第7話 だから怖いってば

 翌朝、顔を洗い朝食の準備を整えてから寝室の前に立つ。一度大きく深呼吸をしてから、そっとドアに耳を当ててみたけれど物音はしない。まだ寝ているのだろう。

 時刻は、きっかり五時半。携帯を手にし、執事のように秒単位の確認をして、紙で指示されたとおり、水上さんを起こしにかかる。

 さぁ、決戦だ!

 両方の拳を握り締める。

 初めは、コンコンと軽くノック。しかし、返事は無い。

 もう一度、今度は少し強めにノック。けれど、やっぱり無反応。

「開けますよー」

 一応声を掛け、恐る恐る寝室のドアを開けた。

 デンと置かれたキングサイズのベッドで、水上さんは体を丸めて眠っていた。近づいていくと、スヤスヤとした寝息が聞こえてくる。未だ熟睡中だ。

「水上さーん」

 ベッドのそばで声を掛けてみる。しかし、微動だにしない。

 うーむー……。

「水上さん、朝ですよ」

 ツンツンと布団の上から体を突くと、もぞもぞと動き始めた。

 おっ、起きるか?

 でも、もぞもぞとしただけで、またスヤスヤと寝息を立ててしまう。

「水上さーーんっ」

 今度は、グイグイと体を揺らしてみた。すると、揺らす私の手首をグイッと掴み、ベッドへ引っ張り込まれてしまった。

 えっ?! えぇーーっ?!

「ちょっと、離してくださいよっ」

 ジタバタともがいてみるものの、寝ているわりに力が強くて身動きが取れない。

 相手は、布団の中。私は、布団の外。

 互いの体の間に布団という壁はあるけれど、まるで添い寝でもするように腕の中に組し抱かれてしまう。そして、またスヤスヤ。

 おいっ! なんなんだ、これはっ。私は、抱き枕じゃないぞっ。

 雇われている身とはいえ、さすがに切れるよっ。

 ムッとして、眠る顔を睨んでみたところで、どうにかなるものでもない。ただ、スヤスヤと眠る水上さんの呼吸が髪の毛を微かに揺らすだけ。

 なんとか腕の中から逃れようともがいていると、水上さんの口が動いた。

「あかり……」

 えっ……。

んー、なんてセクシーな声で言ってくれちゃうのかしら。不覚にも、ドキッとしてしまったではないですか。

 大体、よく見ると顔立ちは整ってるのよね。嫌いじゃないのよ、この手の顔。眉なんかもきっちり整っちゃってるし。まぁ、テレビに出てる人だから、当たり前のことだろうけど。

 それにしても、確かに明ですが、ベッドの中から呼ばれるような関係ではないですよ。どこぞのあかりさんと勘違いなさっているのでしょうか? まったく。

 そう思っているうちに、水上さんの顔が近づいてきた。

 ちょっ、ちょっと待って! それは、まずいでしょーよっ。

 ちかっ、近いよ、ちょっと!

 ジタバタしてみても、力強く抱かれていて離れることができない。その間にも、顔はどんどん近づいてくる。

 このまま行けば、ちゅうっ?!

 ないっ。ない、ないっ!

 確かにドキッとしたことは認める。けど、それとこれとは別問題よ。

 大体、あなた売れっ子ミュージシャンでしょ? こんな事が世間様に知られたら、どうすんのよ。

 つーか、こういうことには慣れっこ? あっちのアカリちゃんやこっちのアカリちゃん。なんて感じで、色々手をつけちゃってるってわけ?

 だけど、私をそのアカリちゃんたちと一緒にしてもらっちゃー困るんですけど。

 どんなに借金があっても、体だけは許していないんだからっ!

 顔だけでもと必死に精一杯うしろに反らし、なんとか水上さんの寝ぼけちゅうを回避しようと試みる。しかし、鯱並みに反れるだけ反っても、距離は縮まっていく一方。

 このままだと、背骨が折れるよ。

 力強い腕で引き込んでくる水上さんは、私の頭を抱えるようにしてどんどん近づいてくる。

 実は、起きてるんじゃないの? そう疑いたくなるほどの強引さ。

 マズイでしょっ。マズ過ぎるでしょっ。

「みっ、水上さんっ!」

 腕から逃れられないことを悟り、至近距離で大きく名前を叫んだ。すると、水上さんの目がバチッと開いた。寸前で止まる、ちゅう攻撃。

 セーフ……。

「……やっと起きてくれた」

 拘束されたまま、引き攣り笑顔で呟いた。

 唇までの距離、わずか数センチ。

 危ない、危ない。

 ふぅっと胸を撫で下ろすと、水上さんは眉間に盛大なるしわを寄せる。

「なにしとんじゃ」

 ほんの僅か顔と顔の距離を離したかと思うと、睨みつけるように叫んだ。

 おいっ。それは、こっちのセリフだよっ。

 理不尽な対応に、こめかみがピクリと反応する。

 しかし、寝ぼけているとはいえ、ドスの訊いた水上さんの声はやっぱり怖い。自分で拘束しておきながら、この状況に怪訝な顔をしている。

「朝ですよ。そんでもって、この腕。解いてくれませんか?」

 皮肉いっぱいに言ってみると、怪訝な表情のままの水上さんは、やっと状況を呑み込んだらしい。

「あ……。すまん……」

「いえいえ。どういたしまして」

 もう一度、皮肉いっぱいににっこり笑顔を向けてやると、慌てて腕を解き飛び下がるように離れて起き上がる。

 一つ溜息を吐いてから、ちゅう攻撃に乱れた髪の毛を、わざとらしいくらいに手で直した。

「ご飯。できてますから」

 素っ気なく言ってベッドから降りると、寝室を出ていこうとする背中にぼそぼそっとした謝罪の声が聞こえてきた。

「ほんまに、すまん……」

 パタリと閉まったドアの先で、もう一度胸を撫で下ろした。

 マジ、シャレになんないからっ。


 自分のしたことを反省しているのか、元々そうなのか。今日も水上さんの口数は少ない。黙々と朝食を口に運ぶだけで、会話らしい会話がないのだ。

 恋人でもないのだから、別にラヴラヴな会話を求めているわけじゃないけど、相手がいるのに無言の食卓って、家庭崩壊しそうな家族のようで気詰まりになっていく。

「美味しいですか?」

 仕方なく、会話を求めるように話しかけてみる。

 今日作ったサンドイッチは、野菜たっぷりのヘルシーサンドに、卵たっぷりのタマゴサンド。なのに、何も言わずに食べられると、美味いのか不味いのか判らなくて、次回も作っていいのか悩んでしまうではないか。

「うん? あぁ、うん。……旨い」

 なんだ、その微妙な旨いはっ。どっちか判らないじゃないかっ。

 結局、本当に美味しいと思っているのかどうか、判断がつけられないままだった。

 七時になると、水上さんのスマホが鳴った。

「もしもし。はい、今行きます」

 スマホを切ると、「ご馳走さん」と言って、一旦寝室に入っていくと、少ししてギターを背負って玄関へと向かう。

 さっきの電話は、お迎えのコールか? マネージャーさんでも迎えに来ているのだろうか。

 ちょっと、そういう光景を見てみたい気もするが、ここは十五階。窓から覗いたくらいじゃ、よく見えないだろう。

 かといって一緒についていくわけにも行かず、今日も結局玄関先で行ってらっしゃい。と見送るに留まる。

 家事手伝いなのだから、そんなものよね。

 なんとなくつまらないなんて思いながらも、自分の立場を思えば当たり前のことなのだ、と言い聞かせた。

 大体、外まで見送りに行って、パパラッチにでも激写されてしまったら、かなりの迷惑行為になってしまって即刻クビだろう。

 水上さんが出かけた後は、いつものごとくお掃除だ。リビングに掃除機をかけ、キッチンも綺麗にしていく。バタバタと忙しなく動いていると、お昼を過ぎた頃、リビングにある家電が鳴りだした。

「これは、出るべきか?」

 いやいや、人様のお家。いくら留守番と言えど、許可も指示も貰っていないのに勝手に出るのはよくないよね。

 考えていると、数コールで留守電に切り替わった。

 なんだ。ちゃんと留守電になってるんじゃない。

 そう思い、電話に背を向けると呼びかけられた。

『おい。おるんやろ?』

 うん。居るよ。って、家主じゃないけどね。

 振り向き、電話を見ていると名前を呼ばれた。

『明。俺や、英嗣や。おるなら受話器とってくれや』

 おっと。雇い主の水上さんではないですか。はいはい、今出ますよ。

「もしもし」

 受話器を持ち上げ耳に当てると、おったか。と水上さん。

 はい、おりましたとも。居ちゃダメですか? 別にサボっていたわけじゃないですよ。さっきまで、汗水流してお掃除していたのですから。トイレもお風呂もピッカピカですよ。

 それとも、キス未遂事件のせいで、出て行っちゃったとでも思いました? 残念ながら、未遂ぐらいでこんな美味しいお仕事を投げ出したりはしませんのでご安心を。

 見えない相手に、朝と同じように皮肉いっぱいの笑顔を作る。

『忘れ物したから、届けてくれ』

「忘れ物?」

『寝室のどっかに、スマホがあると思うんやけど』

 スマホか、それは大変だ。今のご時勢、スマホなしでは生きられんでしょう。なんせ、こんな極貧の私でも持っている代物ですから。私のは、ガラケーですけどね。

 水上さんは、届け先を簡単に説明してからすぐに電話を切った。何かとお忙しいようで、探しに行くまで待てない様子。

 電話を切った後、寝室のどこかにあるといわれたスマホを探しにいった。とりあえずベッドの下を覗き込んでみる。

「ない」

 チェストの上の雑多な物たちをかき分けてみる。

「ない」

 床を這い蹲るようにしてみてみる。

「やっぱりない」

 あちこち引っぺがして探していると、ベッドの枠とマットレスの隙間にもぐりこんでいたスマホを発見した。

「おぉー。あった、あった」

 スマホを摘み上げ引っ張り出し、「ご主人様の元へ届けてしんぜよう」なんてバカなセリフを吐いてみる。

家の戸締りを確認し、水上さんの大事な、大事なスマホをバッグにしまいこんで、説明された場所へと向かった。

 場所は、都内の某撮影スタジオ。一人の警備員が不満げな表情で、扉の前に立っている。まるで、仕事内容と給与が見合わないみたいな顔つきだ。

 世の中そんなものだよ、警備員さん。世知辛いねぇ。

 勝手な慰め心を持って、警備員の不満そうな顔に話しかける。

「あのー。頼まれた忘れ物を……」

 不満気な顔の警備員に説明をしている途中で、目の前の扉がガッと勢いよく開き、ひとつの顔が覗いた。もちろん、顔を覗かせたのは水上さんだ。

 まるで、どっかから監視していたみたいなタイミングで現れるから驚いてしまう。

 まさか、身体のどこかにカメラか盗聴機を仕掛けられてる? 空港のボディーチェック並みに自分の体を触りながら疑心暗鬼になってしまう。

「あったか?」

 綺麗にドウランを塗られたお顔で、水上さんが訊ねる。

「はい。ありましたよ」

 バッグの中からスマホを差し出すと、うん。と嬉しそうな顔をした。まるで、やっと会えた恋人にでも向けるような表情ではないですか。

 可愛らしいですね。スマホ依存症にだけは、気をつけてくださいね。などとおこがましい思考で水上さんを見てしまう。

「では、私はこれで」

 クルリと踵を返して帰ろうとすると、その背中を呼び止められた。

「少し、観てかん?」

「え?」

 振り向く私の手を取り、不満顔の警備員を無視して水上さんに建物内へと連れ込まれた。

 いいのだろうか?

 スタジオなんて場所には不慣れなものだから、ついキョロキョロと物珍しさに首を巡らせていると、「真っ直ぐ歩けや」と叱られた。

 肩を竦め、黙って後ろをついていった。

 途中、受付みたいなところで入館パスを首から下げられる。胸元でブラブラと揺れるパスを見ながら歩いていたら、「またフラフラすんなや」と叱られ首を竦めた。

 辿り着いた場所は、番組撮影をしているスタジオだった。何人ものスタッフが忙しなく動いている中、セットの傍で寛いでいる数名は、以前コンビニと居酒屋で見かけた人たちだった。

「あれ。俺のメンバー」

「はぁ」

 メンバーと説明され、以前テレビで演奏していたなぁ。なんていうのも思い出した。

 楽しそうに話している言葉は、水上さんと同じ関西弁だ。

 その場に立ち尽くしていると、近くにあったパイプ椅子を出してきて、カメラの後ろに置かれた簡易テーブルの傍に置いてくれた。

「あと少ししたら上がれるから、待っといて」

「はい」

 促されるまま椅子に腰かけると、水上さんはメンバーたちが待つセットの方へいってしまう。

 慣れないこんな場所に一人ほっぽっとかれて、怯えた子供のように委縮し、場違いなんじゃないかと一人ビクビクしてしまう。

 正反対に、カメラやライトを浴びている水上さんは、家では見られないほどの笑顔で撮影を進めている。メンバーとは、本当に仲が良さそうだ。

 家に居るときも、今みたいに笑っていたらいいのに。なんであんなにいつも、不機嫌そうな仏頂面なのだろう。

 笑顔いっぱいに撮影している姿を観覧していたら、バッグの中で携帯が鳴った。撮影中に着信音が出たことで、周囲の視線が一瞬でこちらへと集まった。慌てて通話ボタンを押し、その場を離れる。

 刺さるような痛い視線が背中にいくつも、いくつも、いくつも……。

「うへー。ごめんなさい」

 小さく声に出して謝り、外に出てスタジオの重いドアを閉める。

「もしもし」

 電話の相手は、便利屋の社長だった。

 水上さんに雇われたあとも、便利屋の仕事だけは地味に継続していた。

 だって、いつ水上さんに首を切られるかも分からないし、便利屋の仕事だけになったとしても、あれなら他のバイトに比べてお給金もいいから、一時凌ぎにもなる。

 久しぶりの仕事依頼は、擬似恋人。内容は、とある男性が今の彼女と別れたいが、なかなか納得してくれず、婚約者がいることにしたいらしい。もちろん、婚約者の役は私だ。それで、その彼女と三人で顔合わせだとか。

 こんな依頼は、珍しい。しかも、汚れ仕事でもないのに、私の取り分は三万円と破格だった。たった一.二時間ほど婚約者のフリをするだけで、この金額はウハウハだ。

 おんぼろ上着を脱ぐ日も近いぞ、明!

 右手の拳を高々と掲げ、嬉しさに頬が緩む。

 依頼時間まで、約一時間強。この場所からだと、移動に三〇分はかかる。着いてから、依頼主本人ともある程度打合せをしなくちゃいけないから、今すぐにでもここを出たい。

 スタジオにおずおずと戻ると、丁度撮影が終わったところで中は賑やかだった。メンバーと談笑しながら、出口に向かってくる水上さんに声をかける。

「あのー」

「あっ。明ちゃん?」

 水上さんにかけた声を掻き消すように、大きな口をニッと開けたメンバーの人から声をかけられた。

「英嗣君に、いじめられてへん?」

「え? ぁあ、はい」

 いじめ? はされていないけれど、睨みはキツいっすよ。と心で愚痴り、てへへ。なんて笑ってみる。

「ほんまに可愛い子やなぁ。英嗣には、勿体ないんとちゃうか?」

 次々とやってくるメンバーが、かわるがわる私の話題で盛り上がる。

「居酒屋の時も、何や元気があっていい子やと思っとったんよ」

 タンタンと、馴れ馴れしく肩を叩き笑う人。俺んところにも、来て欲しいわぁ。とのんびり言う人。次から次に話しかけられ、当の水上さんに、今からバイトだとなかなか言いだせない。

 タイミングを掴めないまま、結局楽屋の傍まで雪崩れ込むように連れて行かれてしまった。けれど、中に入って落ち着いている場合ではないので、楽屋入りしようとする水上さんの袖をグイッと掴む。

「なんやっ!」

 いきなり掴まれたことに、不機嫌な声と顔を向けられた。

 ひいぃーっ! と恐怖に慄きながらもバイトの事を伝えた。

「今からか?」

「はい……」

 恐る恐る返事をしてながら、上目遣いになってしまう。

「飯は、どないすんねん」

「えっと、そのぉ……」

 そっか、水上さんの食事の準備をしなくちゃいけないんだった。三万円に目がくらみ、すっかり忘れていた。

「えいじー。みんなでメシ行こかー」

 食事をどうするかと考えあぐねてモジモジしていると、神の助け。哲とメンバーから呼ばれているたれ目の人が、楽屋のドアから顔だけ出して水上さんを食事に誘った。

「あ……おう」

 さっきは、メシッ! なんて、星一徹張りに凄んだのに、哲さんに誘われると素直に返事をする姿に、なんじゃそりゃっ! と、突っ込みたくなるが我慢、我慢。

 なんてったって、ご主人様なのだから。

「明ちゃんも、一緒にどうや?」

 心の中の突っ込みが納まった頃、哲さんが私の事も誘ってくれた。

「あ、私は、これから別のお仕事で……」

 水上さんのご機嫌を伺うように応えると、「なんや、残念やなぁ」と哲さんは眉根を下げる。

「ほな、また今度な」

「はい」

 次が本当にあるかどうかわからないけれど、たとえ社交辞令にしろ、誘って貰えたことが嬉しくて笑顔で返事をした。

 だってね、哲さんて人、とてもいい笑顔なの。笑った口元の八重歯が、キランッと見え隠れしていて、なんだか可愛らしいのだ。水上さんとは大違いの、いい人そうなスマイルなのよ。

 ところで、私はバイトに行ってもよいのでしょうか?

 未だ、不満顔の水上さんを窺い見た。

「なんやねん、その仕事。アホくさっ。自分でどうにもできん相手とつきあっとる時点で阿保じゃ。自分のケツも自分で拭けんような奴は、女と付き合う資格なんかないわっ」

 仕事内容を話すと、まるで私がその阿保の依頼者みたいに怒りをぶつけて来た。

 そんな風に怒られても……。

「とにかく。仕事なので、行ってきますね」

 いそいそとその場を離れようとする背中に、「はよ、帰ってこいやっ!」と罵声が一つ飛んできた。

 慌てて振り返り、何度もぺこぺこと頭を下げる。

「いってきますっ」

 楽屋の入り口に立っている水上さんに背を向け、急いでこの場を離れた。

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