第33話 気づいた感情と向けられた感情 3
やっと着いたマンション前。零れ出る涙を拭いさり、一度大きく深呼吸してそっとドアを開ける。
中は静まり返っているから、英嗣は寝ているのかもしれない。
廊下を抜けリビングのドアを開けると、スマホを握り締めたままソファに腰掛けている姿が目に入った。
「起きて……たの?」
まさか、リビングにいるとは思わずに少し驚いた。
「おう。明から連絡が来るかと思おて、待っとった」
「そっか。電話しなくて……ごめん」
ドアの前に立ったままで居ると、どないしたんや? とソファから立ち上がり近づいてくる。
「なんか、あったんか?」
目の前まで来て、もう一度訊ねる顔に向かって首を横に振った。
英嗣は、そうか……と小さく呟き視線を少し落した。
「兄貴、具合は?」
凌の事を訊かれ、ビクリと心臓も体も跳ねた。
考えないようにと一生懸命に閉じ込めていた感情が、また体中を支配していく。抱きしめられ、近づいてきた唇を否応なく思い出し、体が震えた。悲しげに叫んだ凌の言葉が、胸を苦しくさせていく。
「大……丈夫……」
応えた声が震えた。
「少しも大丈夫に見えへんけどな」
落としていた視線を徐に上げると、力強い瞳が私を見据えていた。
「平気だよ。熱……下がったし……」
「ちゃう」
英嗣が、はっきりとした口調で否定した。
「大丈夫かって訊いとんのは、明のことや」
力強い眼差しを逸らすことなく、英嗣が半歩前に出た。近づいた距離に、心が泣き出しそうになる。
「どう……して……?」
目を少し逸らして訊き返した。
「そないに泣きはらした顔で、どうしても何もあるかい」
そう言うと、英嗣の細っこいくせに筋肉のしっかりした腕が、私の頭を抱え込むようにして胸へと引き寄せた。
「なにがあったん?」
胸に抱きしめたままそう言われただけで、ここへ来てから堪えていた涙が溢れ出して止まらなくなった。伝わる温もりに安堵し、気持ちがどんどん緩んでいく。
英嗣のシャツを濡らし、漏れ出る嗚咽を我慢する事もできなくなっていく。
「英嗣……、えいじ……」
嗚咽の合間に、幾度も名前を呼び続けた。こぼれる涙を止められない私の背中に、英嗣がトントンと優しく手を添えてくれる。
大丈夫やから、と英嗣は何度もその言葉を口にする。
英嗣の言葉や体温が心強くて、気持ちが安心していった。ぬくもりに安堵し、何も考えずにずっとこうしていたいと現実に背を向けそうになる。
しばらくそうしてもらい、やっと嗚咽も収まり始め、自分から体を離すことができた。
「落ち着いたか?」
優しい言葉にコクリと頷き、促されるままソファへと腰掛ける。
英嗣はキッチンへと行くと、冷蔵庫から出したミルクを温めて持ってきてくれた。
コトリと置かれたマグカップ。のぼる湯気と、ミルクの柔らかく優しい香りが気持ちを落ち着かせてくれる。
「なんか、あったんか?」
向かい合う場所に腰掛け、前屈みになって私の顔を覗き込んでくる。その目をちゃんと見られなくて、両手でミルクの入ったマグカップを包み込むようにして持ち、冷え切った体にひと口流し込んだ。
胃の中に染み渡る温もりにほっと息を吐いたあと、ふと小袋に収まるプレゼントが目についた。
ソファに腰掛ける英嗣の横に置かれたその袋を目にして、心がギュッと苦しくなった。やっと落ち着いたはずの気持ちが、別の感情でキリキリと痛み始める。
止まったはずの涙が、また目頭を熱くしていった。
ポロリと一粒零れた雫が、みすぼらしいジーンズに染みを作った。その途端、甘えていい対象じゃないと気付かされた。
「ご、ごめん……」
カップを置いて立ち上がり、背を向け部屋へと足を向ける。
「どないしたんやっ」
引き止めるように叫ぶ英嗣に、背中を向けたまま応えた。
「こんな風に泣いちゃって、迷惑だよね。ごめん……」
「何が迷惑なん? そないなこと、少しも思っとらんし」
「けど、私は、ただのお手伝いさんだから」
「……だから、なんや」
英嗣が、少しだけ怪訝そうに声を曇らす。
「英嗣には、大切な人が居るでしょ? こんな風に迷惑になるような事しちゃって、ホントごめんね……」
顔を見ないままそう告げて、ドアに手をかけた。
「はっ? 何をわけのわからん事をっ」
ソファから立ち上がった英嗣が、ズカズカと近づいてくるのがわかった。
「こっち向けや!」
背を向けた私の腕を取り、無理矢理に自分の方へと体を向かせる。
「大切な人ってなんやねん! 俺に女がおるって言いたいんか? それなら明の勘違いやって、前にも言うたやないか」
「だって、あれ……」
泣きそうなのを必死に堪えながら、ソファの上の小袋を指差した。
「あれ、誰かに上げるんでしょ? あんなに真剣に選んで。大切な人が居るんでしょ? 私なんか構ってないで、早く渡してきてあげたらいいのに」
堪えていた涙は、ギリギリだった。あとほんのちょっとの衝撃で、またさっきみたいに止まらなくなるだろう。
「せやな」
溜息とともに、肯定の言葉を告げられる。
その言葉を自ら引き出したくせに、いざ言われると苦しくてしょうがない。涙の塊が今にも溢れ出そうと視界を歪ませる。
英嗣は掴んでいた私の腕を解くと、くるりと向きを変えてソファの上の袋を手にして戻ってきた。
「確かに真剣に選んどったよ。大切な女にあげるためやからな。そりゃあ真剣にもなるわっ」
吐き捨てるように言うと、小袋を目の前に突き出してくる。
「な……に?」
「受け取れ!」
「……なに言って……」
「早く渡せ言うたやないか。ほれっ」
もう一度小袋を、グイッと目の前に突き出してきた。
わけもわからず、袋に手を伸ばし受け取った。
「大切な奴は、確かに居る。くだらん事ばかり毎日ほざいて、強気で、自分のことには大雑把で。やたら綺麗好きで、料理が上手くて。変に義理堅い、アホな女じゃ」
「……英嗣……」
「なんや知らんけど、そないなおかしな女が大切でしゃーないんやっ!」
言われている言葉をぼんやり聞いていたら、「貸せ!」と掴んでいた袋を奪い取られた。
袋の中から小箱を取り出すと、少し乱暴に蓋を開ける。
「貰ったら嬉しいんやろ? こんな凄い物貰ったら、脅迫じみてて付き合わんわけにはいかんのやろっ?」
高級品だというのを理解しているはずなのに、乱暴にアクセサリーを取り出すと、チェーンをはずし私の首へと手を回す。
近づいた距離に、心が先に反応した。
トクトクと。ドキドキと。
回した腕が、ゆっくりと離れて行く。同時に、私の首元にはハートのチャームがキラキラと揺れた。
「私に……?」
「他に誰が居るん?」
いつもと同じセリフで訊くと、いつもと同じセリフで返される。
「大切な人って……私……?」
「しつこいわ……」
照れたように俯く英嗣。気がつけば、やっぱり涙は溢れ出ていて、もう顔はグチャグチャだ。
「汚ったないなぁ。洟、出てんで」
笑いながら、近くにあったティッシュで鼻をぎゅっとつままれた。
「洟なんか……でてないもん……」
ぐりぐりと鼻を摘ままれながら、涙はとめどくなく溢れ出て、一向に止まらない。
「ああ。ほんまに、何でこないな泣き虫を好きになったんやろ。めんどくさい女やなぁ」
そう零しながらも、英嗣は私を優しく抱きしめてくれた――――。
散々泣きはらした翌日のお昼。瞼はいいように腫れてしまって、お皿を数えるお化けのようだ。けれど、彼女のように皿を割った責任を擦り付けられているわけじゃない。凌が私に対して抱いている感情を、他人に擦り付けられるわけがない。
これは、私自身の問題だ。
凌の事を考えれば、胸の中がえもいわれぬ感情で苦しくなっていく。それこそ、食器棚に納まるお皿たちを次々に投げ捨てて割り、スッキリしたいところだが、そういうわけにもいかない。
モヤモヤと心の中に渦巻く、どうしたらいいのか判らない現状に頭を擡げるばかりだった。
それでも、胸元のペンダントにそっと手をやれば、そのモヤモヤも少しは晴れていくようだった。
結局、昨日の夜は泣くだけ泣いて、英嗣には凌との間に何があったのか、なんの説明もしないままになっていた。明け方まで帰りを待っていてくれた英嗣が温めなおしてくれたミルクを飲み、ベッドにもぐりこんで静かに眠りに着いた。
英嗣も、無理に訊き出そうとはせず、「何も考えんと、今日は寝てしまえ」と優しい言葉をかけてくれた。
徹夜で凌の看病をしていた私は英嗣の優しさに安心し、ほんの僅かな時間で眠りに落ちる事ができた。
朝から仕事だった英嗣は、私を寝かせたあと、朝食も摂らず静かにマンションを出たよう。
[帰りは遅くなるから、今日は何もせんと一日ゆっくりしとれ]
不器用な言葉のメモが、テーブルの上に一枚置かれていた。
「優しいよね……」
ポツリ洩らし、シャワーを浴びる。目をギュッとつぶり、はれた瞼に強い水圧の水飛沫を浴びせた。
凌に後ろから抱きつかれた感触や、耳元にかかった熱い吐息。走り去る背中に刺さる、悲痛な呼び声。
総てを流してしまいたくて、しばらくぼんやりとシャワーに打たれ続ける。
だけど、それが流れて消えてしまうことがないのが、今起こっている現実だ。
ポタポタと滴る雫を無造作にタオルで拭い、着替えを済ませた。開け放たれたカーテンの向こうからは、冬だというのに目を瞬かせてしまいたくなるような陽光が入り込んできている。
英嗣は、今日一日何もしなくていいと言っていたけれど、じっとしていることができない。
だって、頭の中に巡る出来事が、否応なく胸を締め付けてくるのだから。
何も考えたくなくて、黙々と家中を掃除して回る。こんなところまでやる? ていうくらい細々と掃除して歩き、気がつけば日付が変ってから何も胃に入れていないまま夕方近くになっていた。
さっきまで眩しすぎる光が入り込んでいた窓からは、もうオレンジ色がうかがえて、否応なく切なさを思い出させた。
窓の向こうのオレンジから目を逸らすようにして、一度深く息を吸い吐き出してキッチンへいく。
食欲はそれほどわいているわけではなかったけれど、精神の疲れからか体が少しふらつくのを感じて、食べないよりはましだろうと冷蔵庫にあったヨーグルトを取り出した。
ソファに座り、スプーンでひと口ずつゆっくりと口に運ぶ。
凌は、今頃どうしているだろう……。また熱がぶり返したりしていないだろうか。
私に連絡をするのが気まずくて、一人つらさの中を耐えているかもしれない。
心配してはみても、確認するために連絡をしようという気にはとてもなれなかった。
どうしてこんなことに、なってしまったのだろう。ただの兄妹だと思っていたのに。ただ、いじめの対象になっているだけだと思っていたのに。
その裏側には、凌の思いもしない感情が大きくなって潜んでいた。
凌は、どんな想いであの頃の時を過していたのだろう。どんな想いでこの数年を生きてきたのだろう。
どんな気持ちで、私の事を想ってきたのだろう……。
想いの重さを量る術はないけれど、以前バーの前で、好きな人と一緒になるのは難しいだろうなと零した言葉に、きっととてつもない切なさが渦巻いていたはずだ。
なのに、ほんの少しもその気持ちに気付かなかった私は愚か者だ。
お互いの両親が結婚しなければ、こんなことにはならなかったのだろうか?
今更そんな事を考えても無意味だろうけど、考えずにはいられない。
凌は、どこからこのたどり着くことのできない道を歩く事を選んでしまったのだろう。
どうして私を、その道の道標にしてしまったのだろう。
いくら考えたって解りようのない問題に頭を振り、食べきれなかったヨーグルトをさげた。
以前なら、食べ物を残すなんて、罰当たり以外の何者でもなかったのに、こんなに簡単に残しちゃうなんて……。
ついこの前までは、変っていく毎日や自分が嬉しいと感じていたのに。
今は、変っていく自分に嫌悪を抱きながらも、どうしても食べきれなかったヨーグルトをいともあっさりゴミ箱に捨ててしまえることに深く息を吐いた。
まるで、心の中にある負を吐き出すかのように。
帰りが遅くなると言った英嗣を、リビングでぼんやりと待っていた。
見るともなしに点けていたテレビからは、やって来るお正月の話題がひっきりなしに流れている。芸人もアナウンサーも、俳優もアイドルも、みんなが一様にめでたいと口にしている。
「少しも、めでたくないし……」
ボソリと皮肉を洩らし、ズルズルとソファの背凭れからずり落ちるようにして、床にぺたりと座り込んだ。本来座る目的のソファを背凭れにし、テレビのスイッチをリモコンで消す。
さっきまで騒がしかった室内は静まり返り、まるで心の奥を探ってくるようにシーンとしてしまった。
外からは、時々、表を通る車の音や、バカみたいに、どあほーっ! と奇声を発しているどっかのサラリーマンらしきおかしな酔っ払いの声が聞こえてくるだけ。
「どあほ、だって……」
声に出して、わざと笑ってみた。けれど、上手く笑えない。
「どあほ。……どあほ。……あほ。あほ……なのは、私……」
明の、あほ……。
どうして気付いてあげられなかったのよ。
ちゃんと凌の気持ちに気付いていたら、あんな風にマンションを飛び出すこともなかったじゃない。ちゃんと話をして、お互いにいい距離を保って、家族として生きていけたかもしれないじゃない。
敷かれた絨毯に向かって深々と溜息を吐いている所へ、玄関ドアの開く音がした。程なくして、リビングのドアを開け英嗣が顔を出した。
「なんや。起きとったんか」
「……うん」
荷物をドサリと床に置くと、真っ直ぐ冷蔵庫に向かってミネラルウォーターを取り出した。蓋を開けると、一気に半分ほど飲み干している。
「はぁーっ。マサシの相手は、疲れるわ」
私が背凭れにしているソファに、ペットボトルを持ったままドカリと腰掛けた。
「マサシさん。……どうかしたの?」
背中に英嗣を感じながら問いかける。
「ん? まぁ、たいした事やないんやけどな。ちょっと色々あってな、自棄酒や。さっきも、哲と三人でタクシー乗ってそこまで来たんやけど、俺が降りるんでドアが開いた途端、マサシが突然叫びおってからに」
ほんま、敵わんわ……。と零すと、残りの水をまたグビグビと飲んでいる。
「もしかして、どあほって叫んでたの、マサシさん?」
首だけを少し振り向かせて訊ねた。
「おお。せやせや。ここまで聞こえとったんかい」
真夜中だっつーのに、あいつアホやろぉ? と英嗣はケタケタ声を上げて笑う。
屈託なく笑う姿に、さっきまでどんよりとしていた気持ちが少しずつ晴れていった。
「英嗣……」
「ん?」
「凌との事。……何にも、訊かないんだね……」
苦笑いを浮かべて訊ねると、少しだけ困ったような顔をした。
「せやな……、明が話とうなったら、話したらええ。ずっと話しとうならんかったら、それでもええ」
「気に……ならないの?」
「……ならん、言うたら嘘やろうけど。話とうないもんを無理矢理訊きだすなんて、鬼やろ」
そういうと、またケタケタと笑う。
何でもないことみたいに笑ってくれるせいか、凌との間に起きたことが、実のところはたいしたことではないようにさえ感じてしまう。
「なんや、どっかに行って気分転換でもと言いたいところなんやけど、年末に向けて仕事が立てこんどるんよ」
すまんなぁ、と英嗣が声を小さくする。
英嗣の気持ちが嬉しくて、笑顔のまま首を横に振った。
「あのね。もう少し……。もう少ししたら、話、聞いてくれる?」
「ん。わかった」
英嗣は、私の頭の上にぽんと手を乗せて立ち上がる。
「年が明けたら、ちょっと暇になる予定やから。そしたら、どっかでかけるか」
な、と私の顔を覗き込むと、シャワーを浴びるためにリビングを出て行った。
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