第17話 温かな感情

 凌からの連絡がないまま、水上さんが帰ってくる日がやってきてしまった。私が留守の間にしたことといえば、毎日の掃除と一人街をうろついたこと。運転の練習と称し、近所をドライヴしたことくらい。あとは、ダラダラとテレビを見てばかりいた。おかげで、結構な情報通になった気がする。

 これなら、道っぱたで話し込んでいる井戸端会議のおば様たちに紛れ込んでも、違和感はないかもしれない。しかし、こんなに無駄な時間というか、あくせくしないで過したのはいつ以来か。全く思い出せないほど、この数日のんびりとした毎日を送っていた。

「体がなまりそうだ」

 うぅっ、と両手を突き上げひと伸びしする。

 水上さんが帰ってくるということは、この先凌から仕事の実行を告げられたとしても、動けないという事を意味する。

 だって水上さんたら、門限十時を強制してくるし。便利屋の仕事の事、あんまりよく思っていないみたいだし……。

「まいったなぁ」

 大体、依頼しておいて、それから、うん。でも、すん。でもない凌も凌よ。まったく、どうなってんのよ。

 愚痴ってみても、身動きが取れないことに変わりはない。

「これは、断るしかないかな。便利屋の社長に言って、他の人と交代してもらうか。それとも、凌に自分で解決するように言うしかないか」

 それだと報酬は無しになってしまうし、もしかしたら裏で握らされたお金を逆に自腹で支払う事になるかもしれない。

 けれど、水上さんが帰ってくる以上、どうしようもない。

 舞い込むはずだった報酬額の数字を頭に描き、支払う事になるかもしれない数字に項垂れる。四つはあったはずのゼロが、バラバラバラと音を立ててゼロどころかマイナスの数字をはじき出す。

「全く、いい加減なんだからっ」

 目の前にいない相手に怒ってから、水上さんが帰ってくる時間を確認した。

 新幹線は、三時過ぎに着くらしい。その後、事務所が用意した車でマンションまで帰ってくるとか。

 夕食は家で食べるらしいから、お昼を過ぎた頃からできる範囲での下準備は既にしてあった。

 こじゃれた壁の時計に目をやると、時刻は四時。道が混んでいなければ、あと一時間もせずに帰ってくるだろう。

 炊飯器のスイッチを入れ、食事の準備に取り掛かる。

 大阪は食い倒れの街だから、色んな美味しい物を食べてきているだろうけれど、家庭の味っていうのも悪くないでしょ? 的なメニューを用意する。

 炊きたてのご飯に赤だしのお味噌汁。焼き魚にお新香。きんぴらと揚げだし豆腐もつけちゃう。

 お帰りなさいのメニューにしては、上出来じゃない?

 もう一度、壁の時計に目をやった。

 そろそろかな?

 そう思ったところで、ガチャリとドアの開く音がした。

「ただいまー」

 グッド タイミング!

「お帰りなさーい」

 玄関先までつつつと行き、をお出迎えする。

 一週間ぶりに見た水上さんは、少しだけできた目の下のクマが仕事の忙しさを感じ取らせた。

 そりゃそうよね。人気のミュージシャンでしょ? しかも、東京と大阪を行ったり来たりじゃあ、疲れて当然よね。

 留守の間に意味もなく見ていたテレビ番組を、思いだした。

 画面の中では、生の歌番組やほぼバラエティ化した歌番組に出演している水上さんを、何度か目にすることができた。

 歌を気持ち良さそうに歌い。メンバーと楽しそうに笑い。ここでは、ついぞ見せないその顔を、画面からは度々見ることが出来た。本当に同一人物ですか? そう問いたくなるくらい、喜怒哀楽の喜と楽が激しく表れていた。

 ここでもあんな風に大きな口を開け、めいいっぱい目を細めて笑ってくれたらいいのに。

 画面の中でラフな、“MINESOTA 81”のTシャツをさわやかに着こなした姿に、何度ブツブツと文句を言たことか。

 帰ってきた水上さんは真っ直ぐ寝室へ行き、荷物を置くとすぐにダイニングの椅子に着いた。

「すぐに、できますから」

 甲斐甲斐しく、ヘルパーとしての仕事をこなしていく。

 久しぶりのこの慌しさというか忙しさは、体に馴染んだ貧乏性をかき立てられて、体が勝手に動き出す。これぞ、明、という具合だ。

 テキパキと料理を仕上げてテーブルに並べて行くと、席に着いた水上さんが待ってましたとばかりに箸を持った。

「いただきまーす」

「いただきます」

 以前、食事を別にするな、と言われていたので一緒にテーブルに着き箸を持った。

「うまいなぁ」

 シミジミというように、揚げだし豆腐を咀嚼して呟いている。

「ありがとう」

 作った物を人に褒められるのは、嬉しいものだ。

「どんどん食べちゃってね。ご飯も、お代わりしてね。あと、きんぴらと揚げだしもまだあるから」

「おう」

 敬語にならないよう気をつけながら、箸の進む水上さんにお代わりを勧めた。

 水上さんは、思った以上に食べてくれた。ご飯と味噌汁もお代わりをして、綺麗に食事を平らげる。

 満腹になって背凭れに寄りかかる水上さんへ、食後のお茶を出した。

 熱さに顔を顰めながら、ずずとお茶をすする水上さんは、縁側のおじいちゃん並に穏やかな顔つきをしている。

「大阪は、どうでした?」

「んんっ!」

 問いかけに、再びお茶を口に運びながら、眉間に険しい皺を寄せ咳払い。

 おっと、いけない。敬語を使ってしまった。

 縁側の穏やかなおじいちゃんが、近所の頑固じじいになっちゃった。

 なので、言いなおし。

「大阪は、どうだった?」

「楽しかったで。仲のええ友達もおるし、家族もおるからな」

 そうかぁ、家族がいるんだよね。やっぱり、親に甘えたりするのだろうか。

 病気で他界した母の事を思い出し、甘えた僅かな記憶を掘り起こす。

 山崎の家に入るまでたった一人で私を育ててくれた母は、仕事に追われ親子水入らずの時間をのんびり過す、なんてことがほとんどなかった。私自身、幼いながらも忙しく働く母の背を見て、我儘は言わない、言っちゃいけないんだと思っていた。

 それでも、ほんの時々近くの公園へ一緒に出かけたことや。眠るまで手をつなぎ、傍にいてくれた事を思い出す。あの温かかった手を。

 本当の父親の記憶は、全くない。物心ついたときには、既に父親なんてものは存在していなかった。母の忙しさを目の当たりにし、父親の事を訊ねる事もしなかった。それは、訊いちゃいけないことだ、と小さかった脳みそでも認識していたからだ。

 父親の事を訊ねれば、きっと母は困った顔をするはずだからと。

 結局、母は亡くなり、本当の父親の事は知りようもなくなってしまった。けれど、後悔はない。

 母との生活の中に、父親の存在は初めからなかったのだから。そういうものだと生きてきた。

 山崎の家に入ると、母も少しは楽な生活ができるようになった。山崎の父も、再婚した当初はちゃんと仕事をしていたからだ。

 それでも母は、レジのパートに数時間出ていたけれど。母の帰りを、私は毎日心待ちにしていたっけ。仕事から戻り、キッチンで夕食の支度をしている母に絡みつき甘えてばかりいた。そんな私を見た凌が、母の邪魔になるからと連れ出し、近所の公園や家の前で遊んでくれたっけ。

 その後間もなく、山崎の父が仕事へ行かなくなり始め、母のパートの時間は長くなり、私が甘えられる時間はなくなった。

 凌と二人だけでいることが、増えていったんだ。

 初めは、凌がいるから寂しくはなかった。けれど、母が亡くなり、凌のいじめがエスカレートし、家は極貧になり。人生は、坂道を勢いよく転げ落ちるボールの如く落下していった。

 転がった先に、猛スピードで飛び出してきた車がいなかったおかげで、たまたま生きているようなもの。もしも、何かしら他の不幸が重なっていたなら、人生に疲れ、独りで生きて行く事を諦めていたかもしれない。

 落下し、底辺にたどり着いてしまったけれど、若さのおかげか、頭の弱さからか、まだ立ち上がる気力はあった。だから、あとはまた上るしかない。転げ落ちた坂道を、息を切らしてでも登っていくしかないのだ。そうやって先の見えない上り坂を、今まで一歩ずつ苦しくても上ってきた。

 ぼんやりと過去の出来事を思い出していると、水上さんの顔がぬぅっと目の前に現れ、はっとした。

「なに、ぼけっとしとるん」

「えっ!? あ、いえいえ。なんでもないです、じゃなくて、なんでもないよ。うん」

 現実に引き戻され、敬語を訂正しながら応えた。

「ほら」 

 正気に戻った目の前に、水上さんが紙袋を突き出してきた。その袋には、大阪名物のたこ焼きやお好み焼きの絵が美味しそうに描かれている。

「土産だ」

「え? お土産? 誰に? 私に?」

 予想もしていなかったお土産攻撃に、自分で自分に指をさして訊ねる。

「他に誰がおるん」

 ですよねぇ。それ、前にも言われましたよねぇ。あはは……。

「ありがとう」

 天然ボケのような返事をしながら、差し出された紙袋を素直に受け取った。

「開けてもいい?」

「おう」

 伺いを立て、中に入っていた箱を取り出した。中には関西限定の【海老満月。たこ焼き味】と書かれたお菓子が入っていた。真っ赤なタコのイラストが、ニコニコと吸盤のある手? もしくは、足? を使って海老満月を持っている。

 そんなパッケージの文字を見て、ふと浮かぶ疑問。

「海老なのに、タコ……?」

 思ったままを口にすると、目の前では水上さんの顔が引き攣りだす。

「なんや、文句あるんか?」

 片眉をピクリと上に持ち上げ威嚇する姿に、いえいえ、とんでもございません。と右手をパタパタと振った。

「ありがとう。あとで、いただきますね」

 引き攣り顔へニッコリと笑顔を返し、海老満月が入っていた紙袋を畳もうとしたら、「まだ入っとる」とその手を止められた。

 え? と思い覗き込むと、底の方に小さな包みが一つ入っていた。

 包みを手にして包装を解くと、ストラップが現れた。たこ焼きに爪楊枝が刺さったかぶり物をして、法被を着たタコのキャラクターだ。包みには、吹き出しで「まいどぉー」と書かれている。なかなかに、ふざけたストラップだ。

 これが関西のノリなのかはよくわからないけれど、そのキャラがなんだか可笑しくて、ぷっと吹き出してしまった。というより、これを選んでいる水上さんを想像して笑えてきたのだ。

「な、なんや……」

 笑いを堪えているのが気に入らないらしく、焦ったように訊ねてくる。

「こ、これ。英嗣が選んだの?」

「お、……おう」

 なんとか笑いを押しとどめて訊ねると、少し照れたような、ふてくされたような顔をしている。

「シュウが、それがおやもろくてええ言うし。哲もマサシもそれがええって……」

 なにやら言い訳でもするみたいに、早口でメンバーの名前を口にしている。

 年上で、しかも雇い主相手に、失礼だけれど。その顔は小さな子供が言い訳をしているみたいで、なんだか可愛らしく感じてしまった。許されるなら、よぉーしよし。と頭を撫でてあげたいくらい。

 笑いを堪えつつ、「ありがとう」を言い、客間兼、自室に置きっぱなしの携帯を取りに行く。

 すぐに傍へ戻り、ストラップをつけた携帯を掲げて見せた。そして、もう一度お礼を言った。

「ありがとう。大切にする」

「おう」

 満足そうな顔で返事をする水上さんは、やっぱり小さな子供のようで、今度はギュッと抱きしめてあげたくなる。

 可愛いぞ、英嗣。

 携帯にぶら下がる、タコのたこ焼きストラップを眺めながら思う。

 こんな風に、誰かが自分のために気を遣ってお土産なんて事をしてくれたのは久しぶりだな。凌が修学旅行の時に、北海道で小さなマリモが入った小瓶を買って来てくれた時以来かな。

 そういえば、あのマリモはどこへいったのだろう。苛められすぎた事に腹を立てて、庭先に投げ捨てたんだっけ? いや、そうしようと思ってやめたんだったかな?

 まぁ、どっちにしろ、もう手元にそのマリモはない。

 いなくなったマリモの行方に何故だか心がキュッと切なくなり、もう一度ストラップに目をやった。

 とぼけた顔のタコのたこ焼き君が、どうしてだか更に胸を締め付ける。なんとなく目頭が熱くなってから感じた。

 ああ、嬉しいんだ。こんな風に自分の事を気にかけてくれる人がいて、心の底から嬉しいんだ。

 毎日、毎日。どうやって、一人で生きていくか。どうやって、この当てもないほどの借金を返して行くか。助けてくれる人なんて、誰もいなかったし。愚痴を零す相手もいなかった。

 ただひたすらに、働いて、働いて。忙しさ以外の感情を、持たないように生きてきた。

 そうしないと、周り総てが羨ましくて。どうしようもなく、孤独で寂しい毎日に押し潰されていただろうから。

 水上さんと出会ってから、借金の事ばかりが周りを埋め尽くしていた毎日は、少しずつ変化し始めている。

 コートも、フレンチも、たこ焼き味の海老満月も。そして、このおかしなストラップも。

 水上さんが与えてくれる影響は、少しずつ私の周囲を明るいものに変えてくれている。

 それが嬉しくて、視界が歪んだ。水上さんが、私という存在を認めてくれていることが、どうしようもなく嬉しくてしかたなかった。

 熱くなる目の辺りと、込み上げる感情を精一杯抑え込む。

「ありがと」

 浮かぶ涙を零さないように、もう一度ポツリ呟いた。

「おう。わかっとる。礼は、さっきも聞いた」

「うん。……けど、本当に、ありがとう」

 込み上げる温かな感情に声が震えるのをなんとか抑えながら、目をいっぱいに細めて口角を上げた。喉の奥はきゅっと締まり、これ以上何かを話すのは困難に感じた。

 だって、他に何かを言ってしまえば、否応なく我慢し続けていた今までのものが溢れだし、きっと水上さんを困らせてしまうだろう。

 そんな私の感情にまるで気づいているような顔で、水上さんは、「解っとる」ともう一度優しく頷いた――――。

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