第21話 クビ!? 1
凌と二人でバーから外へ出るとすっかり陽も暮れ、街灯の灯りが辺りを照らしていた。
「悪かったな」
少し落ち着いた凌が、タバコを取り出しながら呟く。
「仕事だから」
夜の闇は、そんな凌の言葉を飲み込んで暗闇にでも連れて行きそうだったので、負けないように明るく応えた。
「そっか……」
凌は、ふっと力の抜けたような笑顔を零すと、カシュッと音を立ててライターを灯した。
取り出したタバコの先端が、一瞬赤く光る。一口肺に吸い込み、大きく煙と共に息を吐き出すと、点けたばかりの火を電信柱でもみ消し、携帯用の灰皿へと入れた。
タバコに火を点けたもののそんな気分でもなかったのか、何かを考えるようにアスファルトを見つめている。
わりと人通りのあるその路地で凌の背中を見てから、手持ち無沙汰のように夜空へと視線を移した。
月は雲に隠れ、本来の姿を霞めている。星は見当たらず、夜風は冷たい。コートの襟首を合わせるように、ギュッと両手で引き合わせ白い息を吐いた。
ポケットに手を入れると、携帯とストラップのタコが手にぶつかる。
今、何時だろう? いくら水上さんの帰りが遅くなるとはいえ、そろそろ帰宅しないとまずい気がする。
俯いたまま何かを考えている凌に声をかけるのは、憚られたけれど。帰りが遅くなって、水上さんに大目玉を食らうわけにはいかない。下手したら、職を失ってしまうかもしれないのだから。
「あの、凌――――」
かけた声にゆっくりと凌が顔を上げる。
「――――あかり」
すると、被せるように真剣な表情で名前を呼ばれた。瞳は、街灯に照らされているせいか、ゆらゆらと光る水面のように見える。
「あれ……本当なんだ」
「あれ?」
なんの事を言っているのか分からず、話の続きを待った。
「ずっと想っていた相手と、もう一度再会できたってやつ」
奈菜美さんへの別れ話ででっち上げた事だ。
事実って……?
あの話は、作り話ではなかったってこと?
少し驚きながらも相槌を打った。
じゃあ、本当に想う人と再会をしたって事なんだね。そして、奈菜美さんよりも、その相手を凌は選んだ……。
「奈菜美さんのことは、嫌いになったわけじゃ、ないの?」
「……どうかな。色々複雑……」
情けないような笑いを零す。
「人の感情なんてさ、簡単に言い表せないだろう? 奈菜美の事は、きっとまだ好きだと思う。けど、想っていた相手と再会したらさ、長年蓄積してきたものが溢れ出して、歯止めが利かないって言うか。自分でも可笑しいって思うくらい、もうその人だけなんだよな」
「その人の事が、本当に好きなんだね」
「ああ」
凌は、真っ直ぐ私を見つめて頷いた。
「その、再会した相手とは、うまくいきそうなの?」
問いかけに、凌が口元を歪めた。
「難しい……だろうな……」
「そう……」
叶わないかもしれないと分かっている恋でも、止められないほどの想い。奈菜美さんのつらさも、凌のつらさも、秤になどかけられないけれど、きっととても重いものなのだろう。
「ごめん。無理に訊いて」
「いや、無理じゃない。明には、知っていてもらいたいから。だから、聞いて欲しい」
訴えかける瞳が、とても切なそうだ。
けれど、凌の切ない感情を前にしても、頭の中では水上さんのプンプンに怒った顔がさっきからチラついていて、できれば一刻も早く駅へと足を向けたかった。
だから、余計に話を打ち切ろうと、口を開いてしまった。
「やめとこう。今日は、よそうよ」
そういう話は、いつか時間が経って、落ち着いた時の方がいい。
なのに。
「少しだけ――――……」
途端、私の腕を掴むと自分の胸元へと引き寄せた。
「りょ――――!?」
何がどうなったのか、理解するのに時間が掛かった。
ほんのりとする香水の匂い。さっき吸ったタバコの香り。寒さが和らぐ体温。
私の体は、凌の腕の中にあった。しっかりと抱きしめられ、胸の中に納まっていた。
なに、これ……。
思考は、壊れたロボットみたいに働かない。
頭の後ろに凌の大きな右手があり、腰には左手が添えられている。
何も考えられないぼうっとした頭で、凌の体越しに通りの先を見つめた。
たくさんの人が、行きかっている。けれど、誰も私たちの事など気にも留めない。一瞬チラリと見る人はいても、またすぐに目を逸らし自分の目的地へと歩を進めて行く。
誰もかれも、夜にバーの前で抱き合っている男女など、珍しくもないと通り過ぎて行く。
いや、酔っ払ったカップルなんて見たくもないと、嫌悪を抱いて目を逸らすのかもしれない。
頭の中では、バーで紳士的にしていた岸谷さんの顔や、凌とついさっき終わってしまった奈菜美さんの顔がチラチラと過ぎっていた。
大きなソファにゆったりと座り、グラスを傾けていた凌の顔も。
どうしてこんな風に抱きしめられているのだろう……。
頭の中で、グルグル回る三人の顔。思考もグルグルとかき混ぜられて、考えなきゃいけないことがなんなのか判断を鈍らせる。
そんな中、角から現れた一人の人だけがこっちを向き、大きな目を見開いたまま立ち止まった。
その瞬間、心臓が大きく跳ね上がる。グルグル巡っていた三人の顔全部が吹き飛んで真っ白になる。
かわりに浮かぶのは、毒舌全開の顔や、皮肉たっぷりの口元や、酔ってヘロヘロになった顔や、優しくした事に照れた横顔だった。
彼の表情だけが、頭の中を埋め尽くしていった。
角に立ち止まったままの彼は、ニットの帽子を深々とかぶり寒さに白い息を吐いている。大きな瞳は怒りを宿したあと、寂しそうに伏せられた。
口元からは、力ない呟きが漏れ聞こえてきた。
「そういうことか……。おったんやな……そういう奴が……」
「ちがっ――――!」
急に上げた声に驚いた凌が体を離し、見つめる先を振り返る。
寒い冬の夜、その場の空気が凍りついた――――。
水上さんは、ゆっくりと背を向けると、ポケットに手を入れたまま歩き去る。
……待って。
頭で考えるよれも先に、凌の体を押しのけ叫んだ。
「待ってっ!」
叫んだ声は届いているはずなのに、彼の足は止まることなく路地から姿を消した。
「あかり……?」
何が起こったのか解らない凌は、どうしたんだ? と腕を掴み引きとめようとする。
「ごめんっ。凌、放してっ」
背の高い凌を見上げながら、どんどん距離が離れていく水上さんを意識だけが必死に追った。
「あいつ、誰?」
焦るこの状況に似つかわしくないほどゆったりとした口調で、凌が疑問をぶつけてきた。
けど、応えている余裕なんか少しもない。とにかく今は、はやく水上さんのあとを追いたい。
「ごめんっ。凌、私っ」
説明するのももどかしく、水上さんが消えてしまった先へ必死な顔を向けた。
その時、凌の顔がさっき奈菜美さんと別れたときよりも、いっそう悲しみに歪んで見えたのは気のせいだろうか……。
掴まれたままの腕の力は、緩むことなく拘束してくる。
「明の、好きなやつなの?」
焦る私に、わざと意地悪でもするようにまた疑問を投げかけてくる。
「おねがいっ。行かせて――――……っ」
悲痛な表情でひたすらに訴えかけると、諦めたのか凌の掴む手が緩んだ。
「ごめんね、凌……」
それだけを言って、走り出した。
唇を噛むように背中を見つめ続ける凌の視線に、私は少しも気付いていなかった――――。
アスファルトを蹴るもつれる足。頬を切る冷たい風。行き交うたくさんの人。
全部が行く手を遮るみたいに邪魔をする。
おねがいっ、どいて!
人ごみを掻き分けるように、必死で足を前に出す。
けれど、暗闇と人工の灯りが犇めき合う中に、彼の背中を見つけられない。
「水上さんっ!」
闇雲に叫んでは、キョロキョロと辺りを窺い、駅へと足を向けてみる。
「水上さんっ!!」
何度も人にぶつかり、躓き、転びそうになる。迷惑そうな顔を向けられ、舌打ちをされても足は止まらない。
あの日、表参道で手を引いてくれた彼の姿が見当たらない。こんなに探しているのに、どうしてもみつからない。
走り続けて呼吸が苦しいのか、みつからない事への焦りで苦しいのか。
それとも、別の……。
苦しさに顔を歪ませ、走って、走って、息を切らせていたとき、大通りを渡った向こう側にやっと水上さんの姿を見つけることができた。
「水上さんっ」
叫び声に、一瞬その背中が止まったように見えた。なのに、気のせいだったみたいにまた彼は歩き出す。
なんでよっ。今、気付いたはずでしょ。どうして、止まってくれないのっ。
そう思ったときに思い出した。
―――― 敬語は、あかんてゆうてるやろおっ……。
そうだよね、そうだった。うん。
横断歩道の赤に阻まれて立ち止まり、思いっきり息を吸い込んで叫んだ。
「えいじーっ!!」
同じように横断歩道で信号待ちをしていた人たちが、ぎょっとした目で見てくる。
変な目で見られたって、かまうもんか。
もう一度息を吸い込み叫んだ。
「えいじっ!!」
再び声を張り上げた時、その背中が漸く立ち止まった。同時に信号が青に変り、彼めがけてすぐに走り出す。
はぁっ、はぁっ、と息を切らし駆け寄ると、水上さんはゆっくりこっちを振り返った。
冷たい目でこっちを見ている水上さんに、激しく息をつきながら訴えかけた。
「待ってよ……はぁっはぁっ」
「なんか用か……?」
抑揚のない声に、ギュッと内臓が萎んだ。
「何回も、はぁっはぁっ。呼んでるじゃんっ、はぁ、はぁっ」
「せやから、なんか用でもあるんか、言うとろうが」
「用って……」
冷たい瞳のまま切り捨てられるようにされ、気持ちが後退りそうになった。
言葉に詰まり黙ってしまうと、水上さんは仕方ないとでも言うように口を開く。
「男。置いてきて、よかったんか?」
「ちがっ、あれは……」
凌の事をすっかり勘違いしてしまったようだ。あんな風に抱きしめられていたところを目撃してしまえば、誰だってそう思うのは仕方ない事だろう。
「あれは?」
途中でやめてしまった言葉を促される。兄貴と言いそうになって口を閉ざした。
だって、雇ってもらう時の身上書には嘘を書いていたから。身内は誰も居ないって、嘘を書いていたから。天涯孤独みたいな事を、書いてしまっていたのだ。
便利屋の履歴書には正直に全部書いたくせに、どうしてか本当の事を言い出せなかった。
連れ子で父も兄も血の繋がりがない上に、兄貴以外みんな死んじゃって、借金まで抱えている。そんな、複雑すぎる家庭環境を恥ずかしいと思ってしまったのかもしれない。
「ここのところコソコソしとったんは、男がおったからなんやな。別に隠さんでもええのに」
まるで、地面とでも話しているみたいに、目も見ずに足元へと言葉を零す。
表情が見えない分、余計に嫌味っぽく聞こえるのは、抱える罪悪感のせいだけじゃない気がした。
水上さんは、明らかに怒っている。声に、イライラとした棘のような物を感じるもの。
「違う……」
「せやからっ。何が違うんっ?」
イラッとした声がぶつけられ、首をすくめた。いつもみたいにドスの効いた、アホやボケなら、はいはいと聞き逃せるのに。ピンと冷たい空気が張り詰めた中でぶつけられる言葉は、今までのどんな言葉よりも心を深く抉る。
「……それは……」
言い淀むと、呆れたような溜息を浴びせてきた。
「別に構わんし……。あかりに男がおっても、俺には、関係……あらへんし……」
冷たく突き放された瞬間、心が酷く痛んだ。
何かとてつもなく鋭いもので、一気に胸を突き破られたみたいに呼吸ができなくなる。
苦しくて、痛くて。でも、それがなんの痛みなのかちっとも解らなくて、痛みを感じながら俯くより他ない。
何も応えられず俯いていると、水上さんが歩き出した。置き去りにされ、また離れていく彼の背中を目で追う。
一歩一歩離れていく彼の背中を、ただ痛みを抱えて見ていた。
なんでこんなに、痛いのだろう……。今までどんなにつらいことがあったって、こんな痛みなど感じたことはなかったのに。
凌に苛められたって、母が亡くなったって、借金を山ほど背負わされたって、こんなにつらくなかったのに。
何で、こんなに胸が苦しいの……。
知らず、涙腺が緩んでいった。
涙なんて、もうずっと流した事なんかなかったのに。喉の奥が熱くなって、視界がぼやけてゆく。気がつけば、心細さに涙で霞む水上さんの背中に向って零していた。
「……えいじ」
雑踏の中、さっきまでとは真逆のかき消されてしまうほどの小さな呼び声だ。情けなく声を零す私は、本当にただのみすぼらしい女でしかない。どうしようもなく、惨めで滑稽だ。
項垂れて吐いた溜息は、真っ白な霧に変り視界を覆う。
「えいじ……」
縋りつきたいほどに寂しくなってしまった口から、もう一度消え入りそうな声が自然と零れでた。同時に、頬に冷たいものが流れ落ちる。
すると、まるでその声が聞こえたかのように、数メートル先を行く水上さんがつと足を止めて振り返る。その姿に、心臓がトクンと音を立てた。
ずっと背中を追っていた目と、振り返った水上さんの瞳が合う。
周囲の喧騒よりも、直接耳に届く心音。そして、一瞬の静止ののち、水上さんの口が動いた。
「泣くこと、――――……あるかっ」
え……?
なんて言ったのか聞き取れず、ただ不安な顔を向けていた。
すると小さく溜息を吐き、そのすぐ後には気を取り直したような表情をして無造作に近づいてくると、節くれだった親指が頬に数秒触れて離れていった。
濡れていた頬に、一瞬の温もりが伝わってくる。
頬の温かさを感じながら、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「車、あっちに駐めとるから」
なおも動けずに、水上さんの目を見つめ続けていた。すると、いつものような怒った声が飛んできた。
「はよ、こんかいっ」
その言葉に弾かれたように、水上さんの傍にパタパタと駆け寄った。
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