第2話 行きつけのバーで

 意気込んで街へと繰り出し、最近見つけてちょっと常連になりつつある路地裏のこぢんまりしたバーへと顔を出す。


「あれ、七緒ななおさん今日も来たんですか」

「来ちゃいけないの?」

「いや、昨日来なかったから、とうとうやけ酒も卒業かと思ったんですけどね」


 わたしより少し年下かなという感じのバーテンダーに声をかけられ、そんなことを言われて眉が寄る。

 たしかに、彼氏と別れてから毎週末ここに通っている気がする。

 三十歳の独り身のしがないOLには毎週酒場で遊んで有り余る富などない。だから、ロングのカクテルと軽食で粘って粘るスタイルである。

 初めてこのバーを訪れたときは、とにかく酔いたくて強いやつを次々と、バーテンダーに止められるまで頼んだ。ついでに言うとバーのトイレで戻した。げえげえ戻しながら、元彼への恨みつらみも一緒にげろげろと吐き出した。あと泣いた。

 たぶんそれで、この若いバーテンダーにばっちり顔を覚えられてしまったのだろう。ふつうの神経なら、店員に介抱させた店には二度と来ないだろうから、彼も来るとは思っていなかったようで、二回目の来店時には、いらっしゃいませと顔を上げた彼に「えっ」と言われたのだ。

 スツールに腰かけて、チャイナブルーとピクルスの盛り合わせを頼む。ため息をついて準備を始めたバーテンダーに詰め寄る。


「だいたい、それが客に対する態度かな? もっとにこやかにいらっしゃいませ~とか言えないの」

「ピクルス盛り合わせと一杯のカクテルと水で五時間粘る人はうちの客ではないんですよ」


 今時ファミレスでもそんなに粘らん、とぼやく彼のなかなか男前な濃い横顔を睨みつけ、出てきたピクルスに手を伸ばす。


「そうかな~、この店そんなに流行ってないみたいだし、わたしみたいなのでも来てくれるだけありがたいんじゃないのかな~」


 店内を見回しても、カウンター席が五席、テーブル席が二組、今日のところ客はカウンターにひとりだけだ。サタデーナイトなのに。

 ということを指摘するとどこか憂うような顔をしたバーテンダーがこれ見よがしにふたたびため息をつく。


「分かってないなあ……。七緒さんみたいな客は来ても来なくても一緒、むしろピクルスの無駄です」

「ひどい」


 がりがりとにんじんのピクルスを噛みながら、分かりやすく泣き真似をして見せるも、こののほほんとした男には通じない。


「いっつもいっつもロングドリンクとピクルス盛り合わせって……そろそろボーナスの季節でしょ、お金、うちにも落としていってくださいよ」

「残念ながら今期のボーナスは引っ越しに充てるの」


 カクテルを用意しながら、彼はへえと相槌を打つ。


「引っ越すんですか? またどうして?」

「だって今の家は、最初に就職した会社ありきで決めたから、転職した今となっては若干遠いし、それにこれを機に、彼の置いていった荷物全部捨ててやろうと思って」

「なるほど、身辺整理ですね」

「平たく言えばね」


 目の前のカウンターに、淡い水色のカクテルが入ったグラスが置かれる。

 ピクルスをつまみながら、ちらりと、カウンター席の一番端に座っている客に目をやった。

 座っているからなんとなくしか分からないが、たぶん立てばすらりと背が高いだろうことが予想できる背中の折り曲げ方だった。黒い髪の毛が首筋に沿うように優しいカーブを描いて伸びていて、肌色は白い。前髪が長いので表情がよく分からないものの、そこから飛び出した鼻は驚くほど高かった。

 なんとなく、ハイブランド、とまではいかないもののけっこういいお値段のしそうな服を着ていて、近寄るといい匂いがしそうな男だった。

 こんな男がこんな場末のバーで飲んだくれているとは……と残念に思う。

 そう、彼はちらりと見ただけで分かるほど、飲んだくれているのだ。


「七緒さん」


 バーテンダーが、わたしの視線の先に気がついたようで、小さく咳払いして諫めるような声を出す。慌てて目を逸らし、ピクルスを口に含んだ。


「かわいそうに、失恋かな」

「七緒さん」

「このバーは失恋者御用達なの?」

「七緒さんってば」


 囁く音量のまま口調を荒らげた彼が、ふと何かに勘づいたように口をつぐみ、それから確信を持った口調で詰め寄ってきた。


「……七緒さん、ここに来る前にすでに引っかけてきましたね?」


 何を? なんてとぼけるまでもない。わたしは知り合いの結婚報告を歯ぎしりして見つめながら酒を飲んでいた。そうか、すでにわたしは酔っているのか。

 自覚するとなぜかとっても楽しい気持ちになってきた。


「そっか、わたし酔ってるんだ~」

「相当飲んできましたね?」

「いや、缶チューハイ三本だけ」

「あのね、七緒さん弱いんだから」


 三本も飲んだのかよ、とぼやきながら水の入ったグラスが差し出され、チャイナブルーが没収される。


「お代いりませんので、もう飲むのやめてください」

「ほんとさ~きみはさ~」


 ほんとうによくできたお兄ちゃんではあるものの、いかんせん気が利きすぎて小姑みたいだ。女の子に、モテないぞ。

 それをそのまま口に出す。


「そんな気の利かせ方だと女の子にモテないぞ」

「誰彼構わずモテたいわけじゃないので。その辺勘違いしないでください」


 冷たく言い放たれて、ぶうぶう言っていると、カウンターの隅で飲んだくれていた男が声を上げた。


「ねえ、なんか強いやつちょうだい」


 バーテンダーがわたしの前から離れ、彼のほうへ向かい、いつかわたしにそうしたようにやんわりと飲酒を制止する。


「お客様、あまり飲みすぎるとお身体によくないですよ」

「あ~あ~、なんも聞こえない~」


 ガキか。

 という感想を抱くのと同時に、そうわめいて首を振った男のかんばせがあらわになる。

 けっこうないい男だった。すっと通った鼻筋に、切れ長の決して重たくない涼しげな二重の目元、そして行儀よく尖っている薄い唇。ほんのりと薄紅色に染まっている頬が、少し、幼い感じに見えて、たぶん、いや絶対わたしより年下だろうなあと思う。

 ぼんやりと、まだ飲む、いいややめとけ、のやり取りを見守っていると、ふと男がこちらを見た。ころんと丸い瞳と視線が嚙み合って、美男子に見つめられるという経験があまりないわたしは、ちょっとどぎまぎしてしまう。


「……ねえお姉さん」

「はい?」


 片頬杖をついてこちらを見つめている彼は、その口元を不意に緩め、スツールから降りた。足元が心地よくふらついていて、あ、本格的にこの男はもう飲まないほうがいい、と思う。

 見ていて不安になるくらいに酔っ払っている男をはらはらと見つめていると、彼はわたしの席のとなりに座って言った。


「お姉さん、俺と結婚しようよ」

「…………はい?」


 ◆

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