Chapter29

「……はぅあ!」


 およそ女性とは思えない奇声をあげて、美晴は跳ね飛ぶようにして起き上がった。


 前後不覚に陥って周囲を見回すが、そこが見慣れた景色であることにほっと安堵の溜息をついた。


 薄暗く、夏だと言うのに肌寒さを感じる室内。美晴が営むバイクショップの地下、ここはブラストマシンを調整するときのみに使うエリアである。言わば、彼女の秘密基地。


 目を落とすと、愛用のラップトップパソコン。モニターにはマシンの制御をつかさどるプログラムソースのウィンドウが表示されているが、ほとんどは意味をなさない文字の羅列である。居眠りの最中、キーボードに触れてしまったのだろう。


 これではとても仕事にならない。美晴はパソコンをそっと閉じて、椅子の背もたれに身体を預けた。


 いつから意識がなかったのだろう。少なくとも、日付は進んでしまっている。試合を来週に控えているために、根を詰め過ぎてしまったのだろうか。


 ――そう、だからあんな夢を見てしまったのだ。十年前の、あのどうしようもない悪夢を。


 少しも回る気配のない天井扇から、視線を棚へと移す。簡素な骨組みの五段棚はほとんど使われずにからっぽだ。唯一つだけ、目線の位置に写真立てがある。


 もう何度となく目にした写真だ。往年の《甲斐カザン》、そのメンバーが集まった集合写真である。そして、《甲斐の虎》の姿を今に残す、たった一葉の記憶の欠片。


 ちょっとした、昔話だ。今でこそ運営資金もカツカツの《甲斐カザン》だが、もしも黄金期と呼べる時があったとするならば……それはこの頃、十年前をおいて他にない。


 当時、チームは波に乗っていた。連戦連勝、その行くところに敵なしと言った具合だ。結果、優勝に王手をかけるにまで至った。


 ブラストリーグを席巻する一個の嵐と化した《甲斐カザン》。その中心には、間違いなく彼の存在があった。


 飯富虎生。《甲斐カザン》の首席ライダー。あまりの強さから、ある異名まで名付けられた男だ。


 すなわち、《甲斐の虎》である。


 猛々しい獣の名を関するのは、何も本名のもじりからだけではない。彼のライディングスタイルは、事実として常人離れしたものだったのだ。


 マシンの乗り回しは荒っぽいながらも軽快。だが、ひとたびチャージングの姿勢に移れば、理性などかなぐり捨てた狂気的な攻撃を披露する。誰にも止められぬし、きっと彼自身も止まる気はさらさらなかったのだろう。ブラストとしてはあり得ないようなスピードで突っ込む彼は、まるで得物の喉笛を食いちぎる様にして槍を振るったものだった。


 平生の寡黙な態度とは裏腹に、恐ろしい程の運動能力と闘争本能。故に、虎とよばれたのだ。


 そして、彼のフィニッシュは決まって、同じ技だった。


 誰もが研究を重ね、対策を練った。だが、誰も彼を止めることはできなかったのだ。


それをあざ笑うでもなく、あるいは気負うこともしない。虎生が放つその技は何千何万という修練の果てに、究極の一撃に昇華されていたのである。


 その技の名は《デッドリー》。マシンの加速力と全身のバネをカタパルト代わりに、神速の一閃を放つ、単純でありながら破壊力だけは他の追随を許さぬ必殺技。


 あの時ですら、《デッドリー》は既に時代遅れと鼻で笑われるような技だった。それを巧みに使いこなし、立ちはだかる者は蹴散らしている姿は、幼い美晴にも雄々しく見えたものだ。


虎生の快進撃は遂にシーズンの最終戦まで続いた。後一度の勝利で優勝、誰もがその栄光を信じて疑わなかった。監督だった祖父も、観衆も、当然美晴もだ。


 ……だが、そうはならなかった。


 マシントラブルだったのか、それとも虎生のミスが原因だったのか。今となっては分からない。だが、美晴もその目で見届けた光景だけは、覆すことの出来ない事実。


虎生が相手とクロスしたその時、互いにもつれ合うようにして接触したマシンはクラッシュした。


 恐ろしい速度で投げ出された虎生が、アスファルト上を何度も転がっていくのを、美晴は確かに見たのだ。その姿は、まるで糸の切れたマリオネットの様だった。意識という操り手を失った虎生の身体は、路面に叩きつけられるたびに捻り、折れ曲がり、人の姿からかけ離れていく。


 美晴は顔をしかめる。未だに夢で見るだけはある。どうしたって頭にこびりついて離れないその映像は、十年たっても鮮明だ。


 最後、ようやく勢いを失った彼がグラスゾーンでその動きを止めた時、虎生であったモノは、ただの襤褸切れと肉の塊となっていた。


 あの日、チームは特別大事な半身を失ったのだ。


 それからの《甲斐カザン》はひどいものだった。


 虎生に入れ込んでいたが故に、祖父はすっかり生気を失ってしまい、その年を境にチームへ力を入れることを止めた。チームは活気を失い、スタッフは一人、また一人と去っていく。そして最後に残ったのは、美晴と雅丈、そして隆聖。


 だが、その隆聖も今や敵である。ああ、落ちる所まで落ちた、といったところだ。


 この状況を虎生が見たら何と言うだろうかと、美晴はふと考えてしまう。いや、案外と何食わぬ顔をしたかも知れぬ。ブラストが出来ればそれでよいと、素で言えた男だ。チームの体勢には拘らなかっただろう。


 もし彼が激怒したとすれば……それは、マシンの事だと思う。


 あのマシン、《三式カザン》は作り手の美晴が言うのもなんだが、きわめてバランスの取れた能力のマシンだ。加速、強度、操作性。どれを取っても、他所のどの機体と比べても遜色と自負している。


 だが、源士はそれを嫌って激昂したのだろう。言うように、彼が求めるような圧倒的な加速力を持ち合わせていないのは事実だ。そういう風にモーターもシステムも調整している。


 このマシンは、《デッドリー》には向かない。


 だから、如何したというのだ。どうせ源士にはわからない。


 対戦相手は、あの真田隆聖なのだ。他の誰でもなく、《デッドリー》の名手である《甲斐の虎》を一番近くで見てきた男だ。そして、その男の背中ばかりを追って走ってきた男なのだ。


 今まで破られなかった究極の《デッドリー》を攻略できるライダーがいるとすれば、それは真田隆聖以外に有り得ない。


 まして、源士のへっぽこな《デッドリー》などはカモも同然だ。それを分かっていて、飛び込ませることなど、美晴にはできない。


 そう、当の源士だ。《三式カザン》の試運転を実施した翌日、学校の屋上で言い合いになったきり、連絡が取れないでいる。今日の練習にも顔を出さず、おかげでマシンの調整は遅れる一方だ。


 今朝から雅丈はひっきりなしに携帯を鳴らしていたようだが、未だにその返事が返ってくる様子はないらしい。


 美晴はといえば、電話の一つ、メールの一通も送っていない。


 ふざけるな、という気分には変わりないのだが、自分がこのチームの監督なのだ。それが、浮ついた調子でいては、ライダーにも舐められてしまうというものである。ここは、どっしり構えなくては……と。


 ふと、ポケットの携帯電話が振動した。取り出してのぞき込むと、メールが一通、見ず知らずの名前で『一億円融資します』という胡散臭い要件を美晴に伝えるのみだった。


「あんの、バカ……」


 学校の屋上、去り際の源士の顔が浮かぶ。無表情の、それでいて、隠す気のない怒りの炎をにじませる気配に、美晴は少しだけ、飯富虎生の面影を重ねたのだ。腹が立つほどに愚直な男の性格を――


「だーれがバカだって?」


「うわっぷ!」


 かさり、と音が鳴って、美晴の視界は茶色い紙に一面覆われた。どういう訳か、顔がほのかに暖かい。


「なっにすんのよ! バカ源士!」


 顔に覆いかぶさった紙、もとい暖かい何かの入った紙袋を引っ手繰ると、美晴は金切声で叫んだ。


 相手は顔を見ずともわかる。こんな気の抜けた声は、源士以外に聞いたことがない。


「元気そうだな。今日は一日店を閉めてたらしいから、少し心配したぞ」


「はあ、どっちが! それを言うならキミでしょうが! 今まで一体どこへ――」


 ドンと腰を据えた態度で……などという心持はどこへやら、思わず跳ね上がった感情のままに声を上げる。


 きっと、そのせいだろう。美晴の腹からぐぅと情けない音が聞こえたのは。


「一体どこへ……あー、あー」


「……ま、それ食えよ、チワワ」


 源士が紙袋を指差し出す。


 顔を赤くしながら中身を除くと、香ばしい匂いとともにホットサンドが顔を出した。




***




 何を恥ずかしがっているのかも知らぬが、美晴は背中を向けて隠れるようにホットサンドを口に運んでいる。


 源士は、床に尻を落としてその様子をじっと眺めていた。コンクリの床はジワリと冷たく、源士の尻から熱を奪っていく。


 《海野シックスセンス》からの帰り道は、驚くほどに速かった。行きの迷走具合が嘘のようだ。道を覚えたせいもあろうが、それだけではない。


 真田隆聖は、やはり良い奴だった。源士の知らぬこと、美晴の知りうること、それは思いのほか多く、そして重大であると思い知らされたから。


 だからこそ、一刻も早く美晴に会いたかったのだ。会って、尋ねたいことがあった。


 あのホットサンドは差し入れといいつつ、その言い訳だ。面と向かってそんな真面目な話をするには、源士も少々気恥ずかしさが勝る。


「くそ、美味しいじゃない……なにこれ、具が肉じゃが? あの馬鹿のどこにこんな女子力が……」


 美晴は口いっぱいに頬張りながら、何か複雑そうな顔で呟いている。


 やれやれ、褒められているのか貶されているのか、だ。しかし。ここは素直に期限が良いのだと思っておこう。


「……で、今日は一日中、どこをほっつき歩いてきたの?」


 そら、来た。


「アタシは、別にいいけどね。駒井君と高山さんには殴られても文句言えないわよ? ずっとサーキットで待っててくれたんだから」


 嘘をつけ。その言い草は完全に根に持っている奴が言うセリフだ。内心はチクチク嫌味を言いたい癖に……とは、言うまい。


「ああ、ちょっと行くところがあってな」


「へ、へえ。それはマシンの調整よりも大事なとこかしら?」


「よっぽど、な……《海野シックスセンス》の本拠地だ」


「ぶほぁ!?」


「ああ、拭くものと飲み物、どっちがいる?」


「どっちも……っつうか、キミ正気?!」


「皆それを聞くな。もちろん正気だ」


「そんな訳ないでしょうが!」


 口を拭いながら、美晴の口調は俄然きつくなっていく。


「キミ、わかってんの?! 試合前の対戦相手同士の接触はルール違反だって!」


「知ってる。だからこっそり忍び込んださ」


「……ったく、じゃあバレなかったのね?」


「がっつり、バレた」


「「ばあぁぁぁっかじゃないの?!」」


 美晴の絶叫をなだめるのに、小一時間は要した源士だった。


 ……さて、小一時間後である。殴り掛かられ、引っ掻き回され、ようやく疲れ果てた美晴と背中合わせに座り込む。ぜえぜえと息を切らした美晴の重みを背中に感じる。美晴は思いのほか、軽い。


「どうして、そんな事したの」


 ひとしきり暴れまわって余計な体力を使い果たしたのだろうか。随分と疲れた声で美晴が呟いた。


「アタシの判断が間違ってるって、思った?」


「それを確かめるために行った」


「そう……で、どうだったの?」


 源士は軽く頬を掻いた。結論は、心の中に出ている。言うのもひどく簡単だ。が、言ってしまえば、二人の意識の違いはついに決定的になるだろう、と。


 その時、もはや試合どころではなくなるうだろう。


「アタシだって、わかってるのよ」


 源氏が無言のまましばし経って、口火を切ったのは美晴だった。


 その声はいつもよりやけに弱弱しい。何かを堪えるように、くぐもった鼻声だ。


「あのマシンがキミ向きじゃないって、わかってる。でも仕方ないじゃない。相手は真田君なのよ」


 違う。それは、本質ではない。


 源士は胸中で断じた。


 真田隆聖は確かに強敵である。それは認めよう。《デッドリー》の対策もよく心得ているのだろう。


 だから、どうした?


 隆聖は《デッドリー》を使わない。面と攻略したこともあるのか?


 まして、この山形源士の《デッドリー》を受けたことなど、一度もない。


 奴が知っているのは、かつてここに居たという男の一撃。


 無双の男だったのだろう。無比の技だったのだろう。


 だが、それは源士ではない。源士の《デッドリー》ではない。


 そうならば、彼女が恐れているのは決して隆聖などではないのだ。恐れるのは、奴の背後に浮かぶ幻影。


 亡霊と、呼んでも良い。


「……そんなに強かったか。《甲斐の虎》ってやつは」


「はぁ、真田君てば、どこまで喋ったのよ」


「大抵のことは」


「そうやって張り合うから、話したくなかったのに……」


 背中越しに、美晴が頭を掻きむしっているのがわかった。


「誰にも負ける気がしない、って気持ち。感じられたのは、あの人だけだった」


 ポツリと、美晴が呟く。


「アタシたちは戦術を立てる時、必ず確立を考えてしまう。この場面では勝率七割……ここでは、九割方負けそう、とかね。でも、彼は違った。《虎》が《デッドリー》を放つとき、目の前に敵はいなくなる。そんな強さが、彼には確かにあった」


「俺には?」


「キミの《デッドリー》は、毎回ヒヤヒヤしっぱなし」


「ちっ、そうかよ」


 源士は頬杖をつく。まあ、その評価は正しいのだろう、今のところは。


 だから、源士は淡々とした調子で尋ねた。


「なら、これからもそうだと思うか?」


「……どういう意味?」


 怪訝そうに美晴が返す。


「俺が未熟なのは認める。ああ、まだ弱っちい。だけど、ずっとそのまま、弱っちい俺のままだと、思うか?」


「そんな訳が!」


 不意と、背中を預け合う美晴の力が抜けた。源士は拠り所を失って、思わず仰向けに倒れこんだ。


「ない……でしょうが……」


 柔らかい感触が後頭部を包み込む。気が付けば、源士は美晴の顔を下から覗き上げていた。自分の頭が、彼女の大腿に乗っかっているのだ。


 かあっと赤くなっていく美晴の顔を眺める源士。


 なんだ、こんな顔も出来るんじゃないか……と、源士は苦笑して、彼女の額に手を伸ばした。


「あうっ」


 パチン、と乾いた良い音が鳴った。デコピンだ。


「俺はライダーで、お前が監督だ。だからお前が命令するなら、俺はそれに従う。どんなマシンにも乗ってやる。《デッドリー》も止めてやる。勝つためなら……」


 その気持ちは紛れもない本心だ。監督たる美晴は頭脳、そしてライダーの源士はオーダーを忠実にこなすべき人形たるべき。それが契約だということくらい、源士にもわかる。


 だが――


「だが、それなら俺じゃなくてもよかっただろう?」


 源士の声が、静寂で満たされた室内に一際大きく響いた。


 俯く美晴。口をへの字につぐみ、垂れ下がった前髪に隠された双眸は見えない。


 けれど、これだけは伝えなければならぬと思う。自分のために、何よりも、自分を選んでくれた彼女のために、だ。


「オールラウンダーが欲しければ、長尾の奴でも雇えば良かった。だがお前は俺の名を呼んだ。突っ込んでいくしか能のない、《デッドリー》しか知らない俺をだ」


 そう、お前は確かに言っただろう。俺に、あの言葉を。


 世界でお前だけにしか言えない。最高の合言葉を。


「信じろよ……俺を、最強のライダーにするんじゃなかったのか?」


 少女は、面を上げず何も語らない。ただ、彼女の両手がぴくりと動いた。


「ごめん、源士」


 パン!


 と、源士のデコピンよりも余程大きな破裂音が響いた。


 美晴が自分の両頬を平手で叩いた。何度も何度も、腫れ上がりそうなほどに。


 自分を責めているのか? 多分、違う。


「アタシは、今でも自分が間違ってたなんて思ってない。真田君に《デッドリー》は分が悪いわ。少なくとも、今のキミの腕と、アタシのマシンじゃあ……でも、忘れてた。アタシたちは《挑戦者》だったんだ」


 言って、美晴は源士の襟首を掴んだ。そのまま、力任せに引き上げる。


「……近い」


「……うるさい」


 額と額、鼻と鼻、そして唇まで触れ合いそうな距離で顔を突き合わせる。美晴の顔が、心なしか赤い……いや、これは頬を叩いたせいか。


「源士、もう一回言うね。でも、これで最後。もう二度と言わない」


 いささかの迷いも、恐れも、狼狽もない。


 俺を認めたのがこの少女で良かった。源士は、初めてそう思ったかもしれない。そんなまっすぐな視線が、源士を射抜いていた。


「――源士、アタシと契約して最強のライダーを目指す気、ない?」

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