


「俺が好きだった女の子と付き合い始めたよね」

「あれは偶然だろ」

「俺が、好きだって知ってたよね」

「おまえが好きだったら自分の恋心を殺さなきゃなんないの?」

「すぐに別れた」

「結局相性がいまいちで」


 思いのほか因縁が深いことに気づき、そしてなぜかわたしを含めぬ新たな修羅場が生まれている気がして、心の中で野次馬の悲鳴を上げていると、三瀬くんは叩きつけるように吐き捨てた。


「どうせ七緒ちゃんのこともその一環なんでしょ」


 急にわたしの名前が出てきて、どうつながるのだ、と目を白黒させる。蚊帳の外の気持ちでいたもので、慌てて飲みかけていたカクテルから口を離す。


「わたし?」

「たった一度そういうことがあっただけで、早合点すぎないか」


 話を頭の中で整理して、不意に思い当たる。

 三瀬くんの好きな人を略奪したいずみくん。三瀬くんと結婚することになったわたし。そのわたしに告白したいずみくん。


「いずみくん、もしかして三瀬くんの相手にちょっかいかけたくてわたしに好きって言ったの」

「違いますよ、そういう濡れ衣ほんとうにやめて」


 あきれたようにため息をつき、苦々しい顔をつくってみせたいずみくんに、すかさず三瀬くんが噛みつく。


「嘘だよ、いずみさんはいつもそうだ、俺の恋路を邪魔して涼しい顔して何事もなかったように振る舞う」


 そのときの三瀬くんの悲しそうな顔と言ったら、ぐしゃ、とゆで卵を潰したような音がした心地だった。

 なぜ、偽装結婚の相手を取られそうになっただけでそんなに悲しそうな顔ができるのか分からなかった。もしかして、五年前にいずみくんに略奪された相手のことがすごく好きだったのかもしれない。

 もうあんな思いはしたくないと、二度と好きな人を奪われまいと……、……。


「えっ?」

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