第12話 二度と会いたくなかったのに 1
翌朝、あんなにワインを飲んだわりに寝付けなくて、早々に目を覚ました。ベッドから這い出ると、朝の空気は冷たくて、ブルッと一度身震いをした。なるべく音を立てないようにリビングへ出て、壁の時計を見る。
時刻は、まだ四時を過ぎたばかりだった。
「ちょっと早すぎるな……」
ポリポリと頭をかき、まだ寝ているだろう水上さんがいる寝室のドアを見つめた。
普段はとっても恐くて、いつも怒ってばかりだけれど、昨日のように時折見せる気遣いや優しさ、そして子供のようにはしゃぐ姿は、まるでずっと前からの知り合いや友達のようにとても親近感を抱かせる。
怒ったり、照れたり、はしゃいだり。
彼がどんな人なのか、まだほんの少ししか知らないけれど、少しずつ見せてくれる純粋さが、結構好きだな、なんて思うんだ。
寒さに対抗するように、熱いシャワーを浴びることにした。体中の毛穴からアルコール臭が漂っている気もしていたから丁度いい。
本当は、ジャグジーにのんびり浸かりたいところだけれど、そこは雇われの身。贅沢は出来ません。
シャワーを浴び体が温まったところで、のんびりと朝食の準備を始める。
東京駅には、十時までに着けばいい。水上さんを起こして、ゆっくり朝食を食べても余裕だろう。
全ての準備を終え、あとは水上さんを起こすだけとなった。
それでも、まだ少し余裕があったので、なんとなく朝の光差し込む窓辺に立ち外を見渡す。見下ろしたすぐの道路には、まだ人影もまばらで、時折犬を連れ早朝の散歩をしている人が通るくらい。
空は、薄い青が雲を従え広がっている。
こうやって、のんびりと景色を見るなんてこともずっとなかったなぁ。
毎日仕事に明け暮れて、考えるのは、あといくら借金があるかってことばかり。お金の事ばかり気にして、自分の身なりに気を遣うこともなく、ただひたすら過してきた。
それが、今はこんな風に外をぼんやりと眺める時間が持てるなんてウソみたいだ。借金はまだまだたくさん残っているけれど、以前の生活より心にはずっと余裕がある。
うんっ、と両手を突き上げて大きく伸びをし、水上さんの眠る寝室へ足を向ける。
控えめなノックを数度すると、中から返事が聞こえてきた。どうやら、既に起きていたらしい。
「朝食の準備、できてますから」
声をかけ、キッチンへ戻る。
ホットサンドを焼き、熱いコーヒーをカップに注ぐ。それらをテーブルに並べていくと、水上さんがストンと席に付いた。
「おはよう」
です。ます。抜きの挨拶をした。
「おう。はよ……」
ふわぁああ、と大きな欠伸の後、ふぅっ、と息をつく。まだ、少しだけ脳みそは、寝ているみたいだ。
席に着いた水上さんはホットサンドをチラリとだけ見て、コーヒーカップへと手を伸ばす。
いつもなら、すぐにがっつくはずなのにと見ていると。ずずずっ、とコーヒーをすすったあと。
「すまん。二日酔いかもしれん……」
項垂れるように俯き、ふぅっ、とまた息をついた。
要するに、胃が食べ物を受け付けないということだ。
「いいですよ。無理に食べなくても」
気にしないで下さい、と笑顔を添える。
二人分のホットサンドはさすがに量が多くて、一人では食べきれそうもない。
無駄になっちゃうなぁ、とホットサンドを見て思いついた。
「ホットサンド、お弁当にしませんか? 新幹線の中で体調が良くなったら食べてくださいよ。持っていけるように包んでおきますから」
いい案だ、と準備を始めた。
「おう、ありがとう。でも、敬語は、あかんて……」
体調が悪くても、それだけは譲れないらしい。
苦笑いを零し、ホットサンドを丁寧に包んだ。
ホットサンドのお弁当と水上さんを車に乗っけて、東京駅に向かった。若干込み合っている道路を、のろのろとは行かないまでも安全運転で行く。
道筋は、マンションを出る前に水上さんが、めんどぉやなぁ、とぶつくさ零しながらも東京駅へとセットしてくれたカーナビ君が指示をくれるので迷う事もない。
後ろの席では、まだお酒にやられてダルそうな水上さんが、シートに深々と座り、目を閉じている。
朝も思ったけど、なんだか変なん感じだよねー。
こんな風に車の運転をしたり、朝食を作るだけでお給料は以前よりもずっと高い。
ヘマをやってよく怒られちゃうけど、時給の低いバイトであくせく働いていた日々が懐かしくさえ思えてくる。といっても、仕事を変えてからまだそれほど時間は過ぎていないけど。
しばらくすると、レンガ色の外観が見えてきた。
「水上さん、もう直ぐ着きますよ」
信号待ちで止まったところで、後部座席に声を掛けた。
「おう……」
閉じていた目を開け、ゴシゴシと擦ると、朝と同じように、ふあぁぁあ、と大きな欠伸をしている。
ロータリーを回って車を止めた。
「ほんなら、行って来るわ」
「あ、お弁当、持ちました?」
「おう」
ちゃんと持っているとばかりに、ホットサンドが入った袋を掲げて見せる。
よしよし。
「帰りは、来週になるから。まぁ、適当に、暮らしとけ」
「あは。わっかりました。適当に暮らしてます」
水上さんの言い回しが可笑しくて笑ってしまう。
「連絡は携帯にするから、ちゃんと持ち歩いとれよ」
「わかりました」
いちいち家電にかけられても、買い物に出かけていたり、別のバイトに出かけていたら、連絡が取れないもんね。
自分の携帯を取り出し、承知しましたというように掲げて見せた。
「ほなな」
「いってらっしゃーい」
一応、車から降りて手を振ってみる。背を向けたまま、軽く片手をクイクイッと振っただけで駅舎の中へと吸い込まれていった。
「さーてっと」
再びマンションに向って車を走らせながら、便利屋の社長から依頼が来ないかなぁ、なんて考えていた。しばらく汚れ仕事からは遠ざかっていたから、またあの異臭にまみれて汗水流しながら働くっていうのに若干の抵抗は感じるものの、少しでも早く借金を払い終わるためには、タイム イズ マネーなわけだから、水上さんが言ったみたいに、適当に、なんて暮らしてはいられないのが現実だ。
マンションの駐車場に車を入れ、家に戻ってさっそく便利屋へと電話をしてみた。
コール二回で繋がる電話に、暇そうだな……と不安に思う。
「あのー、山崎です。何かお仕事は、ないでしょうか?」
暇そうだなと感じながらも、仕事にありつきたくて窺うように訊いてみた。
久しぶりにかけた電話に、社長は、う~むぅ。と唸り声をあげると、電話口でガソコソと何かを探るような音を立てる。
少し待っていると、あるにはあるが、と口を濁した。
なんだろう? いつもの汚れ仕事よりも、きっつい内容なのかな? もしかして、何十年もため続けたゴミ屋敷の大掃除とか……。
うぅ、それって結構厳しいよね。ちょっとやそっとの汚さじゃあ、すまないだろうし。
大体、そういうところに住んでる人って、結局どれも必要だから捨てちゃダメだって言い張るんだよね。
そんな風にして言う割りに、ちっとも大事にしているようには見えないから、ゴミ屋敷なんて呼ばれるんだろうけど。はぁ~……。
あ、それとも、女の私には無理なくらいの力仕事とか? 鉄骨運ぶとか、土嚢積みまくるとか……。
って、なんか職業変ってきてるよね、それって。
まぁ、なんにしてもこのご時勢、便利屋も不況の波には逆らえないってことか。仕事なんて、そうやすやすと転がっていないってことよね。
半ば諦めていると、前回と近い仕事ならあるが……、と躊躇うような口調の社長だ。
前回、と言えば。あの、いけ好かないサラリーマンの擬似婚約者役をやった仕事だ。
しかし、どうして気が進まないような口ぶりなのだろう。どっちにしろ、あるにはあると言われたその仕事、引き受けなくちゃお金にならない。
「はい。もうこの際、擬似恋人だろうが、偽婚約者だろうが、何でも引き受けますので、その仕事を紹介して下さい」
君がそこまで言うなら仕方ないとでもいうように、便利屋の社長は、依頼主の連絡先を私に告げる。自分で連絡をして仕事の内容を聞け、と言う事だ。
「ありがとうございます」
コップの水を引っ掛けられようが、相手の女に平手打ちを喰らわせられようが、そんな事を気にしている場合ではない。何が起ころうとやり遂げてみせるのさ、などと意気込んでいたら、ただひとつだけ……、と社長が口を開く。
「この件は、一度引き受けたら断ることはできない」
社長の言葉に何やら嫌な予感がしたけれど、それも一瞬のこと。水上さんが留守の間に少しでも稼ぎたいと、その依頼を受け電話を切った。
家の掃除を手際よく済ませ、一息ついてから依頼者へと電話をした。
コール五回。知らない番号とはいえ、通知しているからか、意外と早めに依頼者が電話に出た。
「もしもし。私、㈲○○の者ですが。ご依頼の件でお電話させていただきました」
社名を出すと、ああ、と言う男性の声が聞こえてきた。
その、ああ、は、気のせいかもしれないけれど、ほんの僅か、厭な笑いを含んでいるように感じられた。所謂、嘲笑的な笑いだ。
けれど、そんな事をいちいち気にしていては、仕事にならない。相手がどんな人物であれ、客は客。
電話越しに、依頼者が依頼内容を話し出すのを待った。
『悪いけど、依頼内容は電話ではなく、直接会って話したいから、今から来られるかな』
ほほぉ、電話じゃ話しにくいなんて、どんだけ世間様に顔向けできないような事をしたのか。
心で思った皮肉を表に出さないよう、嫌味にならない程度の明るい声で返事をする。
「はい。もちろんです」
『じゃあ、十四時に恵比寿の○○カフェに来てよ』
「はい、かしこまりました。うかがわせて頂きます」
プチッと音を立てて電話を切り、壁の時計を見る。
十四時か、もう出ないと間に合わないな。
電話の相手。依頼者は、声質から言って、二十代から三十代前半といったところ。少し馴れ馴れしい話し方から、サラリーマンという感じではなかった。どちらかと言えば、自由業。もしくは、自分でIT関連やファッション関係の仕事を起業している社長といったところかな。
細身のスーツに、インテリ眼鏡。ちょっと鼻につく物言いで、薄い唇の端を嫌味にあげる。そんな、イメージ。
お手柔らかに願いますよぉ。
依頼者が、どんな相手かを想像しながら出かける準備をした。と言っても持ち物なんて、それほどお金の入っていない財布と、ガラケー。それに、ここのマンションの鍵くらいだ。
買ってもらったコートを羽織り、早速恵比寿へと向った。
電車の中で、また水を引っ掛けられるような事態になるかもしれないのに、買ってもらったばかりのコートを着てきたのはまずかったなと後悔はしたものの、外に出て冷たい風に吹かれるとすぐにあのおんぼろコートじゃあ寒すぎるからこれで正解と思い直す。
とりあえず、水やコーヒーなんかを引っ掛けられるような事態にだけはならないようにと願った。
指定されたカフェは、目黒へと向って延びる道路を道なりに少し行ったところにあった。店内は、照明を少し抑え気味にしてあり、昼間だというのに仄暗い。かと言って、陰気くさい感じではけしてなく。どちらかといえば、落ち着いた昔ながらの喫茶店を少し今風のカフェにリニューアルしました、という内装だった。
入ってすぐのレジの前で、キョロキョロと辺りを窺ったが、依頼者らしき人物は見当たらない。奥に二階へ続く階段があるから、多分上がった先に居るのだろう。
レジに並び、メニューを見る。一番安い“今日のコーヒー”という名のコーヒーを贅沢にも注文し、熱々のそれを持って階段を上る。
これ、社長に言ったら、経費で落ちるかな?
領収書を貰えばよかった。とレジカウンターを一瞬振り向いたが並んでいる客の多さに、あとでいいか、と取りあえず階段を上った。
二階には、テーブル席とカウンター席の二種類があり。依頼者と思われる男が、少し陰になっているテーブル席にこっちを向いて姿勢よく座っているのが見えた。
手足は長く、コーヒーカップをもつ指はピアノでも弾きそうなほど長く綺麗。サラサラの髪の毛に通った鼻筋。嫌味にならない程度の二重が、茶色の瞳を際立たせている。
そして、薄い唇は、昔の記憶を甦らせ、背筋に悪寒が走った。
優雅にお茶をしているその人物に息を飲む。
今日のコーヒーを手に持ったまま、回れ右。たった今上ってきた階段を下りようと一歩踏み出した。けれど、その行動を止めるのに充分なほど、落ち着いていて、なのに強制的な声が名前を呼んだ。
「明」
反射的にビクリとしてその場に留まった。
「あかり」
もう一度。今度は、ゆっくり放たれた自分の名前に振り向かざるを得なかった―――――。
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