Chapter1

「だめ、不採用」


 諦めと憤りが綯交ぜになったような声で、少女は静かに呟いた。


 やや小柄でスレンダーな体型は、ずいぶんと鍛えていると思える。身に着けているチェックのスカートと真っ白いワイシャツは一般的な夏用の学生服。万年筆と『芦原』の文字を崩したシンボルの刺繍が縫い付けられていた。

 皺ひとつない、糊の効いた衣服はまだ下し立てなのだろう。新入生、あるいは転校生か。季節は早初夏の色を見せ始めている。つまり後者だ。


 茶色気を帯びたショートボブの黒髪と、同じ色をした子猫のような大きな瞳が活動的な印象を宿していて、彼女生来の性格を表しているようだった。


 名前を、甲斐美晴と言った。一六歳、高校生。


「次は?」


「レギュラーです。校内ランク七位」


 タブレットの画面に目を通しながら対応するのは、同年代と思しき少年である。色白で背が高い。黒縁のメガネをかけた様相は、整ってはいるがいささか神経質にも見えた。あるいは、七三分け風の髪型もまた、その雰囲気に拍車をかけている。少女と類似したデザインの制服を身に着けてはいるが、どことなくビジネスマンのような印象である。


 彼は駒井雅丈と言う。歳は十七、美晴の一つ上。


「だめ。却下」


「えー、次」


「ぜんぜん、イマイチ」


「次……」


「言うに及ばず!」


 声は次第に憤りの色を強めていく。しまいには見るからに大げさな溜息を目いっぱい長く漏らした。


「どいつもこいつも下手な奴ばかり。カスぞろいね!」


「それが言いたかっただけですか?」


「あはは、ばれたか。と、言って」


 頭に手をやり快活に笑う少女だが、その表情は直に苦笑となった。


「使えそうな子がいないのは、まあ事実なんだけどね」


「当然です。お嬢様の考えが無謀すぎるのです」


 付き合わされる身にもなってみろ、とばかりに、今度は雅丈が小さくため息を漏らした。実際、事の始まりは美晴の思いつきで、彼はそれに乗せられたようなものである。古今東西、お嬢様とかしずかれる人間は我儘だと相場が決まっているものだ。雅丈も今まさにそれを味わっている。


 もっとも、雅丈自身、方法がそれしかない事は承知していた。だから、強引ではあるが理知的な美晴がそれを提案した時も、そして今も、こうして黙って付いてきたわけだ。


「そうそう上手くいくわけない、か」


 残念そうに、美晴は目の前の光景を眺めた。


 二人が立つのは、むき出しのコンクリートが階段状に連なる質素で飾り気のないスタンドだった。フェンスを隔てたその先には、アスファルトで舗装された野太い道路が真一文字に横切っている。道路の両脇は、紅白のストライプに塗装された縁石で彩られ、壁沿いには発砲素材で作られた巨大な衝撃吸収ブロックが隙間なく並ぶ。それは、競技用サーキットだった。


 もっとも、レースを行う様な正規のサーキットに比べれば、ここは随分と規模が小さい。言い様は悪いが、みずぼらしいと言ってもいい。


 アスファルトの舗装はお世辞にも整備が行き届いている風には見えず、走行には支障ないと言え、ところどころに小さなひび割れが目立つ。電光掲示板の類もなく、傍らに申し訳程度のタイマーパネルが設置されている。あとは、競技上必要なピットが、これもごく最低限のスペースで併設されているくらいだった。テレビ中継に取り上げられるようなサーキットを想像してここに来たならば、さぞ呆気にとられて落胆したことだろう。


 もっとも、美晴の見解は少し違った。想像通り、いや想像より多少上等、といったところか。


「それなりの練習場に、ギリギリ及第点の装備。一高校のクラブが持つ設備としては十分だけど、所詮アマチュアライダーなんてこんなもんかしらね」


「実際、水準は高いのですよ。学生のクラブ活動としては、という付帯条件が付きますが」


「やーっぱ、シロートはシロートか」


「日本のブラスト人口は欧州の五分の一です。止むを得ません」


 落胆の呟きを漏らした美晴であった。


 そう、ここはごく一般的なレースを行うサーキットではない。


 ブラスト。あるいは、日本では近代馬上槍とも呼ばれる。これは、そういう競技の練習場だ。


 まだ王侯貴族が幅を利かせていた中世ヨーロッパの時代、馬上槍は騎士の実力を試す真剣勝負として勃興したという。


 彼らは重厚な鎧を身にまとい、馬に跨った。武器となるのは刺突に特化した円錐状の長大な馬上槍。


 一直線の競技場で相対して駆け出し、交差するその一瞬、お互いの槍で突きあう。


 先に相手の鎧を捉えることができれば、もしくは相手を落馬させることができれば勝ち。


 命も落としかけない危険な競技だ。それでも、荒削りな試合風景はエキサイティングと評され、大勢の観客が集う熱狂的な娯楽だったという。


 そして、時代は下り、現代。


 騎士も、槍を使った戦いもいつしか姿を消したが、競技、娯楽としての馬上槍は残った。


 それは、技術の発達とともに現れたモータースポーツと融合し、騎馬はバイクへと変わり、舞台はレースサーキットへと移された。


 その後、さらなる歳月を経て塾生された競技は、安全の配慮がなされたレギュレーションのもと、今や全世界で行われる一大スポーツとして生まれ変わったのである。


 そうして生まれ変わった競技がブラスト。BLAST【突風】の名が示すとおり、高速の世界で繰り広げられる一対一の決闘だ。


 二人の眼の前でも、今まさに二騎のバイクが疾走する。交差するわずかな一瞬に、お互いの槍撃が繰り出される。かつて、たやすく人の生命を奪った鋼鉄の槍は、今ではより安価で大量生産が可能な軽量プラスチックで形作られている。それ単体では、軽く扱っただけでも砕けてしまう脆い槍でも、時速百キロを超える速度で走行するバイクの上から放てば、その衝撃はかなりのものだ。


 案の定、穂先を当てられたライダーは上体を大きくのけぞらせ大きくバランスを崩した。タイヤを鳴らしながらも、すんでのところで安定を取り戻すと、二騎はスピードを落としながら離れていく。安全装置としてのオートバランサーが働かなければ、あわや大惨事。転倒の危機に晒されながら、ライダーは果敢にも相手の急所を狙って槍を振るう。これこそがブラストの醍醐味であり、観衆が熱狂する所以である。


その血気盛んな競技風景でも、美晴は歓声を上げるでもなく冷静に観察していた。


とは言え、彼女の理由に適うものはないらしい。美晴は残念そうに頭を横に振った。


 そんな美晴を横目に雅丈は嘆息した。


「やはりダメですか?」


「ダメね。突っ込みが鈍い。トップスピードに乗ってない。ランスを構える脇も甘い……あんなのでよくブラストをやろうって気になるわ」


「手ひどい批評ですね」


「誰におべっか使うわけでもなし、嘘ついても仕方ないでしょう、それに――」


 美晴の表情が曇る。この世の終わりを見つめるような、絶望すら感じる表情。


「ここで見つけなきゃ、アタシたちはおしまいなんだから」


 ここに在籍する大体のライダーの試合は見た。兼ねてからブラストの強豪校と噂されたこの『芦原学園』。勇んで訪れてはみたが、美晴の見たところ、そのレベルは決して高くはない。


 彼らが主戦場とする舞台はあくまで、国内の学生や社会人が集まるアマチュアリーグだ。数多のプロライダーが切磋琢磨するトップリーグとは、当然だが比べるべくもない。


 それでも、千に一つ、万に一つ。ダイヤの原石が眠ることを信じて、美晴はここに来た。現実は厳しく、彼女の目論見が甘かったことを痛感する。


 甲斐美晴は、プロで通用するアマチュアライダーを欲していた。それも無名で、付け加えるならば、金のかからない。そういう都合の良いライダーを。


 この場で見つからなければ、あるいは彼女を満足させるライダーはもう日本にはいないかもしれない。で、あれば、次は海外に出向くしかない。が、それは美晴の本意ではなかった。


「さすがに及第点が一人もいないっていうのはへこむわね。やっぱり、無理なのかなぁ」


「そう気を落とさぬことです。といっても無理な相談ですか。次で最後です」


「ま、期待しないことにするわ。どんな奴?」


「一応、ここのエースライダーのようです」


 美晴は首にかけた双眼鏡を覗き込んだ。


 左手のスタートラインで、モーターを温めるマシンが見える。白の下地に銀色のラインが縁どられたデザインの外装は、派手でかなり主張が強い。明らかに乗り手独自の美意識を感じさせた。もっとも、美晴の美的感覚とは幾分かけ離れたものであるが。


 そういう派手な愛馬にまたがる馬主のほうも、ものの見事に気取った格好だった。銀色のラバースーツに白いプロテクタ。肩には何かのイラストが描かれている。手ブレで揺れる丸い視界でじっと目を凝らすと、それはユニコーンのシルエットだった。四本足で立ち、優美に角を掲げる姿である。


「うわあ、キザったらしい奴。何、あの派手な格好」


「自分の実力を誇示しているのでは。中身が伴えば、問題ないでしょう」


 雅丈がタブレットをフリックすると、何人かの名簿を通り過ぎて、その男の情報に行きついた。先だって、ブラスト部室のサーバからこっそり拝借してきた部員名簿である。中には各部員の戦歴も記されていた。


「ルーキーズグランプリ優勝、スプリングカップ三位、年間リーグ現在二位、ジャパンユース強化選手。見事なものじゃないですか、非の打ちどころがない」


 美晴は引っ手繰るようにタブレットを受け取ると、雅丈が興味深そうに読んでいたページに目を通した。


「ああ、こいつか。何年か前の試合で見たわ」


 年齢、身長、体重。ポップアップで表示される各種個人データには、顔写真まで含まれていた。そこに写るのは、地毛なのか染めているのか、白髪を随分と長く伸ばした男。目鼻立ちのクッキリとした美少年、ではあるのだろうが。


「ご存じで?」


「まーね。そこそこ上手いやつだったけどね」


 確か、その時も上位入賞していたと思う。名簿に記された戦績にしても、ごく小さな文字で名のある大会の入賞経験がびっしりと列挙されていた。


「これこの通り、実力も十分。お嬢様が望む有力候補ではないですか。何が気に食わないというのです」


 歯切れの悪い返事でぶつぶつと文句を漏らす美晴。正直、思い出したくもない話である。蕁麻疹が出そうなほど、全身がむず痒くなった。


「口説かれた。小一時間くらい」


「あっはっはっは、まさかお嬢様の口から一流のジョークが聞けるとは」


「かっちーん、バカにされると腹立つわー。へこむわー」


「あなたにへこんでいる時間がおありですか。性格がどうであれ、このクラブで最も上手いのはあの男です。背に腹は代えられんでしょう」


「さあ、どうかしらね」


 ため息にも似た吐息を漏らす。


 確かに美晴が欲しているのは才能豊かな将来有望のライダーだ。そういう意味では、あのキザったらしいナルシストは、認めたくないし相当に癪だが逸材と呼ばざるを得ない。


 だが、それだけではダメだ。おそらく、美晴の望む通りにはならない。


「はあ、まあ良いわ。最っ低に気に食わないけど、あれが第一候補ってことにしとく。多分、万が一にも、いや絶対にありえないけど」


「やれやれ、お嬢様の強情にも困ったものですね」


「それはほっといて……で、記念すべき第一候補サマのお相手は、と」


 スカートを翻しながら向き直し、双眼鏡を覗き込んだ。今度は向かって右側。彼方のスタートラインでじっとシグナルが変わるのを待つマシンとライダーがいる。


 先のエースと打って変わり、その姿は随分と地味だった。


真っ黒なマシンには少しも飾り気がない。当たり障りのない画一的なデザイン。市販の競技用モデルだが、外装上に手を加えた様子はみじんも見られない。要するに、この安っぽい黒のカラーリングは買ったままの状態なのだ。よく見れば、そこかしこに出来た擦り傷や外装の損傷が目立つ。年季の入った様子だ。


 ライダーの方も同様である。スーツもプロテクタも黒一色。耐衝撃カーボン材そのままの色である。やはり、随分と使い古された感が強く、端々に出来た擦過や打痕が経年の酷使を思わせた。


当然のことだが、モータースポーツの例外に漏れずブラストをやるには金がかかる。マシン一騎で美晴の学費がゆうに三年分は賄えるし、技術を身に着けるにしても高い使用料を支払ってサーキットに出向かなくては行かない。さらに本格的に活動するとなれば、マシンの改造、調整、維持。スタッフの運用、転戦の旅費など、その諸経費は天文学的数字だ。


 いくらブラストに力を入れる名門校といえ、予算が無尽蔵と言うわけではあるまい。切り詰められるところはギリギリまで節約しようという涙ぐましい努力が、あのボロボロの装備一式と言うことか。おそらくは昔から部員に受け継がれてきた伝統の備品なのだろう。部員全員にいちいち新しい機材を支給していたら、それこそ金がいくらあっても足りるはずがない。モーターバイクにしても、誰が使おうと、あるいは下手くそなライディングで破損させようと痛くもかゆくもない、いたってニュートラルな練習車両というわけだ。


 一方で、実績ある将来を嘱望された選手には最大限の投資を惜しまない。美麗なパーソナルカラーに彩られた装備も、カスタマイズされた専用機も、すべて王者に与えられた特権か。


「あーあ、結局どこで走ろうがカネ、カネ、カネか。嫌んなるわ、まーじで」


「何か言いましたか、お嬢様」


「なーんでもない……ん?んん?」


 黒一色のライダースーツで埋め尽くされた美晴の視界に、何か別の色がチラついた。


 双眼鏡を両手でがっちり掴み、揺れる丸い視界を固定する。フェンスに身を乗り出して目を細めた。


 ヘルメットだ。地味でボロボロのスーツに、ヘルメットだけが鮮やかな紅色に染め上げられていた。彼が身に着ける防具の中で、それだけが自前なのだろう。新品同様に磨き上げられたヘルメットは手入れが行き届いて見えて、彼の愛着がうかがえた。


 紅。美晴の好きな色、闘争本能を引き立てる色だ。


 その心意気やよし。そういう選手が自分のメガネにかなう実力を兼ね備えていれば申し分ないのだが。


 渋い顔でうなだれる美晴をよそに、ライダーたちは出走の最終調整を淡々と進めていく。充電を終えたマシン。システムのセッティングを終えた整備スタッフが、マシンのメンテナンスハッチを閉じた。


 整備スタッフが去り際、何かライダーに喋りかけたらしい、ライダーはスタッフに視線を傾け、小さく手を振った。


 その時、双眼鏡を通した美晴の丸い視界に、あの真っ赤なヘルメットの側面が映った。 


 エムブレムが、見えた。


 赤いヘルメットの側面を覆うように、黒い紋様が描かれている。


 まさか。と、美晴は息を呑んだ。


 あの紋様を、美晴は知っている。幾度となく見た。憧れた。そのシルエットを刻み込んだマシンが疾走する様を、その眼に何度も焼き付けた。


 四つの菱型が折り重なった幾何学模様。


鎖菱チェーンド・ダイアモンドだ」


 思わず双眼鏡を取り落す。美晴の驚嘆を破って、スタンバイ完了のブザーが鳴った。


 スタッフ全員がコース外へ退避し、一直線に続くアスファルト上には、ついに二人の騎士と各々が御するマシンのみが残った。今、彼らの眼前を遮るものは何もない。


 対面する両者の中央付近、二階建てほどの、鉄骨で組まれた簡素な櫓に据え付けられたシグナルが、黄色のランプを灯した。それが『位置について』の合図。


 ひとつ、ふたつ。ライダーの逸る闘争心を警告するかのように、次々とランプが黄色い光を灯していく。


 オカルトは信じない美晴である。が、土壇場の直観は間違っていないという確信も、また美晴の信条だ。


 そんな彼女の直感が告げる。見るべきは、あの赤いヘルメットのライダー、その一挙手一投足。


 白いライダーがそこそこ上手いのは周知の事実。どうせ名前も知れているのだから、試合の映像くらい探せば幾らでも出てくる。


 なればこそ、美晴は、本能が訴える無名のライダーへの興味を素直に信じたくなった。


 見せてみろ、その実力。


《チェーンド・ダイアモンド》を戴く、その意味を。


 三つ、四つ。今、五つ目のランプに灯が入った。その色は、青。


 けたたましいスキール音が響き渡る。鼓膜を突き破らんとする暴力的なまでの高音は、マシンの心臓たる高出力リニアモーターが強大な推進力を絞り出す咆哮だ。


 ライダーを乗せたマシンは、そのパワーをもって発進する。まるでカタパルトから射出されるかのような加速力。並みの人間ならアクセルを開いた瞬間に吹き飛ばされるようなGを全身に受けながら、ライダーたちは何事もないかのように、平気でそのパワーを開放していく。


 先ほどまで、はるか五百メートルの向こう側にいたはずのモーターバイク。ぐんと加速を強めた流線型のシルエットが、瞬きする間により大きくなって美晴の視界に飛び込んでくる。


 まるで、風。その速度に触ろうとする者はいない孤独の世界。ただ一人、迫りくる敵騎を除いては。


 赤いヘルメットのマシンが、サーキット上の白いラインを超えた。俗に決断線と言われる白線は、それより先の退避が不可能であることを表す。ここで、ライダーは覚悟を決めるのだ。


 決断線を通過すると、二騎が交差するまでの距離はわずかに二百メートル。


 今、そのラインを通過する。決断線を超えたことを教えるゴングが、コーン、と甲高く鳴った。


 もう、逃げることはできない。ライダーはカウル側面に備わったハードポイントで固定していた槍をパージする。これ以降は、槍の荷重を自らの腕だけで保持しなければいけない。


 最低限バランサーが効いているとはいえ、マシンとほぼ同じ長さの槍を操るのだ。急激に重心変化するマシンに対応するため、小刻みに身体を揺らして制御する。


 普通なら、ここからライダーは本格的な突きの構えに移る。スピード重視の、カウルに伏せて可能な限り空気の抵抗を減らすフォームから、上体を起こして長大な槍を保持し、速やかに敵を捉えることが可能な戦闘的フォームへ。


 ちらりと横目に見た白いライダーも、教科書通りとでもいうべき理想のフォームで戦闘態勢に入っていた。それが普通なのだ。


 それが定石の、はず――


「なんだアイツ。何をする気だ……?」


 先ほどまで美晴の背後に控えていたはずの雅丈までもが体を乗り出して、赤いヘルメットのライダーへと視線を向けた。その表情は、険しい。


 あれを見せられれば、誰でもそうなる。


 驚きを隠せない雅丈に内心くすりと笑いながらも、美晴は自らが冷静であるように言い聞かせて、赤いライダーのマシンを追うことに努めた。


 定石は今、彼女の目の前で破られた。


 赤と黒のシルエットは、決断線を超えてなお形を変えていない。


 低く、低く。へばりつくようにマシンを抱き込んで、彼が右手で保持するランスはマシンから伸びるように、カウル脇から突き出している。そしてマシンをいじめ上げるようなモーターの高回転。すでに限界一杯まで引き上げられて、悲鳴のような甲高く苦しい音を鳴り響かせているのが、美晴の耳でも分かる。


 そう、使えるパワーをギリギリ一杯まで絞り出そうというのだ。普通ならば、決断線の手前で自分の扱える最大速まで引っ張り、後はそのスピードを維持するところだが、このライダーにそんな気はさらさらないと見えた。


 スピードはまだ伸び、衰えることはない。異質な構えを崩すこともない。


 十人がそのライディングを見たとして、きっと九人までは同じ評価を残すだろう。


 イカれている。


 残りのたった一人は……いや、語るまでもない。それこそ、今の美晴だ。


 まるで後頭部を鈍器で殴られたような衝撃だ。無謀としか思えない、反則スレスレ、危険覚悟のライディングを平然やってのける男がここにいる。


 単なる阿呆か、あるいは闘争心をむき出しにする狂戦士か。


 答えはこのあと、すぐにわかる。


 赤いライダーのマシン――、スピードはまだ伸びる。ランスをゆっくりと引く。その動きはぶれず、突き出すためのエネルギーを貯めるかのように。


 今、交差。


 槍が伸びる。上体から肩、腕へと伝達するパワーにマシンの推進力を重ね、敵を貫く穂先は疾風のごとく。


 カッ! と槍の側面が擦れぶつかり合ったのも束の間、鈍く、くぐもった破裂音が鳴り響いた。樹脂で形作られたランスが砕ける音だ。


 高速で行われた、一秒にも満たない決闘の瞬間。美晴が目を凝らしてその刹那に注意を傾けても、完全に勝敗を認めたのはすべてが終わった後だった。


 砕けた槍は一本。


 赤いヘルメットのライダーが持つランスは――


「外した、か……」


 交差した際接触した箇所以外、彼のランスは依然その形状を保っていた。


 命懸けのイレギュラーなチャージも虚しく、番狂わせはなかった。


 黒いプロテクタの肩口には、ランスの穂先に内蔵されたマーカーインクの黄色がべったりと塗りたくられ、一方で軽薄な白いプロテクタにはかすり傷ひとつない。砕け散って柄だけになったランスを誇らしく掲げる様は、美晴にとっては憎たらしさだけが際立った。


「勝負あり、ですか。終わってみれば、一方的でしたが」


 冷静を旨として、普段は感情の起伏を抑えるはずの雅丈が、珍しく残念そうに呟いた。


「キミ、あのイカれた奴を応援してたの?」


「いや、そういうわけでは」


 少々意地悪くからかってみた。しどろもどろに言い訳を試みようとしていた雅丈だが、遂に観念したらしい。


「……私だって、この《チーム》の一員ですからね。あのライディングを見せられては、それは、思うところもあります」


 あのライダーが何をやったのか、雅丈も知っている。だから、こういう慌てたような顔になる。


 限りなくスタンダードから逸脱したフォーム。交差する瞬間までスピードを稼ぎ続ける。そのためには刺突態勢も華麗な槍捌きも、一切合財捨てさった猪突猛進のライディング。


「《デッドリースタイル》、ね」


 雅丈が頷く。冷静さを取り戻そうと深呼吸する彼の顔は、しかしまだ赤らんでいた。


「この時世、化石のようなあのスタイルを受け継いだライダーがいるとは、よもや思いませんでした」


「でしょうね。私だってそう……久々に燃えたわ。あの《チェーンド・ダイアモンド》も含めてね」


 美晴は頬杖をつき、慣性走行でまた彼方へと走り去っていく赤いヘルメットの後ろ姿を眺めた。一見出走前と変わらないマシンにまたがる姿も、どこか肩を落として項垂れているように見える。彼の味わった敗北の悔しさがにじみ出ているのだろうか。


 だが、今はそれでいい。


その悔しさも、呆れるほどの闘争心も、こんなしみったれた場所で発散されるものではない。


 もっと、相応しい場所がある。狂気を歓声に変え、修羅こそが楽園と化す、そんな本当の戦場こそ、あの男とあのライディングにはふさわしい。


 その場所への道は、私が作ってやる。


 諦めかけていた理想に一つの光明が見た。その嬉しさに、美晴は思わずにやりと笑った。


 その直感は、正しいと感じる。だから美晴は、自信を持って宣言した。


「決めたわ、駒井君。あのライダーを雇う」

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