第30話 クリスマスデート? 2

「さぁて。このあとは、どないするかなぁ」

 え……。誘っておいて、もしかして無計画?

 片頬をひくつかせて、暢気にそんな事を口走る水上さんを驚いて見てしまった。

「明は、どっか行きたいとこ、ないんか?」

 そんな、いきなり訊かれても。

 今日付き合えって拉致った本人が、このあとの行き先考えてないなんて思いもしなかったよ。

 連れ出したのに丸投げされた上に、高級店での疲れも出てグッタリとしてしまう。

「特には……」

 何も思い浮かばなかったので、正直にそう言った。

 だって、この時期どこも混んでいるだろうし、わざわざそんなところへ行く気力もない。さっきの高級店で疲れちゃったから、今は公園のベンチでもいいからとにかく座りたい。

「なんや」

 露骨に疲れた顔をしてしまっていたようで、「疲れたんか?」と珍しく気遣ってくれた。

 あ、珍しくは、余計だね。

「うん」

 その気遣いに、素直に首を縦に振る。

「ほなら、どっかで茶ぁでもするか」

 そういうと、自然にスッと手を握られる。

 あんまり当たり前のように手と手が繋がったせいで、一瞬違和感を覚えなかったけれど、数歩進んでから手を引かれているということに、心臓が高飛び選手くらいには飛んだ。いや、トランポリン選手のような弾み方?

 疑問系なのは、自分の体のことなのに、いまいちよく解らないからだ。

 とにかく、何故なのか心臓がやたら滅多ら反応している。

 さっきの不快感ともまた違うけれど、この例えようのない体調の悪さは、どうしてなのだろう? 

 一度、お医者様に診て貰った方がいいのかもしれない。

 キョロキョロと、お茶ができそうなお店を探しながら歩いてはみても、クリスマスの銀座にそんな都合よく席の空いている店などなかなか見つかるはずがない。

「どっこも、混んどるなぁ」

 当たり前じゃん、などという突っ込みも疲れのせいか口からは出てこない。ただ、黙って手を引かれて歩くだけ。

 三〇分ほどそうして歩き続け、ようやく席の空いている店を見つけた。今流行りのカフェなんて言葉は到底似合わない、昔ながらの純喫茶だ。木枠の重そうなドアを開ければ、カウベルが低めの音を出して迎える。

 中は少しばかり高級そうで、席に居るのはおじ様と言うかサラリーマンが多い。

 みんな一様に新聞を広げ、テーブルでは煙草の煙が灰皿から立ち昇り、それが決まりとでもいうように、みんながみんなコーヒーを飲んでいる。

 たまには、甘ーいココアを飲んでいるおやじが居てもいいと思うんだけど。

 あ、メタボを気にしているから甘いのは避けてるとか? なんて……。

 やっと休めると安心したせいか、思考がくだらない事を妄想し始めた。

「なかなかに渋い店だね……」

 一通り店内を見渡し、若干の皮肉も込めて笑ってみた。

 皮肉に気付いているのかいないのか、「こういう店のが落ち着くやんか」と空いた窓際の席にドサリと腰掛ける。

 確かに、水上さんの知名度は意外と高いらしいから、その辺の若者溢れるカフェに入ったところで、落ち着いてお茶などできないだろう。

 わけもわからず、ファン心理の的になって巻き込まれるのも困る。意外と、というのは、最近テレビを見るようになってそう知ったからだ。

 以前の私なら、水上? 誰それ? てな感じだったわけで。ミュージシャンが隣の席でお茶してようが、凌みたいな売れっ子のモデルが傍にいようが気づきもしなかっただろう。

 このお仕事を始めて水上さんの存在を理解してからは、一緒に居て目立つ行動はなるべく避けた方がいいという考えを身につけた。

 このおやじばかりが屯う昔ながらの喫茶店という場所は、絶好の隠れ家というわけだ。

 程なくして、口髭を生やしたマスターが、水の入ったグラスとメニューを持って現れた。

「なににいたしますか?」

 自分よりもはるかに年下でチャライ男と貧乏女を差別する事もなく、丁寧に訊ねられる。

「コーヒー」

 水上さんが迷いなく応える。やっぱりコーヒーを注文するのが、決まりごとなのかもしれない。

 しかし、そんな決まりごとの報告など受けていないので、疲れているせいか甘いものに目がいってしまう。

 見ていたメニューのページには、デザートの名前がいくつも並んでいる。

「それ、食うんか?」

 開いているページを覗き込んでくる。メニューには、冬の寒さも忘れさせてしまうほどに、美味しそうなパフェの写真たちが載っていた。

「え? あ、いえいえ」

 訊ねられてしまうと、つい遠慮してしまい、慌ててページを飲物のところへと変えた。

「食いたいなら頼んでもええけど、メシ食われんようになるで」

 メシ? そうか、この後の予定は一応考えているのですね。アクセサリー店以降は、総てが行き当たりばったりの無計画だと思ってた。

 夕ご飯は、一体なんだろう。物によっては、ここでのデザートからは手を引いた方が賢いだろう。

 前回の表参道の時のように、レストランへ連れて行ってくれるのだろうか?

 そうよね、きっとそうだよ。だって、ここは大人の高級な街、銀座だもん。

 ここまで来て、庶民の居酒屋へ行くなんて、言うわけないよね?

 あ、別に居酒屋がダメっていうわけじゃないよ。でもさ、なんてったって、今日はキリスト生誕の日なわけだし。さっきも言ったように、ここは高級店が犇めき合う大人の街、“銀座”なのだから。何もここまで来て、居酒屋へ、GO! なんてこともないでしょ。

 畳みかけるように考え、いつからこんなに高級志向になったのだろうなんて思う。

 人が食べられる、ゲテモノ以外のものなら何でもありがたくいただいちゃいます、ってな感じだったのに、気がつけばちょっとお高い料理を期待している。

 慣れというものと、人の欲というものは怖いものだ。

 首を横に振り、自分の低俗さに肩を竦めた。

 なんだかんだと講釈を垂れつつも、美味しい料理を期待し、後ろ髪を引かれながらパフェを諦め、同じコーヒーを注文した。

 マスターが下がると、水上さんは被っていたキャップと着ていたダウンを脱ぐ。

 水上さんに倣って、コートを脱ぎ傍らに置いた。

 さっきまで帽子に押さえつけられていたせいか、髪の毛がぺったりとしている。

 それを嫌がるように、髪の毛をバサバサとわざとグチャグチャにしてからスッと後ろにかき上げた。

 その辺の男がそんな仕草をした日には、なにチャラチャラしてんだよっ、なんて思うこと必至だろうけれど、様になっているその姿は、ただ、ただ、カッコイイと思わざるを得ない。

 さすが人気バンドのヴォーカリストだ。

 そんな水上さんの傍らには、さっき買ったアクセサリーの小袋が置かれている。

 どんな人が、それを貰うのだろう?

 ふと、考えがよぎる。自分には関係のないことなのに、どうしてか思考を持っていかれてしまうった。

 アクセサリーをプレゼントされる女性は、水上さんの事をどう想っているのだろう?

 お互い好き同士なのだろうか? それとも、水上さんの片想い?

 水上さんは、その女性の事をどれくらい好きなのだろう?

 仕事が忙しいみたいだし、逢う時間はあるのかな?

 ぼんやりと物思いに耽りながら、アクセサリーの袋を見つめ続けていた。

「なにアホ面しとるん」

 腕を組んで背凭れにふんぞり返りながらからかってきた。

「元々こういう顔なの」

 負けじと言い返す。

 “です”“ます“を禁止にされているだけに、対等な物言いになってしまうが仕方ない。

 目の前の本人が、そうしろというのだから。

「せやった、せやった。元々そんな顔やったわ」

 ケタケタと声を上げ、楽しそうな顔をする。

 小馬鹿にされていると、程なくしてコーヒーが運ばれてきた。湯気の上がるカップからは、とてもいい香りが立ち昇っている。

 ひと口含み、心の内で、おおっ! と声が上がった。

 外でコーヒーを飲むなんて行為は贅沢この上ない事で、コーヒーの味に精通しているわけではないけれど、それでもわかるこの美味しさ。

 以前、凌と再会した時にもコーヒーを飲んだけれど、チェーン店のカフェなど比較にならないほどに美味しい。

 この味を出せるから銀座というこの場所で、喫茶店を続けられるのかもしれない。

「美味しいね」

 同意を求めるように口にし、目を細めてコーヒーのカップを口元へと運ぶ。

「せやな。本格的に淹れとる感じやな」

 分かっているのかいないのか、ズズズッと音を立て緑茶をすするようにしている姿に、苦笑いを浮かべた。

「なぁ、あかり」

「ん?」

 カップを口元へ持って行くと、背凭れに寄りかかったままの水上さんが、視線をはずすようにして問いかけてくる。

「昨日の事やけど……」

 昨日……。凌と出かけて遅くなった、昨日のイヴの事か。

「兄貴は、どんな感じやった?」

「え? どんなって……普段どおりだったけど……」

「そおかぁ。兄妹で、どんな話するん?」

 世間話のように昨日の事を訊いてくる。

「どんな話……」

 凌から、一緒に暮らそうと言われた事を思い出す。私のためにと凌が用意したらしいマンションの一室。ずっと責任を感じ続けていた凌が、一緒に暮らすのを望んでいる事を。

「凌は……、責任を感じちゃってるみたいなんだよね」

 できるだけなんでもないことのように、昨夜のことを軽い口調で話し始めた。

「責任?」

「うん。私に全部の借金背負わせて、自分はそれを知らずに今日まで楽して来たって、凄く辛そうに言うんだ……。なんか、まいっちゃった」

 語尾に、取って付けたような笑いをくっ付ける。なのに水上さんは、真剣な顔を崩さない。

「借金は、確か兄貴のおやじが作ったものやんな?」

「うん、そう。だから、私には関係のないことと言ってしまえばそれまでだけど。でも、こうなるには、色々あったから……」

 山崎の父が、凌に暴力を振るっていた事実。私だけ受けなかったその暴力。

 後悔しているのは、凌だけじゃない。

 凌一人にだけそんな思いを味あわせてしまった事を、私だって後悔しているんだ。

 今考えればそういう思いがあったからこそ、素直に借金を背負い続けてきたのかもしれない。

 口ではなんだかんだと文句を垂れながらも、探し出してでも凌に借金を払わせようと思わなかったのは、過去の出来事に私自身が後悔していたからだ。

「凌がね、一緒に暮らそうなんて言い出して」

 笑い話のようにして、コーヒーを口に含む。苦味が口内を満たし、心の内側にまで沁み込んでいくようだ。

 水上さんはといえば、異様な驚きようだ。

「えっ!」

 なんて、目をまん丸にひん剥いている。

 そのせいで、僅かに逸らすようにしていた視線が急に合った。

「私のために、部屋を一つ用意してあるんだって。せっかく再会できたわけだし、この際一緒に居るのがいいんじゃないかっていうの。こういうのって、シスコンて言うのかな」

 また会話に笑いを混ぜ合わせたのだけれど、水上さんの表情はやっぱり真剣なままだった。

「兄貴と……暮らすんか?」

 真剣な表情のあとは、少しばかり声を震わせ神妙な面持ちになった。その顔に向かって、凌にしたときと同じように首を横に振った。

「今のままがいい。ここまで頑張ってきたし、今の仕事、結構好きだし。だから、今のままがいい。あ、でも水上さんが出て行けって言うなら、すぐに出ますけど……」

 こんな風に言ってしまてから、さっさと兄貴のところへ行け、とでも言われるかも知れないなと少しばかり焦った。

 けれど、水上さんの口からは、私にとって嬉しい言葉が零れ出た。

「出て行かんでもええし」

「英嗣……」

「前も言ったけど、明がおらんと、俺が困る」

 あの時と同じように、少しばかり照れたような表情を浮かべている。

「兄貴の家がどこか知らんけど、通いの仕事になったら朝、大変やろう。帰りやって、遅くなったら危ないやんけ……」

 身を案じるようなセリフが、何だかくすぐったくも嬉しい。

「うん。そうだね」

「それに、ここよりええ仕事なんか、他にないやろ?」

「うん、本当に。こんなわりのいいお仕事をいただけて、感謝してます」

 改まったように、ペコリと頭を下げた。

 水上さんは、そん風にされるのは苦手らしく、ポリポリと頭をかきガブガブとコーヒーを飲んでいる。

「借金返すまで、こき使ったるさかいな。覚悟しときい」

 わざとらしく悪そうな顔をして、片方の口角を上げる。そんな表情が可笑しくて、自然と笑みがこぼれ出た。


 喫茶店でしばらくのんびりして、疲れを癒してから外へ出た。夕方前の街は、なんだか忙しなく人が行き交っている気がする。約束の場所に誰よりも早く向わなくちゃ、とでもいうように、都会の人の足取りはやけに速い。

 そんな波にのまれる事もなく、水上さんはのんびりとした歩調を崩さなかった。

「次は、食事だよね」

「せやな」

 コーヒー一杯では満たされなかったお腹を抱え、どんなご飯を食べられるのかとウキウキしていた。美味しい食事をあれこれ想像し、スキップでもしそうな姿を見て、水上さんは笑いを浮かべている。

 水上さんの片手に握られた小袋をチラリと横目に見て、心なしかウキウキが低下した。真剣な表情で選んでいた贈り物を目にするたびに、何故か心に薄っすらと膜が張る。

 緞帳ほど重っ苦しい物ではないけれど、蜘蛛の巣ほどには鬱陶しくて、手で払い除けてはみるものの、見えない糸は所々絡みついて顔を顰めずにはいられない。

 浮き足立った歩調が緩むと、腹減りすぎて動けなくなりよったか? とからかう水上さんに、ただ笑い顔を返すしかなかった。

 水上さんが予約を入れていたのは、シェフの名前が店名になっている無国籍料理のお店だった。シェフの名前は、無知な私でも知っていた。

 店内は、ベージュとブラウンを基調にした明るめの優しい雰囲気を漂わせている。歩くたびに、木の床板がコンクリートとは違う優しい衝撃を与える。ヒールを履いていれば、心地よくコツコツと木板が音を奏でていた事だろう。

 生憎、私も水上さんもスニーカーだったので、その感覚を味わうには至らなかったけれど。

 て、水上さんがヒールを履いてたら恐いか。

 案内されたのは、二階にあるゆったりとした個室で、夜の銀座が見下ろせる席だ。

 椅子を引かれて席に着くと、飲物のメニューを手渡される。

 昨日、凌と食べたレストランと同じように、料理はクリスマスのコースに決まっているみたいだ。

「何がええ? ワインでええか? あ、最初にシャンパン一杯頼もか」

 水上さんは、一人で言って一人でどんどん先に決めていく。口をはさむ余地もないけれど、優柔不断でいつまでもメニューを決められない男よりかはずっといい。

 飲物を任せ、ぼんやりと窓の外へ視線向けていた。

 銀座なんていう大人の街で、クリスマスの夜に水上さんと向かい合い食事をする。身なりに気を遣ってくれたのか、前回同様にカジュアルなお店だ。

 水上さん自身も、気取ったお店よりはこういうほうがまだいいと思っているのだろうけれど、気遣いは伝わってくる。

 普段の言葉は暴力的だけど、水上さんは優しい。

 窓の外へ向けていた視線を戻すと、目の前でワイングラスに注がれたお水を口に含んでいた。料理を待ちきれないのか、キョロキョロと個室内の装飾などを眺めている。

 そんな彼を見ていたら、どうしてだか自分の事を訊いて欲しくなった。夜の空気や、ここの雰囲気に酔ってしまったのかもしれない。

「英嗣」

「ん?」

「なんか、不思議だよね」

「ん?」

 最初の返事とはトーンを少し変えて、何を言い出したのかと怪訝な表情を浮かべている。

「私さ。自分がこんな風に素敵なお店で食事をして、英嗣から買って貰った可愛いコートを着たりできるなんて、ちっとも考えたことなかったよ」

 しみじみと話し始めると、水上さんはただ黙って耳を傾けてくれた。

「毎日できる限りたくさんの仕事をして、ただ黙々と借金を返して。いつかは、こういう生活から逃れたいと思っていたけど、そんな日が来るとは到底思えなかった。だから、同じくらいの子達のように買い物をしたり、食事をしたりなんてことを想像する事もしなかった。……ううん、違うな。想像しないようにしていたの。だって、そんなの想像したって無理なことだし、悲しくなるだけだから……」

 華やぐ店内とは裏腹に話し出した話題のせいで、この空間がしんみりと色を暗くしていくようだ。

 まるで、夕暮れの帰り道。誰も居ない家に、たった一人で帰って行くみたい。自然と自身の表情も冴えなくなり、笑顔も薄くなっていった。

「最初は、借金なんてすぐに返せる、なんていつもの調子でお気楽に考えていたの。けど、一年経っても、二年経っても、利息を払うだけで精一杯。こんなに働いてるのに、現実は厳しいなぁ、なんて項垂れて。それでも、働いて少しでも返さなきゃもっと借金は増えていっちゃう。だから、働いて、働いて……。頼る人なんか居なかったけど、それでも働いた先の店長や大将はいつもよくしてくれていたから、それだけでも恵まれてるって思ってた。そしたら、突然英嗣が現れた」

「なんや、突然なんて、泥棒やお化けみたいやな」

 ここの空気を少しでも明るいものにしようというように、少しだけ笑いを含ませる。

「喫茶店でも言ったけど。本当に感謝してるんだ。こうやって、借金以外の事を考えられるのも、楽しむことができるのも、英嗣が雇ってくれたからだもん」

「べ、別に。俺は、ただ、よう働く女をみつけただけやし……」

 照れ隠しのようにグラスの水を空になるまで飲み干すと、そこへ前菜とワインが運ばれてきて、話は一旦途切れる。

 グラスに注がれるワインを眺め、綺麗に飾り付けられた料理を二人で堪能する。途中になってしまった話はそのままに、ただ黙々と出てくる料理を味わった。

 水上さんは、以前のようにワインをがぶ飲みする事もなく、終始落ち着いた様子で料理を口に運んでいた。

 コースの終盤。運ばれてきたのは、ここの一押し。フルーツが入ったロールケーキを、クリスマス用にデコレートしたものだった。

 デザートの段階になると、久しぶりだ、とでもいうように水上さんが口を開いた。

「このケーキ、上手いらしいで。シュウが言っとった」

 シュウというのは、メンバーでギタリストのシュウ君のことだ。

「そうなんだ」

 期待値を高め、フォークを手にしてひと口頬張る。なめらかなクリームの口当たりと、しっとりふわふわのスポンジ。クリームの甘さを殺すことなく存在する様々なフルーツが、とてもジューシーだった。

「本当だぁ。美味しい」

 口の中に広がる甘みに、さっきまで曇っていた表情が自然と明るくなっていく。

「年中、そういう顔しとれ」

「え?」

 口の中にまだあるケーキに頬を膨らませていると、水上さんが静かに呟いた。

「明は、あれこれ考えんでもええんや。今目の前にある現実だけ、しっかり見て生きとればそれでええ。借金はエライ大変やろうけど、俺んところで地道に働いて、徐々に返していけばええ。そしたら時々息抜きに旨いメシ食わして、酒飲ましたる。明は、楽しいと思うことに声を上げて笑えばええ」

「英嗣」

 まるで、愛人を囲っている男のセリフだね、なんてふざけた事は言わない。だって、心に直球で届いたから。

 英嗣の優しさが、真っ直ぐ届いたから。

「ありがと」

 英嗣と同じように、照れ隠しに大きな口でケーキを頬張った。

 この日から心の中でも、彼の名前は“水上さん”から“英嗣”へと変化した。

 身近な存在へと、また一歩近づいた気がした。

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