第10話 嫌な過去と優しさに触れて 1

「本当によかったんですか?」

 ショップを出て、大きな紙袋を肩にかけて歩きながら訊ねた。

「何がや?」

「コートです。こんな高いもの買って貰っちゃって」

 殊勝にもそんな事を言ってみる。

「前に約束したからな」

「そうですけど」

「まぁ、その分よう働いてもらうし」

 水上さんの目が、キランッと光る。

 ううっ。その目、恐いんですが。

 今まで以上にこき使われて、シンデレラ並にいじめ倒されるかもしれない。

 ひぃぃぃっ。このコート、今のうちに返すか?

「そないなことより。敬語は、使うなって言うたやろ」

 ずんずんと先を歩きながら、ちょっと怒った様子。

 せめて買ってもらった時位はと思い、あえてそうした言葉を使ってみたのだけれど、余計な事だったらしい。

「ごめん。ありがとう」

 今度は、素直にお礼を言った。

「おう」

 相変わらず背を向けたままだったけれど、返事はとっても優しい声音だった。

 きっと、前に回りこんで彼の表情を見たら、菩薩のような穏やかな顔をしているんじゃないだろうか。けれど、その表情を想像する事はできなかった。

 だって、普段は、菩薩どころか閻魔様のような顔ばかりしているから。

 舌抜くどぉー! てね。

 あぁ、でも。酔っ払った時の顔なんかは、菩薩とまではいかないけれど、穏やかで優しい顔つきをしているよね。

 ああいう顔の方がいいのにな。

 再び込み合った街中を歩いていく。

 うっへー。この人混み、なんとかならないのかな。また誰かにぶつかっちゃいそうだよ。

 しかも、大きな紙袋を肩に背負ってるだけに、さっきよりも動きにくい。

 人の波をアワアワしながらなんとかすり抜けていると、行きはとっとと先を歩いていた水上さんがゆっくりとした歩調で隣に並び、コートの入っている紙袋へと手を伸ばした。

「それ、貸しぃ」

「えっ、でも」

 買ってもらった上に、持ってもらうなんて、そんな恐れ多い命知らずな事などできませんてっ。

 とんでもねぇです、旦那さまぁ、と遠慮をすると、半歩前に居た水上さんが私の肩にかかる紙袋を強引に手に取り、結局代わりに持ってくれることになった。

「ありがとう」

 恐縮至極でへつらった。

 水上さんの行動は、それだけに留まらず。さっきと同じように、もう一方の手が私の手をギュッと握る。

 えっ!? な、なになに。まだ転んでもいないのに、どうして手を繋ぐの?

 一体、どうしちゃったというのか。こんな行動、本当に普段の彼からは想像できないんですけど。

 もしかして、実は既にアルコールが入ってるとか?

 ふざけたことを思ってみても、さっき名残惜しく感じて離れていった手が、再び繋がったことに心は不思議な温かさで満たされていった。

 繋がり触れた肌から、説明のできない何かかが流れ込んでくるみたいだ。

 春の穏やかさに似ていて、それでいて楽しみな夏休みがやってきた、はやるように急かす感情に似ている。

 これは、なんだろう?

 トクントクンと奏でる心音。街の喧騒は、本人さえも気付かないほどの些細な音を、騒がしさを纏い尽かせて簡単に聴き逃させる。

 大通りに体を乗り出したかと思うと、水上さんはタクシーを止めて乗り込んだ。手を引かれたままの私も引っ張られるように乗り込む。

「自由が丘まで、お願いします」

 運転手さんに場所を告げると、繋がっていた手がまた離れていった。

 二人の手が行き場をなくしたように膝の上でグニグニと動いたり、意味もなく携帯を手にしてみたりする。

 言葉の少ない水上さん。結局、車内はまた無言。このままいくと、また気詰まりになりそうなので早々に話しかけることにした。

「今度は、食事ですよね?」

「おう」

 短い返事が一つ。運転席の傍にあるデジタル時計を覗き込むと、時刻はとっくにお昼を過ぎ、ティータイムの時間に差し掛かかろうとしていた。

 コートをのんびり選びすぎたせいで、もうこんな時間だ。

「あのぉ、ごめんなさい……」

「ん? なにがや?」

「コート選びに、時間かかりすぎたよね」

 顔色を窺うようにして見る。

「気にせんでええし」

 さほどのことでもないというように、プイッと窓の外を向いてしまった。

 気遣いに怒ったようにも見えたけれど、多分そんな事はないだろうなと、今日一日の行動を振り返ってみて思った。

 だって、手を差し伸べてくれたり、わざわざコートを買いに連れて行ってくれたり、ぎこちなくも優しい感情を持っている人だから、これは照れ隠しなのだろう。


 次に連れて行かれたのは、自由が丘のお店だった。水上さんのことだから、定食屋さんとか大衆食堂とか気兼ねなく入れるような和テイストのお店を選ぶだろうと想像していたけれど、その予想は見事に裏切られる。

「ここですか?」

「おう」

「ほえぇ~」

 予想外の店構えに、感嘆の溜息が漏れ出た。

 連れて行かれたのは、カジュアルフレンチのお店だった。

 クリーム色をした明るめの外観。入口付近には小さな花壇が設けられ、可愛らしくカラフルな花が植えられている。店内に踏み込めば、外観と同じクリーム色と白を基調にした壁紙が、やわらかい照明の灯りとマッチしていて心を明るくさせた。

 通された予約席の傍には、外に植えられていたのとは別の種類の花たちが背の高いプランターに咲き乱れていて、巧い具合にそれが二人の席を隠している。

 水上さんが、こんなこじゃれたお店を知っているなんて、イメージにないんですけど。

 失礼な事を思いつつ席に着く。向かい合いながら、「可愛いお店ですね」なんて言ってみる。

「せやろ?」

 得意気な顔が返ってきた。

「女は、やっぱりフレンチかイタリアンやと思ぉてな。それに、女ってーのは、こういう雰囲気が好きやろ?」

 更に得意気に口角を上げる。

 ん~、そうとも限らないですけどね。ちょっぴり苦笑い。

 だって、一昔前のメンズ雑誌に乗っていそうなデート必須プラン的な発想の水上さんが、ちょっと可愛くて可笑しかったから。

 すると、「なんやっ!」と不機嫌そうに威嚇されて、「いえいえ。何でもございません。あは」なんて笑って誤魔化すわけです。

 店内は昼時を過ぎたせいか、六割がたの混み具合。ほとんどが若い女の子たちで、ほかには数組のカップルがランチというよりは、お茶をしに来ている。

 個々のテーブルには、美味しそうなケーキと香り立つお茶が並び、みんな一様に笑顔を零していた。

店員さんから渡されたメニューは、ランチタイムを過ぎてしまったためアラカルトかコース料理。その中には、魚料理や肉料理、もちろんパスタやリゾットもあった。

「なににしよぉかなぁ?」

 写真つきのメニューは、全部が全部美味しそうに見えてしまい、どれにしたらいいのか迷ってしまう。貧乏根性が治らなくて、ローストビーフやサラダをお土産にしてもらいたい、などと食べ終わったあとのことまであさましく考えてしまった。

「これにせぇへんか?」

 嬉しそうな顔つきで提案してきたのは、チーズフォンデュのコース料理だった。

「せっかく二人なんやし、こういうほうが楽しめるやろ?」

 照れくさそうに。だけど楽しみだというように話す水上さんへ相槌を打った。

 こういうところ、やっぱり可愛いと思うのよね。あ、でも男の人は、可愛いって言われるのは、褒め言葉に聞こえないんだっけ? でも、強面っすよね、なんて言われるよりかは、よくない?

 ま、そんなふざけた事をいう機会などないとは思うけど。言ったら最後、顔面グーパンチだろうね。しかも、中指の間接飛び出ててるやつね。鼻の骨、折れるし。

 想像しただけで、鼻の辺りがツーンと痛くなって、皺を寄せてしまった。

 店員さんを呼び、チーズフォンデュのコースを注文。当たり前の如く、ワインのボトルを入れている。

 昼間っから飲みますか? 飲みますよねぇ、やっぱり。

 お酒を飲むと上機嫌になるわけだし、チーズといったらワインだろうし。私も、ワインなんてこじゃれた飲み物を口にしたいし。水上さんが少しばかり酔ってくれた方が、食事も美味しくなりそうだし。

 以下のことを踏まえて、少しの反対もせずフランスワインをあやかる事にした。

 二つ置かれたグラスに、綺麗な色の紅い液体が注がれる。トクトクトクと立てる音が心をくすぐった。

 この音と香りだけで、うっとりしちゃう。ワインなんて、ついぞ飲む機会などなかったから、グラスを目線に合わせたままぽけらぁとしてしまう。

 カベルネだかメルローだか知らないけれど、なんて素敵な液体だろう。

 多分、初めてマンションを訪れた時のように、今の私はアホみたいな顔をしているのだろう。

 目の前の水上さんは、アホ丸出しの顔を怪訝そうに見たあと、カチリとグラスを当ててきた。その音で夢から醒めたように、現実へと戻ってくる。

 無言のままワインを口に含むと、ふわりと口内に広がる香りと渋みにまたうっとり。恍惚としていると、前菜にあたるフォアグラのソテーが運ばれてきて興奮する。

 ふぉっふぉっふぉっ。フォアグラぁぁぁ!?

 初めて見るその固形物に、目は釘付けになる。

 フォークとナイフをガッチリ握って、人生初のフォアグラへ、いざ入刀! 一切れ口に含めば、とろけるように口の中で香りが広がった。

 うんめぇ~。

 むふふう、なんてニヤニヤした顔をしていたら、目の前から「おもろい顔やな」と少しバカにしたように笑われた。

 ええ、ええ。なんとでもおっしゃってくださって構いませんよ。だって、そんな顔になっちゃうくらい美味しいんだもん。

 ワインや前菜からこんな調子じゃあ、メインを食べた頃には、この世のものとは思えない顔つきになっているかもしれませんがね。

 そういえば、初めて外で食事した時に、同じようなことを言われた記憶があるな。確か、家族四人で出かけた最初で最後の食事だったはず。街の洋食屋さんだったけれど、食べたハンバーグがこの世の物とは思えないくらいでたまらなかった。確か、ビーフ百パーセントだったのよね。もう、美味しくって、美味しくって、とろんとした顔つきをしていたら、兄貴に面白い顔だと笑われたんだ。

 え!? 兄妹いたの? とか訊かないでね。兄貴っつっても、血の繋がりはないから。

 今じゃ兄妹とも思いたくないし。兄妹っていう現実さえ、抹消したいくらいなんだから。

 小さい頃から苛め倒されて、いつか仕返ししてやる! と胸に誓っていたが、六歳の年の差は大きかった。

 テレビのチャンネルは速攻変えられ、夕ご飯のおかずは横取りされ、食器を割った罪をきせられ、おやつだって私の口に入ることは稀なくらい。

 でも、そんな事は序の口で。まだまともに泳げない私を、深いプールに突き落とし、かくれんぼと称して神社の境内に閉じ込めたまま家に帰り、捜索願が出ると家出をしたと言い張った。

 したくもないプロレスごっこの相手を無理矢理やらされた挙句、それがエスカレートして、布団の上から羽交い絞めにされて、窒息死しそうになったことだってある。

 とにかく、一生懸命に両腕振り回しても、大きな片手でおでこ辺りを押さえつけられて、両腕ブンブン空振り、そんな感じだったのだ。

 なんともアニメチックだけれど、それが現実だった。

 しかも、しかもっ! これが一番最悪で、「目をつぶれ」と強制され、こわごわ目をつぶったら、兄貴の奴キスなんてしてきやがった!

「モテモテの俺のキスだ。ありがたく受け取っておけ」とほざきやがって、思い出しただけで虫唾が走る。

 確かに兄貴は、凄くもてていた。告白だってしょっちゅうされていたから、女はとっかえひっかえだっただろう。

 だから、なに? 私、妹だし。つか、私のファーストキスが、兄貴ってなによっ。

 どうしてくれるんだっ!!! 返せっ、私のファーストキス!!! 思い出しただけで、胸糞悪い。

 奴は大学生になるとさっさと家を出て、まだ中学生だった私は借金まみれの父親と二人の生活をしいられた。

 そもそもオヤジがあんなに借金まみれだと、初めは知らなかった。一緒に来るか? なんて、口角を上げて笑った兄貴に着いて行ったら、一生苛め続けられると思い、梃子でも動かん! と家に留まったわけだけど、それが裏目に出ちゃって借金のあり地獄ってわけ。

 大体が、うちの家族はろくなものじゃないのだ。

 くっそぉ、脳内に兄貴が登場したせいで、せっかくの美味しい料理が不味くなりそうだ。

 ぶるぶると二・三度小さく首を振り、厭な過去を振り払う。

 気付かぬうちに眉間に皺を寄せていたらしく、どないしたんや? 不味いんか? と水上さんが不安そうな顔を向けてきた。

 いえいえ、滅相もございません。不味いなんて、とんでもない。ちょっと、虫唾の走る過去を思い出していただけでございます。

 なんとか気を取り直し、表情を和らげる。

「とっても美味しいです」

「なら、美味そうな顔してろや」

 ごもっとも。

 多少、剣のある顔を向け窘められてからは、ただひたすら食事に集中した。

 前菜のあと、季節の野菜を絡めた生パスタ、果実のソースがかかったポークグリルを堪能していると、いよいよメインのチーズフォンデュがやってきた。

 温野菜やパンやウインナーなんかが食べやすいサイズに切られていて、それをたっぷりのチーズに絡めて食べる。

 熱々のとろぉり。

「おいひぃ~」

 はふはふ言いながら食べていると、水上さんも、ほんまやなぁ、と次々とチーズに具材を絡めてパクパク食べていく。

 チーズフォンデュの美味しさに、ワインもどんどん進み、あっという間にボトルが空いた。

 水上さんのエンジンは全開のようで、当たり前のようにもう一本ボトルを入れる。

「そんなに飲んで大丈夫ですか?」

 いくらアルコールが入ると上機嫌になるとはいえ、このペースはヤバいんじゃないかと心配になってきた。

 だって、上機嫌通り越して大暴れされても困る。しかも、明日大阪へ帰るっていうのに、二日酔いなんて、まずくない? それとも、帰ったその日は仕事がないのかな?

 大体、東京駅まで私が運転してくんだよね? 一緒になってこのペースで飲んでたら、運転なんてできなくなっちゃうよ。そっちの方が、よっぽどヤバイ気がする。

 家の近所を少し運転はしてみたものの、基本ペーパードライバーですから。東京駅まで、無事に着く保障はできませんぞ。保険かけといてくださいね。

 あ、もしかして、既に多額の保険がかけられているとか?

 ひいぃー、恐っ! おのれー、保険金目当てか!

 いくらかけたんだ! 一億か? 二億か?

 とんでもねぇ雇い主だぜ、なんてふざけた事を考えながら見ていると、「これくらい、なんてこたぁないわ」と二本目のボトルを大いに傾け、グラスになみなみと注いでいる。

 それ、ワインの飲み方として、どうなのよ。まるで日本酒を注いだ枡をズズッと音を立て、上澄みを飲むみたいにしている姿にちょっと苦笑い。

 すると、同じように私のグラスにもなみなみと注いでくる。

「わわわっわっ! そんなに入れなくてもっ」

 波打つたっぷりの紅い液体に焦る。

「大丈夫やって。このくらい大したことないゆうてるやろぉ?」

 既に呂律が怪しい気がするのは、私だけでしょうか……。

 結局、食後のコーヒーが出てくる頃には、二本目のボトルは空になり。それでも飲み足りなかったのか、二、三杯グラスワインを頼んでいた。

 アルコールにやられて速くなった鼓動を抑え付けるように、私は苦いコーヒーを体内に流し込む。

 水上さんは案の定、相当なご機嫌ぷりアンド酔いっぷり。目元はとろんとし、頬も赤くなっている。

 これで禿げていたら、こーの、よっぱげがぁー。と突っ込むところだが、生憎水上さんは禿げていないので突っ込めない。

 売れっ子ミュージシャンが禿げてたら、致命傷だよね。良かったねぇー、禿げてなくて、うんうん。

 くだらない思考の傍で、水上さんが呂律の怪しい口調でしゃべっている。

「あかりぃ、お前はほんまよぉ働くわ、うん」

「ありがとうございます」

「あかりぃ、お前はほんまに料理が美味い、うん」

「ありがとうございます」

「あかりぃ、お前はハキハキとしていてほんまに気持ちがえぇ、うん」

「ありがとうございます」

「あかりぃ、敬語はあかんっ、ゆうてるやろぉっ――――」

「あ、ごめん」

 こんなやり取りが、壊れたレコードみたいにしばらく続いた。

 褒められるのは嬉しいけれど、この酔ったおっさん――――。

 んんっ! 失礼。基っ!

 この酔ったご主人様を、どうやって家までつれて帰るか。十一月とはいえ、外はまだ充分明るいですからね。こんな時分からこれだけ酔ってる人も、珍しいですから。

 呆れる私に気付きもせず、水上さんは店員さんをテーブルに呼んで、しっかりカードでお支払を済ませてくれる。

 ありがたや、ありがたや。ご馳走さんでございます。

 日本昔話に出てくる、おじいさんやおばあさん並に両手を擦り合わせてお礼のポーズ。

 その後、お店の人に頼んでタクシーを呼んでもらった。

「水上さん、立てますか?」

 手を差し出すと、「どあほぉっ!」と勢いよく払われた。

「酔ってへんわ」

 言葉とは裏腹にフラフラと立ち上がると、さっき買ってもらったコートの袋をしっかりと抱え出口を目指す。

「ああっ。それ、自分で持ちますから」

 慌てて手を伸ばすと、またパシッと払われる。

「女は、そないなことせんでええのんやっ」

 どうやら、レディー扱いされているみたいだ。

 ありがたいけど、酔っているのでありがたくないような微妙なところ……。


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