第34話 家族
師走というだけあって、年明けまでは目まぐるしい毎日だった。
英嗣は朝から夜までびっちり仕事で、家には眠るためにだけ帰ってくるような状態が続いていた。食事もゆっくりと家で摂る事もなかったので、できるだけ栄養のバランスを考慮したお弁当を作って持たせていた。
私は私で、自分の分の食事だけを用意する毎日。
広い部屋でぽつりとダイニングテーブルに座り箸を進めながら、その時初めて一人で食べる食事が味気ないと感じた。
いつの間にか、英嗣と一緒に食べることが当たり前になっていた。
凌からは、なんの音沙汰もない……。
テレビに露出する仕事ではないから、映像として今現在の情報を得る事もできない。
一度だけコンビニにあったファッション雑誌を手に取り見てみたけれど、そこに写る凌は、海外をバックにいくつもの洋服を着こなしていて、今現在のものではない事が解った。多分、以前欧州に行っていたと話していた時のものだろう。
長い手足に小さな顔。同じモデルの女性と絡み合うように写る姿を見て、私を好きな理由が本当にわからなかった。
雑誌の女性モデルのように、目鼻立ちがはっきりしているわけでも、スラリとした身長や手足があるわけでも、スタイルよく洋服を着こなせるわけでもない。そんな私に、どうして固執するのか。
いくら幼いころ一番身近な存在だったとはいえ、いつまでも今の凌が私を想い続けているなんて、とても考えられない。
けれど、事実は事実で、人の気持ちはこれほどまでに不可解極まりないものなのだろう。どんなに理由やこじつけをしたところで、一度向かってしまった心を止めるのは容易ではない。
現に、英嗣のことを思ってしまった私がそうなのだから。
家の掃除は毎日変らずしていたけれど、それとは別に大掃除を三日に分けて行った。
電球を替え、網戸も綺麗にし、フローリングもワックス掛けした。キッチン周りの換気扇や、水周りも徹底してきれいにしていくと、気がつけば年明け二日前になっていた。
「年越しライヴ。観に来るか?」
「年越しライヴ?」
遅くに帰ってきた英嗣が訊ねる。
ここに来てテレビを見るようになったとはいえ、何もかもに精通するほどではなかった。なので、英嗣からそう訊かれても、何のことかさっぱりで首を傾げてしまう。
「俺らのバンド、三年前から毎年カウントダウンライヴしてるんよ」
「へぇ~」
まさに、へぇ~という顔で英嗣の話を聞く。
「明さえよかったら、チケットあるさかい」
そのチケットがどれほど入手困難で価値のあるものなのか少しも解らず、またしても、へぇ~と声を洩らす。しかも。
「考えとく」
なんて言ってしまった。
英嗣は、私の返事に気を悪くするでもなく、「一応渡しとく」と鞄の中からチケットを取り出しくれた。
ライヴかぁ。そういうの、一度も行ったことないや。
頭の中にある少ない情報だけでイメージすると、やたらと人が多くて、疲れる、というのが一番に浮かんだ。
おかげで、全くライヴというものに興味が湧かず、貰ったチケットは無造作に財布の中にしまいこんだ。
リハーサルがあるとかで、英嗣は三十一日も早々に準備をしていたて、いつもどおり玄関先まで見送るために後ろをついて行った。
「ほな。行ってくる」
「うん」
「ライヴ、来られるんやったら、気いつけてな。結構な人がおるさかい、もみくちゃにされんで」
「はは。わかった。ありがと」
もみくちゃ、と聞いて、益々行く気が失せた。
「英嗣も、年内の仕事納め。頑張ってね」
「ん。ほな、行ってくる」
「いってらっしゃーい」
ひらひらと手を振り、ドアの閉まる音を聞いて鍵をかける。
「さーて、おせちでも詰めようかな」
下ごしらえをほぼ済ませたおせち料理の数々を、ダイニングテーブルへと並べて、年末に慌てて買った漆塗りのお重に彩りよく詰め込んでいく。
三の重の煮物から始まり、二の重の海老や、鰆の西京漬け諸々、一の重の伊達巻や紅白のかまぼこに栗きんとんなどなど。
彩りよく詰め込み、雑煮もお餅を入れれば食べられるように準備しておいた。
おせちだけだと飽きてしまうかもしれないと、ある程度の物も、揚げるだけ、焼くだけというように下ごしらえをして冷凍庫に保存しておく。
「これだけあれば、正月の三箇日は充分でしょ」
まるで自己満足のように腰に手を当て、ふうっと息を吐く。
「あ、でも。英嗣って、大阪に帰らないのかな?」
お正月といえば、実家で両親が待ってるのが普通だよね? だとしたらこの料理たちって、私一人で食べることになるのか……。
気合を入れて作りすぎたと少しの後悔をし、同時に一人のお正月を過す事になるかもしれないと寂しさも覚えた。
帰る家がないという現実は、今の私にとって無性に孤独を感じさせる。今までもずっと一人で過ごしてきたけれど、英嗣と出逢って二人でいる温かさを知ってしまった今、この孤独感は耐え難いもののように思えた。
英嗣にはちゃんと家族がいるのだから、彼を引きとめる権利などあろうはずもない。
もしも英嗣が大阪へ帰ると言った時には、快く笑顔で送り出さなきゃ。
総ての準備を終え、夕方前には何もすることがなくなってしまった。ぼんやりとリビングでテレビを観て、時折芸人の体を張ったギャグに声を上げて笑う。
迫り来る翌年をイヤでも感じさせようと、とあるテレビ局では、画面の隅にカウントダウンの数字が刻々と時を刻んでいた。
刻一刻と過ぎ行くその表示を見つめていたら、このままじゃいけないと、無性に気持ちが急き立てられた。
このまま、新しい年を迎え。
このまま、何もなかったように次の年を過し。
このまま、凌に背を向けて生きて行く……。
そんなわけには、いかない。いかないよ……。
思い立ったら、吉日。徐にキッチンへ向い、多めに作っておいたおせちを大きめのタッパーに詰めて手提げの紙袋に入れた。
いつまでも賑やかにしゃべり続けているテレビを消し、コートを引っ掴んで外へと飛び出す。
電車に乗り、何をどう言えばいいのかを必死に考えながら、凌の住むマンションを目指した。
辿り着いたマンション前で、一度大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。
思い立ったら、なんて走り出したけれど、興奮状態のままじゃ、ちゃんと話し合うこともできないだろうから。
電車の中で色々考えをめぐらせたけれど、最終的にはどれも同じ答に行き着いた。
私は、このさきもずっと凌と家族でいたい。
それを胸に、二六階辺りの窓を見上げてみた。けれど、凌が在宅しているかどうかはよく分からない。もしかしたら、英嗣のように凌も年内一杯は仕事かもしれない。そうなると、ここまで来てしまったけれど、逢えない可能性もある。
それでも、電話で済ませられるようなことではないのだから、こうしてやって来たのは間違いじゃない。
留守なら留守で仕方ない。戻ってくるまで待とう、そういう心積もりでエントランスに踏み込み、部屋番号をプッシュする。数秒後、驚いたような凌の声が聞こえてきた。
「……明」
「話し、しようと思って……」
スピーカーに向って伝えると、「今降りて行く」とインターホンが途切れた。
しばらくすると、薄手の上着を羽織った凌が、少し俯き加減で現れた。
特に気合を入れて着飾っているわけでもないのに、その洗練された姿は、やはりモデルという仕事をしているだけのことはある。
「……ここでもいいか?」
視線をあまり合わせないまま、エントランスホールに設けられている談話席へ向かう。
部屋での話し合いを避けた凌の気持ちは、こんな私にでもわかる気がした。きっと、凌も同じ気持ちでいてくれるはずだろうから。
三つあるテーブルには、どれも向かい合うように二脚の椅子があった。凌は、大きな窓の近くにある席に座る。
テーブル席で向かい合い、紙袋を膝の上で抱えて腰掛ける。
ホールは外気をしっかりと遮断し、緩く暖房も効いているため寒さは感じない。大きな窓から見える外の景色は、冬枯れした木々が外気に煽られ、ヒューヒューと小高い音を立てている。
寒々としている外の景色を見ていると、これから話し合う二人の気持ちを硬く閉ざしていくようでならない。
席に着いて直ぐ、「コーヒー飲むか?」と返事を待たずに凌が席を立った。
隅に置かれている自販機に向かうと、缶コーヒーを二つ買い戻ってくる。コトリと音を立てて、缶が目の前に置かれた。
「寒かったろ……。あったまるから」
凌は、プルリングを引き、自分の分の缶コーヒーをひと口飲む。私は置かれた缶に両手を伸ばし、冷え切った手をその熱で温めた。
温かさが手にじんわりと沁みこむのを感じながら、どんな風に切り出すべきか迷っていると、凌が先に口を開いた。
「人を想う気持ちって、なんて傲慢なんだろうな……。あんなに相手の事を一番に想っていた筈なのに、いざ手の届く場所に居ると気が付いたら、自分本位になってしまう……。大事にとか、大切にとか。もう苦労はさせないし、辛い目にはあわせない。そんな風に思い続けていたはずなのに、結局、そうやって大事に大切に想って貰いたいのは自分の方で、一番傷つけているのも自分だった……」
「……りょう」
俯く凌の口元は、引き攣るように歪み、瞳は後悔を宿し揺れていた。
「俺、自分がこんなにも歪んだ人間だなんて、思いもしなかったよ。いくら血の繋がりがないとしても……、どう考えたってこんなの普通の感情じゃない。こんな気持ち、意地でも押さえ込んでおくべきだった……」
自らを嘲笑うようにまた口元を歪め、視線を未だ合わせられずに外の景色に目を向ける。
凌の話すことに、何も言えずにいた。抱いてしまった感情を押し殺すというのがどれほど大変なことなのか、最近になって身に沁みてよくわかったからだ。
英嗣の事を好きになり、抑えきれない自分の想いに勝手に振り回され、グラグラになっていたのだから。
人を想うと、どうしても視界を狭めてしまう。いつもなら気づくはずの事にも気づかず突き進み、考えなくてもいい事に頭を悩ませ不安になる。相手の一言、一言に振り回され、悲しんだり苦しんだり。傍から見れば、そんなことでいちいち、というようなことが、この世の終わりのようにさえ思えてならない。
悲劇を気取るつもりなどないはずなのに、自らその位置へと躍り出てしまう。
「しばらく、頭を冷やすよ……」
外を見ていた視線を、やっとこっちへ向ける。
「年が明けたら、少しの間海外で仕事をすることになったんだ」
「海外?」
「うん。知り合いが、イタリアのモデル事務所を紹介してくれてね。うちの事務所と合同で、コレクションを開くことになった。それで、そのショーに出演するためにしばらく向こうに行く事にね」
「しばらくって、……どれくらい?」
「多分、半年くらいかな」
「半年……長いね」
「そうかな……。長いか……」
長いとは言ったけれど、気持ちの整理をつけるためには、半年なんて少しも長い事はないのかもしれない。
「親父の借金の件はさ、明の口座に毎月振り込むようマネージャーに頼んでおくから、心配しなくてもいいから」
「うん……。ありがと」
「あかり……」
「ん?」
「ごめんな……」
凌が目を伏せる姿を見て、大きく首を横に振る。けれど、かける言葉がうまく見つからない。
続かない会話に、話はそこで終わりというように、席を立つ凌に釣られて私も立ち上がった。
エレベーターホールへと体を向けると、自信なさげに凌が呟いた。
「あかり」
「うん?」
「俺たち、これからも家族だよな……?」
自信のない背中に向って声を張った。力いっぱい、思いを込めて声を張った。
「あたりまえじゃんっ。家族に決まってるよ。一生、ずっと、唯一の家族だよ」
「ありがとう……」
振り返る凌が泣きそうな顔で微笑んでいる。そうしてから、ボトムのポケットに手を入れ、小壜を差し出してきた。
「これ。持っていてくれないか?」
凌の掌に乗っているのは、幼い私がつき返したマリモの小壜だった。
「うん。凌が買ってくれたお土産だもんね。大切にするね、ありがと」
あの時、きっと言い損ねただろうお礼のセリフを、今はっきりと口にすると凌は相好を崩した。
マリモの代わりというように、持ってきた紙袋を差し出した。
「おせち、作ったの。これ食べてコレクション頑張ってよ。高級レストランの料理には負けると思うけど。お金取らない分、家族の愛情は込めといたから」
手渡した紙袋に驚いたように視線をやり、すぐさま私を見た顔は、春のようにあたたかな顔つきだった。
「いい正月を迎えられそうだよ」
そう呟いた時、目に入ったホールに掛かる時計が十二時を指し示した。
「凌。明けましておめでとう」
「え?」
驚いたように、凌が腕時計を確認する。そうして、クシャクシャな笑顔で言った。
「明けましておめでとう。あかり」
「今年も一年よろしくね」
ニコリと笑みを零すと、子供のときのような顔で凌も笑い返してくれた――――。
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