第20話 内緒の仕事 2
凌がグラスを三杯空けた頃、約束の時間がやってきた。
さっきまで、こいつ酔ってるだろ? なんて怪しんでいたけれど、時間が迫った頃には、岸谷さんにグラスを下げてもらい、いつ彼女が現れてもいいように表情を引き締めている。
対角上のソファからL字の短い方へと場所を移動し、凌と同じように表情を引き締める。
すると、入口に目をやったままの凌が口を開いた。
「あかり」
「ん?」
「そこじゃなくて、隣に座って」
「え?」
隣って、凌の隣?
隣といえば、そこしかないだろう、という当たり前の事を疑問に思ってしまうのは、できれば近づきたくなかったのに、という幼い頃の蟠りのせい。
「好きな者同士なんだ。隣に座っているほうが、自然だろ?」
確かにそうだけど。
L字のソファだからといって、長い方に一人、短い方に一人と区切って座るのもおかしな話なのはわかっているが、つい条件反射というものか、距離をとってしまった。
仕方なしに凌の隣に腰を下ろす。
すぐ隣に座ってみて初めて気がついたけれど、凌からはほんのりいい香りがした。
香水? これが、大人のたしなみってやつ?
凌は、遠い世界にいるのだと改めて思った。
姿勢を正していると、岸谷さんに導かれヒールの音と共に一人の女性が現れた。凌の彼女、奈菜美さんだ。
姿が見えた瞬間、凌が私の腰を抱くように引き寄せる。まるで、恋人同士のように。って、そういう演出だから当たり前か。
分かってはいたけど、急にされたその行動に驚いて、つい凌をガン見してしまった。
恋人のふりを徹底しろとでもいうように、落ち着いた視線で見返される。
けれど、抱かれた腰が、モゾモゾとくすぐったく感じてならない。兄妹とはいえ、こんな風に男の人にされた事などないからだ。
相手が凌だとわかっていても、こういった行為自体に慣れていないせいで、心臓がバクバクと反応を示していた。それでもお仕事だからと言い聞かせ、表情に出さないように頑張った。
現れた奈菜美さんは、すらりとした身長に、ストレートの長い髪の毛がきれいに背中まで伸びている美人さんだった。
脱いだコートを右手に持ち、ベルベット地のシックなワンピースを嫌味なく、上品に着こなしている。瞳は少し切れ長で、長いまつげが印象的。
ゴテゴテと化粧をしているわけでもないのに、すっきりとした鼻筋とその瞳のせいか、ナチュラルなのに綺麗さが際立っていた。
多分、街で彼女を見かけた男性は、必ず一度は足を止めるだろう。見惚れてしまって、目が離せなくなるはず。現に、女の私でさえ目が離せないのだから。
以前、同じような仕事を引き受けたときの、口紅べったりの女とは雲泥の差だ。清楚という言葉が、まんま当てはまりそうな人。
「コートをお預かりします」
「ありがとう」
岸谷さんへコートを手渡すと、凌の顔を確認するように見たあと、私の方へ視線をよこし微笑を向ける。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
あまりに綺麗なその人を目の前に、つい言葉がつっかえる。
「座ってもいいかしら?」
嫌味の全く感じられない物言いで、奈菜美さんはさっきまで私が座っていた対角線上のソファへと腰を下ろした。
少しすると、さっきコートを引き取って一度下がった岸谷さんが、香り立つコーヒーを人数分用意してテーブルへと置いていった。
無言のまま立ち去る岸谷さんの背中を目で追っていると、彼女、奈菜美さんが口を開いた。
「あなたが、あかりさん、なのね」
奈菜美さんは、確認するように言葉を区切って話す。
「思ったとおりの人だわ」
さっきと同じように静かに呟き、優しく目を細めた。
「凌がずっと想っている人を、頭の中で思い描いていたの」
奈菜美さんの言葉になんて応えたらいいのかわからず、ただ彼女のことをただ見ていた。
次の言葉を待つようにしていたけれど、続きは語られない。
凌から別れを切り出されてから、奈菜美さんはずっと思い悩んでいたのだろう。
どんな人に凌をとられてしまうのか。自分よりもどこが勝っている相手なのか。
きっと私を目の前にして、がっかりしたに違いない。
奈菜美さんは、穏やかな表情のまま目の前のカップへ手を伸ばす。その仕草は、カップを持つ手にも添える手にも、小さな頃から習慣付けられたような洗練さがあった。きっと、いい所のお嬢様に違いない。
私は、せいぜい貧乏育ちが出ないよう気をつけなきゃと身を引き締める。
「話は、解っていると思うけど……」
凌が、伏し目がちに切り出した。
「うん……」
奈菜美さんは凌の言葉に静かに頷くも、それ以上の言葉を発しない。何かを言ってしまえば、すぐに終わってしまう。もう少しだけでも時間が欲しい、と言うように口を閉ざしている。
重苦しい沈黙が降り、その空気に耐えられなくなっていく。腰に添えられていた凌の手が、ギュッと膝の上で握られていた私の手に覆いかぶさった。安心させるように、手を包み込む。
空気は、依然膠着状態。誰も口をきかず、ただ押しつぶされそうな空気に耐えているだけ。
その空気を和らげるかのように、静かにBGMが流れ出した。岸谷さんの気遣いだろう。
流れてきたのは外国の音楽で、曲調が明るめのわりに歌詞は切ないものだった。
―― 君にそんな顔は、似合わないよ
いつだって君は、笑っていたじゃないか
僕がつられてしまうくらいに、いつもにこやかに、そして大らかに
その涙は、僕のせいだね
月夜に光るその雫 まるで君の心のように純粋で綺麗だ
なのに僕は、もう君を愛せない
もう、君を愛せない ――
繰り返し歌われる最後の歌詞が、今の奈菜美さんには聴かせたくない、と思ってしまうほどになんだかとてつもなく切なかった。
岸谷さんが気遣いで流したはずのBGMは、余計に切なさを膨張させていく。
そんな中、気付いているのかいないのか、奈菜美さんはただ黙って凌を見つめるだけ。その目が、凌を愛しいと見つめ続けるだけ。
「俺は明と再会して、もう自分を誤魔化せなくなった。奈菜美には、本当に申し訳ないと思ってる。けど、君の気持ちに応えられない俺が傍にいることのほうが、残酷だと思うから」
「そんなこと……ない……」
奈菜美さんが静かに呟いた声は、少し掠れ揺れていた。
きっと、必死で感情を押し留めているに違いない。凌への爆発しそうな想いを、グッと堪えているんだ。
「私は、それでも凌には傍にいてもらいたい。明さんを好きでも、構わないから……」
「奈菜美……」
どんなに想っても届かない。頭では解っていても、心が諦めきれない。
自分がどんなにアンバランスな事を言っているのか、解らないはずはない。けれど、それを解らなくさせてしまうのが、恋。
人を想う感情は、常識なんてものなど通じず、ただ狂い、悲しみ、そして、愛しむ。
奈菜美さんは、自分でも制御できない心を、ただ静かに曝け出す。
大体、凌はどうしてこんな素敵な女性と別れたいなんて思うのだろう。
まだちゃんと話したわけじゃないけれど、性格が悪そうにはちっとも見えない。しかも、容姿は端麗と来ている。
文句をつけるようなところなど、今のところ見つけられない。どちらかと言えば、私の方がしょぼくてちんちくりんで、傍から見れば立場は逆でも可笑しくない。
昔から知ってるかなんか知らんけど、こんな女に取られるのか、なんてことになったら普通は腹が立ってもおかしくないはず。
なのに――――。
「ごめんなさいね……」
奈菜美さんが、声を震わせて私に謝罪した。
「え……」
「こんなところに同席させちゃって……。こんな風にあなたをここへ呼び出してしまうなんて、どうかしてるよね」
「そ、そんな。私は、全然……」
まさか謝られるなんて思ってもみなくて、言葉が続かない。
だって予定では、前回同様、すったもんだのごっちゃごちゃで、平手だの、手切れ金だのを覚悟していたのだから。
なのに、そんな風に謝られてしまったら、どうぞ、どうぞ、凌とこれからも末永くお幸せに、と言いたくなってしまう。
なんなら、ウエディングプランナー並みに、教会の用意から披露宴、二次会のご提案までもいたしましょうか? みたいな。
「ごめん……」
暢気な思考でいると、悲痛な表情で凌がまた謝り頭を下げた。まるで、凌のほうがふられたみたいな顔をしている。
そんなに辛そうな顔をするくらいなら、別れなければいいのに。ずっと、一緒に居たらいいのに。
どうして、別れなきゃいけないのだろう……。
二人を見ていると、こっちが辛くなってくる。これは、全部お芝居だと、ばらしてしまいたくなる。
「どうしても、ダメなの……?」
奈菜美さんが縋るように訊ねた。
別れる必要なんかないよ。喉元まで危うく出かかったその言葉を、凌の声が遮った。
「ごめん」
凌は、そうやってただ謝り続けるだけだった――――。
結局、奈菜美さんは、謝り続ける凌に、今までありがとう。と、無理矢理な微笑を浮かべ、この場から去っていった。
私は、悲しそうな背中をただ見送るだけしかできなかった。
「ねぇ、凌。本当によかったの……?」
あんなに素敵な人と別れてしまって、本当によかったの?
凌も奈菜美さんと同じように、顔に無理矢理な笑みを貼り付けてるじゃない。
そんな風に二人してつらいなら、別れる必要なんてなかったじゃない?
けれど、それ以上の言葉を口にすることができなかった。
つらそうな表情で俯いてしまった凌に、今たくさんの言葉を投げかけるのはとても酷に感じたから。
時が経ち冷静になった時に、あの時の別れは間違っていたのかもしれないと、いつか凌は思うのだろうか。それとも、やっぱりこれでよかったのだと納得をするのだろうか。
心の底から誰かを好きになり、苦しくて、つらくて、涙する事を知らない私には、とうてい解りえないこと。
ただ、はっきりしているのは、肉親ではない以上、いつか別れてしまう時が来ると言う事。
ううん。親や兄妹でも、結局、人は、最期には一人になる。
そう、山崎の義父のように。そうして、私の、母のように――――。
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