第32話 気づいた感情と向けられた感情 2

 しばらくしてから、凌におかゆを少し食べさせ薬を飲ませた。明け方になると熱も大分下がり、規則正しい寝息を立てている。

 寝室のドアを眺めながらリビングのソファに座り、無言の携帯を睨みつける。

 英嗣の声を聞きたい。けれど、かける事をどうしても躊躇ってしまう。

 先にマンションに戻るとは言っていたけれど、やっぱり昨日買ったプレゼントが気になり仕方なかった。

「好きな人のところへ、行ってるよね……きっと」

 いつになくしおらしい思考が、持っていた携帯をテーブルへと置かせる。

 凌の様子をもう一度見に行こうと立ち上がると、丁度寝室のドアが開いた。

「おはよ……」

 まだ気だるげだけれど、しっかりとした足取りで空いているソファに腰を下ろした。

「起きてきて大丈夫なの?」

「うん。すっかり熱も下がったみたいだ。きっと、明が作ってくれたおかゆのおかげだな」

「なら、よかった」

 それでも、ふうっと吐いた息がまだ少しだけ辛そうに見える。

「水、飲む?」

「コーヒーがいい」

「我儘」

「病人は、我儘なものだよ」

「えっらそう」

 少しだけ笑い合いあったあと立ち上がり、食器棚からカップを取り出そうとしたとき、ふと目に入ったものがあった。

「これ……」

 飾り棚の、ガラスの奥に見えるものが目を奪う。そばに寄り、扉を開けてそっと手に取った。

「凌、これって」

 ソファに座る凌を振り返り、小さな小瓶を掲げて見せた。

「こんなところにあったんだ……」

「ああ」

 凌が懐かしむような目をする。

「そのマリモ。せっかく買ってやったのに、明は要らないって突き返してきたよな」

「そうだったっけ?」

 記憶の糸を必死にたどっていくと、微かにその当時のことが思い浮かんできた。

 確かあの時、買ってきてくれた凌に、ありがとう。も言わずに怒ったんだ。

 どうして、怒ったんだっけ?

「明は、焼きもちを妬いたんだよ」

「焼きもち?」

「そ。それより少し大きめの小瓶に入ったマリモを、当時仲良くしていた近所のお姉さんにもあげたんだ。そしたら、その差を見た明は、お姉さんのマリモと比べて、こんな小さいの要らないっ!! てさ……」

 あの時は、ちょっと面食らったなと、凌はおかしそうに笑みを漏らしている。

「そんなこと、あったっけ?」

 言われてみれば、そんなことがあった気はするけれど、やはりはっきりと思い出せなかったし、凌に対して焼きもちを妬くなんてとても考えられない。

「でも、ふくれた顔が可愛くてさ。あんまり可愛いからキスしちゃったよ」

 キ……ス……。

「あっ!? 思い出した……」

 そうだ、その時だよ。ファーストキスを、奪われたのはっ!

「マリモより、いいものをやるからって言われて、私……」

「そうそう。素直に目をつぶる姿がさらに可愛くてさ」

「あのね……」

 こめかみが怒りにピクピクと痙攣する。よみがえった悪夢にわなわなと怒りがこみ上げるも、病み上がりの病人を張っ倒すわけにもいかない。

 今は堪えろ、明。

「あれ。私の人生の中で、最大の汚点だから。その脳内から抹消してよねっ」

 ふんっと鼻息を勢いよく出して抗議した。

 能天気な顔をしている凌は、大切な記憶だから簡単には消せないよ。と少しだけ寂しげに笑った。

 くっそぉ。病人じゃなかったら、マジ秒殺だけど!

 怒りにこぶしを握り締めながら、コーヒーを淹れるためにキッチンへと向う。コーヒーメーカーが見つからず振り返ると、奥の方を指差された。

 指された場所をよく見ると、ピカピカに光ったカプチーノマシーンがあった。あまりにデンと存在感を放ちすぎていて、目が拒否していたのかちっとも気がつかなかった。

「すっごい。こんなのが家にあるって、普通じゃないよ。ここでカフェ開けるじゃん」

「いいだろ?」

 少し自慢げに笑っている。あまり嫌味に感じないのは、風邪で弱っているからだろうか。

 機械の傍に行って、あれこれいじってみたけれど、使い方がさっぱり分からない。

「ねぇ、これってどうやって使うの?」

 訊ねながら振り返ると、いつの間にか真後ろにいた凌がコーヒーの粉とカップをセットして、私に覆いかぶさるようにしてマシーンを動かし始めた。

 途端、ウーンッと唸り声を上げ、コボコボとコーヒーの香りを立ち上げる。

「おお!」

 機械を見ながら感嘆の声を上げていると、真後ろに立ったままの凌がそのまま私に体重を預け覆いかぶさってくる。

「ちょっと、凌。重いよ」

 ふざけないで、と首だけ背後に巡らせようとしたら、凌の口元が耳の傍で熱い吐息を吐き出した。

「あかり……」

 背後から抱きすくめるその態度に、心がザワザワとしていく。

「ちょっ……、なにやってんの……」

 心のザワツキを振り払うように、もう一度訊ねた。けれど、凌はいっこうにその体勢を崩さないまま。むしろ、抱きつく腕が余計に拘束を強めていく。

 その抱きしめ方は、まるで恋人にでもするようだった。とても大切な人を、抱きしめるような包み方。

 瞬時に、バーの前で突然抱きつかれた事を思い出した。

 私に、想う人を重ねてそうしているんだよね?

 疑問を口にして問いただしたいのに声にならない。

「あかり。ずっとここにいて欲しい……」

 言われた途端、鼓動が早まる。パニックに陥りそうになりながら、もう一度、笑い飛ばすように口を開いた。

「だから、それはできないって、前にも……」

 無理に作った笑いを遮るように、耳元では切ない声が私を縛り付ける。

「明に、傍にいて欲しい。もう、離れたくない」

 何を言ってるの? おかしいよ。

 それじゃあ、本当に恋人へのセリフじゃない。私たちは、兄妹でしょ?

 奈菜美さんが居るわけでもないのに、こんな演技しなくてもいいじゃない。こんなの、変だよ。おかしいよ。

 前に回る凌の腕に触れ、放して欲しいと力を入れても解放してはくれない。寧ろ、更にギュッとしがみついてくる。

「りょう……。おかしいよ……。こんなの、おかしいよ……」

 震える声で抗議した。

 さっきまで、懐かしい兄妹の昔話に声を上げて笑っていたじゃない。なんでこうなるのよ。

 抱きついていた凌は、私の体を自分の方へ向かせると、肩に両手を置き真っ直ぐ目を見つめてくる。

「おかしいことなんか、ないだろ……」

 凌は、力ない声で訴えかけてくる。けれど見つめてくる瞳には、決意のようなものが強く見えた。

「だって、俺たち。血は繋がっていないんだ。だから、こんな気持ちになったって、少しもおかしいことなんかない。そうだろ? 元々、無理なことだったんだよ。連れ子同士が異性だなんて。こんな気持ちになるのなんて、わかりきってることじゃないか。好きになったって、少しも不思議じゃないんだよ」

 疑問を投げかけるようにしているけれど、それは当然の事というように掴まれた肩を強く握られる。

「ずっと、言えなかった。だけど、もう胸に収めておくには、気持ちが大きくなりすぎたよ。俺、明を見つけることができた時、あれだけ好きだと思っていた奈菜美の事を、少しも考えなくなってた。明のことだけで、頭も心もいっぱいになって、自分ではどうしようもなくなってた」

 握っていた肩から手が離れていく。離れた手は背中に回り、私をゆっくりと引き寄せた。

 凌の胸の中に、すっぽりと納まってしまう。ドクドクと心臓が早鐘を打つ。自らの心音が耳に届く。

 何をどう考えればいいのか、頭の中は真っ白だった。

 いくら仲が悪いと言ったって、兄妹は兄妹。いくら血は繋がっていなくても、その事実が覆されるなんてこと、少しも考えた事などなかった。だって、私たちは、家族なのだから。

「あかり。一緒に、暮らそう」

 もう一度そう言うと、凌は身を屈め、ぼんやりとした思考の私を覗き込んでくる。

「俺たち、一緒になるのが一番いいんだよ」

 なにを言ってるの?

 そう思う間もなく、凌の整った顔が近づいてくる。降りてくる、形のいい唇。

 このままじゃ――――。

「いやっ!」

 残りほんの僅かの距離で、凌から顔を逸らした。

「明……」

 寂しげな声が、降って来る。

「いやだ……。こんなの、いやっ!」

 凌を突き飛ばすと、ふらついた凌がシンクの端に手をついた。その目が、悲しみに揺れていて見ていられない。

「わ、私。帰るね……」

 目も合わせず言って、リビングに置きっぱなしにしていたコートと携帯を手に取った。

 逃げるように玄関へ向うと、凌が叫ぶ。

「あかりーっ!」

 悲痛な叫びを受け入れることなど到底無理で、振り返ることもなくマンションを飛び出した――――。


 タクシーで来たおかげで、どっちへ行けば駅なのかも判らず、とぼとぼと明け方の道をただ闇雲に歩いていた。

 寒さが否応なく体中に纏いつく。知らず流れていた頬の涙が、凍りついていくようだ。

 なんで……?

 どうして……?

 巧く考えられない脳内には、この二文字だけが只管に、グルグルと巡っている。

 抱えていたコートを羽織、握り締めていた携帯に目を落した。

「英嗣……」

 助けを求めるように名前が漏れ出て、別れ際に言ってくれた言葉を思い出した。

―――― ちゃんと、戻って来いよ……。

 その言葉だけを道標のようにして、地面を見つめて肩を落としていた顔を上げ大通りを探した。

「帰ろ……。帰らなくちゃ……」

 どのくらい歩いただろう、やっとの思いで大きな通りに出ることができた。

 今どの辺だろう。

 道路上の青色の看板を見上げて、流しのタクシーを止める。

「近くの駅までお願いします」

 早朝の空いている道路を、タクシーはスムーズに進んだ。程なくして、見知った駅名の看板が目に飛び込んでくる。

 千円ちょっとの料金を払ってタクシーを降り、電車に乗り込んだ。空いている座席に腰掛け、もう一度縋るように名前を呼ぶ。

「英嗣」

 携帯を両手でギュッと握り締め、さっきの事を忘れるために、いつもの生活を思い浮かべる。

 毎日毎日どやしてくるあの声を。ギターを弾いて歌っていたときの艶のある声を。本気で怒った顔や、照れた顔を。冗談を言って笑い声を上げる姿や、物怖じしない態度に、酔ってクダを巻く姿や、時折見せる優しさ。

 英嗣の全部で頭の中を一杯にして、凌との事を必死に脳内から追い出そうとした。

 なのに最寄り駅に辿り着くまでの数駅揺られている間にも、どんどん涙が込み上げてきて、周囲に気付かれないように何度も拭った。

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