第35話 幸せなキス
凌と話したことで、すっきりと晴れやかな気持ちでマンションに戻った。凌とはしばらく逢うことはないけれど、ショーを成功させ、次にお互いの顔を見るときには、きっと昔のような家族に戻っているはず。
掌に握り締めたマリモを見つめ、そんな未来を思い描いた。
あ、でも。昔に戻るっていうことは、苛め再開?
いやいやいやっ。そこは、元に戻らなくってもいいからねっ。
一人ブツブツと呟いてしまう。
ソファに座りテレビを点けると、二四時間体勢で番組は流れ続けていて、年明け前に見た芸人が、新しい年を迎えた今も、また同じように体を張っていた。
「新年を迎えても、芸風は変わらずか」
私よりもずっと年上だろう人が体を張る姿に、苦笑いが零れた。
「芸人て、大変よね」
他人事のように言ってから、眠気に襲われる。
「シャワー浴びて、寝よっと」
マリモの小壜をチェスとの上に飾り、私は穏やかな眠りに着いた。
明け方、ドタンッ、バタンッという玄関の方からする物音にはっと目が覚めた。
「な、なに……? 泥棒?」
音を立てないようにスルリとベッドから抜け出し、そっと部屋から出る。
足音を忍ばせてリビングに行くと、ガタンッとまたも音がした。続けて、低くくぐもった唸り声も聞こえてきた。
ひいぃぃ! だっ、誰よ!
ビクビクしながら何か武器になる物がないか、キョロキョロと辺りを探してみたけれど、そういった類の物は何もない。
英嗣の部屋へ行けば、ギターがあるな。
大それた事に、英嗣の大事にしているギターを武器にしようと忍び足で寝室へ足を向けた。
すると、しっ、しー! 静かにせいや! と小声で誰かを咎めるような声がした。そのうちに、リビングのドアが開き、誰かを抱えるようにした英嗣が顔を出した。
「え、えいじっ?!」
驚きで声をかけると、向こうも驚いたらしく、目をまん丸にしている。
「なっ、なんや。起きとったんか」
「ううん。物音がしたから……」
英嗣は、肩を貸すようにして哲さんを支えている。酒気が漂ってくるところを見れば、どうやら泥酔しているようだ。
「哲さん……どうかしたの?」
驚きながら英嗣に手を貸し、哲さんをソファに横たえる。同時に、寝室に踏み込み大事なギターを手にし、英嗣たちに向かって振り回さなくてよかったと安堵の息を吐いた。
「打ち上げでしこたま飲んで、このざまよ。ほんまに、勘弁して欲しいわ」
呆れたような顔と、疲れたような顔を綯い交ぜにして、英嗣が酔って眠る哲さんを見下ろしている。
そういう英嗣もアルコールが入っているのか、少しお酒臭い。
「哲さん、大丈夫かな」
私が零すと、知らん、と冷たく言い切ったけれど、見捨てずにここまで連れて来たのだから優しいよね。
冷蔵庫からよく冷えた水を二本取り出し、一本を英嗣に渡した。
もう一本は、蓋を開け、酔って、うぅ、うぅ。言っている哲さんを抱え起こして、飲ませようと試みる。背中に手を回して起こそうとすると、哲さんがぼんやりと目を開けた。
「うぁ……アカリちゃんやぁ。久しぶりやなぁ」
酔って呂律の怪しい口調で、ニコニコと話し出した。
「お久しぶりです。あの、これ。お水です。飲んでください」
ペットボトルを手渡すと、それを掴み損ねた哲さんが私に抱きつくような姿勢になった。
「あわわわ」
「こらっ! 哲! 離れいっ!」
そばにいた英嗣が、慌てて哲さんを引き剥がす。勢いをつけて離したせいで、哲さんの体がズルリとソファからズリ落ちた。頭から床に落ちた哲さんは、情けない声で「ぐぇ……」と苦しそうに洩らしている。
「うわっ! 大丈夫ですか!?」
落ちた本人よりも、見ていたこっちが慌ててしまうくらいのぐんにゃり感で、首がいっちゃっている。
首が柔らかいのか、酔っていて痛みを感じないのか。ぐにゃりと首を曲げたまま、哲さんは床の上に転がってしまった。
「ほっとけ、ほっとけ。自業自得じゃ」
落ちた哲さんをそのままに、英嗣は私の手を引き傍から離した。
「つれないやんけぇ~」
情けなく呟く哲さんは、やはり痛みを感じていないらしく、モゾモゾと自力でまたソファの上へと這い上がった。
「哲は黙ってそこで寝とれ」
「あかぁ~ん。もう、ほんまに、あかぁ~ん……」
英嗣の言葉に素直に従ったわけではないようだけど、酔いにやられてソファに沈み込み目をつぶってしまった。
「大丈夫かな……」
心配気に見ていると、またも、「ほっとけ」と冷たい一言。けれど、その直ぐあとに寝室から毛布を持ち出し、哲さんへとかけてあげている。
やっぱり、優しいね。
哲さんのために、お水と二日酔いの薬をテーブルに置く。
「英嗣は、大丈夫?」
「おう。哲を連れてくるのに必死で、酔いも吹っ飛んだ」
不服そうに洩らす顔を見て、クスクスと笑った。
「寝っとったんやろ? すまんな、起こして」
首を横に振り、そのまま二人でリビングのテーブルへ向い、温かい紅茶を入れて席に着いた。
「ライヴ、来んかったんやな」
「うん。ごめん……」
財布の中にしまったままのチケットを思い出し、首を竦めた。
「盛り上がった?」
「おう。やっぱり、ライヴはええな。ファンと一体になれた気がした」
楽しそうに話す表情が、とても穏やかでつい見惚れてしまった。
英嗣は、大好きな事を仕事にしているんだなぁ、とキラキラした目が眩しくて羨ましくなる。そんな輝きに満ちた英嗣を見ていたら、凌との事を聞いて欲しくなった。クリスマスの時の事も、つい数時間前のことも。英嗣に、全部話してしまいたくなった。
「あのね、英嗣」
「ん?」
カップを両手で包み、ポツリポツリと凌との間におきた出来事を話していった。
「そうかぁ……」
英嗣は、時々相槌を打つ程度で、最後に一言そう呟くと、何を言うでもなく、冷め始めた紅茶に口をつける。
明け方の空気は少しずつ賑やかさを増し、鳥の囀りや、時々通る車の音が深夜にコチコチ響いていた時計の音を消していく。
その音たちに交じって、「うぅっ」と声を上げる哲さんに苦笑いを零し、ソファを窺い見た。
「ホント、大丈夫かな」
英嗣もソファを振り返り、「平気やろ」と笑ったあと、清々しい朝のような顔で言てくれた。
「コレクション。成功するとええなぁ」
「うん」
翌朝というか、数時間後のお昼過ぎに、やっと三人とも起床して、のんびりとしたお正月を迎えた。テーブルに並べたおせちには、あれだけ二日酔いで苦しげだった哲さんが一番箸を伸ばしている。
「哲。お前、食いすぎやんかっ!」
全部食べられてしまう事を怖れるように、英嗣が牽制する。
「ええやんっ。英嗣は、毎日こんなん美味いの食うとるんやろ? ちょっとくらい、俺にもわけいっ」
「ちょっとやないやんけっ!」
ガツガツと口に放り込む哲んさんと、それを必死に止める英嗣の攻防戦がおかしくて、声を上げて笑ってしまう。こんなに賑やかで、楽しいお正月は初めてかもしれない。
「明も笑っとらんで、止めろや!」
こっちにまで怒る英嗣に、「はいはい」なんて、また笑ってしまうんだ。
「まだたくさんあるし、いいんじゃない?」
英嗣を宥めると、「それでも、あかんっ!」と言い切った。哲さんはといえば、「けーち!」と零しながらも、楽しそうに笑っている。
三時過ぎ、ダラダラとおせちを突いていると、「そろそろ帰るわ」と哲さんが立ち上がった。
「もう少し、ゆっくりしていったらいいのに」
引き止めるような事を言ったら、英嗣が横から、「はよ、帰れや」シッシッと手で追い払うようにしている。
「言われんでも、帰るて。なぁ、あかりちゃん」
哲さんは、満面の笑みで私に同意を求める。それがまた気に入らない様子で、英嗣がシッシッとまた手で払う。
「俺は、犬か!」
「犬のが、まだ可愛げあるっちゅーねん」
英嗣の皮肉に苦笑いだ。
「ほなな。あっ! せや。大事な事、言うとらんかったわ」
玄関先で哲さんが、急に思い出したように靴を履いた後振り返る。
「あかりちゃん」
「はい?」
「明けまして、おめでとう」
「あっ。あけまして、おめでとうございます」
そうだった。言われて初めて気がついた。
「ほな、またね」
「おいっ、哲。俺には、言わんのかいな」
「けっ。おめでとさん」
おせちを牽制された仕返しとでもいうように、哲さんは皮肉たっぷりに言って出ていった。
「なんやねん」
不服そうにしながらも、結局最後には笑っている英嗣。メンバー同士の仲のよさって、こういうものなのかもしれない。
リビングへ戻って、改めて英嗣へ向き合う。
「英嗣」
「ん?」
「明けまして、おめでとう。今年も一年。よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げると、少し照れたような顔をしている。
「おめでとう。よろしゅうな」
「あっ、そうだ」
ずっと渡し損ねていた物を、部屋にとりに行く。小さな包みは、少しだけ皴になっていた。
「英嗣。これ」
「ん?」
「本当は、クリスマスの時に渡すはずだったんだけど……」
色々あった事を思い出し、目を伏せた。
「なんや? 開けるで」
「うん。あ、でも、つまらないものだよ。ホント、つまらなすぎるから、要らなかったら捨てて」
なに言うとるん、と英嗣はブチブチ言いながら包みを解いていく。中から顔を出したのは、紫パールの天然石でできた、地球儀のキーホルダーだ。
「これね、天然石だから、同じ物がないの。世界で一つだけの地球儀」
「ほおぉ~」
英嗣は、感心したようにキーホルダーを眺めている。
「しかも、運気が上昇するって」
やっと手渡す事ができたプレゼントに、満足げな笑顔を浮かべた。
「これ以上運気が上がったら、えらいことになるなぁ」
ニコニコと満足げな私の手を、英嗣が引き抱き寄せる。
「……えいじ……」
戸惑いと嬉しさに、声が上ずってしまった。
「明が俺の傍におる時点で、運気は昇り調子や」
「へへ。私、あげまん?」
「あほぉうっ! 女が、そないな言葉を口にすなっ!」
驚いて体を離し、目を丸くしている。意外と古風なのかも。
「ごめん」
首を竦めると唇が触れた。
温かくて柔らかな感触に、幸せの鼓動が鳴り響く。
優しく触れただけの唇は、啄ばむように変り、そして深くなる。
大好きな人とするキスが、こんなにも幸せに満ち溢れたものだと初めて知った。
少しすると、ゆっくり惜しむように離れていく。
そうして、見つめあったまま互いに目じりを下げてもう一度抱きしめあった。
ああ、幸せすぎてどうにかなってしまいそう――――。
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