第20話 セーフ・セーフ・アウト
「?」
「俺……今はまだ七緒ちゃんの眼中にないかもしれないけど、でも、いつか男として見てもらえるように、意識してもらえるように頑張るから!」
肩の荷がひとつ下りて、ここに来た。それは、きっとここに玲生くんがいてわたしを待ってくれているという確信からだった。母親と決裂したあとで、ふたりの顔を見たいな、と思ったことは、ごまかしようのないわたしの正直な気持ちだ。
「だいじょぶ、玲生くんちゃんと男の子だし、いつかかわいい彼女できるよ」
「残酷」
いずみくんがぼそっと呟く。でも玲生くんは、わたしが遠回しに拒否してもめげない。
「そうだよね! たとえば七緒ちゃんとかね!」
「いずみくん、サングリアの赤ちょうだい」
「無視してやるなよ……」
出された赤い液体を飲みながら、ぽつりと口に出す。
「しばらく恋愛はいいけど……、結婚のこと考えなくてよくなったし、まあ年下もありかもね……」
「……」
「……」
そうだよなあ、結婚してもしなくてもいいんだから、わたしはきっともっと自由になれる。あ、婚活サイト、解約しておこう。結局、高い会費払ったのも無駄になったなあ。
結婚はタイミング、とよく言うけど、ほんとうにその通りだ。タイミングは向こうから訪れるものでこちらがつくるものではない。少なくともわたしにとって、機会というものはつくれるものではなかった。
サングリアがおいしくて、すぐに飲み干してしまう。
「いずみくん、これおいしいね。自家製? 白もちょうだい」
「七緒さん」
「ん?」
「なんで、実家帰った足でここに来たんですか」
何を問われているのかよく分からなくてメニュー表のカクテル一覧を眺めていた視線を上げると、彼は、真剣な顔をしていた。
それで、ああ、わたしも真剣に答えなくてはいけないのだと、理解した。
「……わたしね、親と駄目になったあとで、ここに玲生くんがいてくれる気がした」
「……」
「いずみくんと玲生くんに、会いたかった」
まじめな顔をして、正直に言う。
好きであるか、愛していないか、そういうことはまだよく分からない。三十歳の女なんて、何ひとつとして分かっちゃいない、こども以下の存在だ。赤信号も平気で渡るし、燃えるごみのところに新聞紙捨てちゃうし、なんにも知らないし週末のバーで安いピクルス盛り合わせとカクテル一杯で五時間粘る。
だけどひとつだけたしかなことは、たぶんわたしはわたしを支えてくれたこのふたりのことが、大切なんだろう、どんなかたちであれ。
「ありがとう」
ふたりは、黙っている。じっとわたしを見つめたまま、黙っている。
「…………白、まだ?」
照れくさくなってごまかすように催促すると、いずみくんが消えた。もとい、カウンターの向こう側でしゃがみ込んだ。
「いずみくん?」
身を乗り出して覗き込むと、顔を手で覆っている。
「あんた……反則だろ……」
どうやら、わたしの素直な気持ちはこの不遜で不敵で食えない男を照れさせたらしい。ちょっといい気分になって、玲生くんのほうを振り返る。と、こちらはちょっぴり神妙な顔をしていた。
「……俺こそ、ありがとう……でも」
「ん?」
「俺、七緒ちゃんに一個だけ、謝らなきゃいけないことが…………」
「な、なに」
あまりにも深刻な顔をしているので、よっぽどのことがあるとうかがえる。身構えて、玲生くんの言葉を待つ。
「七緒ちゃんに吐いてホテルに連れ込んだ夜……っていうか朝?」
ごくり。と、わたしと玲生くんが唾を飲み込むしぐさがかぶる。
「…………ごめんなさい、おっぱいを揉みました」
がく、と身体の力が抜ける。
「そんなこと……?」
「そんなことじゃないよ! 俺ほんとはずっと罪悪感でいっぱいで!」
「いやまあたしかにそんなことではないけど、でも揉んだだけでしょ?」
「七緒ちゃんもっと自分のこと大事にして!」
涙目でわたしの肩を掴んで揺らした玲生くんは、きっとほんとうに、出来心で胸を揉んだのをずっと気に病んでいたのだ。かわいいやつだな、でも、ここまで親しくなってから打ち明けているのは、まあ狡い。
大した仲でなければふざけんなと言えたものを、ここまで仲良くなってからだと言いづらいじゃないか。その辺を、彼は計算しているのだろうか。
「いいよお、減るもんじゃないし」
「減る! なんか、たぶん減るよ!」
よっぽどの罪悪感があったのか、わたしの大して気にしていない態度がショックだったのか、玲生くんがいつの間にか立ち上がっていたいずみくんに助けを求める。
「ねえいずみさん! やっぱり意識のない相手に無理やりなんて駄目だよね! たとえ胸を揉むだけでも、狡いよね!」
「……まあ、そうだな」
「…………いずみさん?」
分かりやすく視線を合わせないいずみくんに、玲生くんが何か勘づいた。わたしも、勘づいた。
「いずみさん、先週七緒ちゃんに何かしたね?」
しれっとした顔で、いずみくんがこともなげに言う。
「入れてないから断然セーフだろ」
「何したの! ちょっと! ねえ! いずみさん!」
セックスしてない、とたしかにいずみくんは言った。でも、彼の言うセックスが挿入を表すのなら、それ以外のことをしても、彼は嘘をついていないことになる。
「ちょっと、いずみくん……」
「何? 胸揉まれるのくらいそんなことなんでしょ?」
「絶対それ以上のことしたよね?」
「さあね」
さっきまでのかわいい年相応の彼はどこへ。したたかな笑みを浮かべてわたしに白のサングリアが入ったグラスを差し出した。
「だから言ったでしょ、甘えてきてかわいかった、って」
「あれってそういう意味だったの……」
「いずみさんだけは絶対やっぱり許さない!」
きゃんきゃん吠えている玲生くんのとなりで、唖然としてしまう。知らない間に胸を揉まれて、挿入こそされてないがなんかどえらいことをされている自分の酒癖の悪さに、だ。
しばらく酒は控えよう……そう心に決めて、この白いサングリアを最後に断酒することにした。
◆
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