Chapter14
タイヤバリケードによじ登って、目の前を暴風のように駆け抜けていくマシンたちを目で追う。
公称身長一六〇センチ。実際には(以下略)の小柄な兵吾は、パッと見にはどこからか忍び込んだブラストファンの少年くらいにしか見えない。
もっとも、サーキットを正式に登録して使用するチームのスタッフでない以上、忍び込んだというのは事実であるが。
先ほども、ストップウォッチを弄る姿を別のチームのスタッフに目撃されてしまった。注意こそされなかったが、敵情視察をしているとでも思われたのか、まるで親の仇でも見るみたいに睨み付けられてしまった。小心者の兵吾は、そのピリピリとした視線に若干心の痛さを感じてしまう。
だがまあ、これが彼に与えられた仕事なので仕方がない。兵吾はせめて身バレしないように、作業帽を目深に被って渋い顔を隠した。
手元のストップウォッチを見やる。液晶表示は瞬きよりも早く数字を積み上げていた。すでに三分半が経過したところだ。
もし事故っていなければ、もうすぐ彼が、山県源士がストレートの向こうから姿を現すはず。
「けど、あいつ一体、なにやらかしてんだ……?」
眉間に皺を寄せて、一人呟く。兵吾は、源士の走りに少なからず不安を抱いていた。
長く彼のライディングと接してきた兵吾には分かる。源士の走りが、何かしら変調をきたしている、と。
それが良いものか悪いものか。そこまでは兵吾でも判断しかねた。何しろ――
兵吾が考え込んでいた、その時、不意に背後から肩を叩かれた。
まずい、部外者と勘付かれたか。兵吾は驚きのあまり、ストップウォッチを押してしまいそうになるほど身体を震わせたが、その後耳に届いた声で、どうにか踏みとどまった。
「よっ、調子どう?」
美晴である。殊の外機嫌が良いらしく、声が弾んでいた。
「そりゃ俺のか? 山県のか?」
「えへへ、何々拗ねてるの? キミ、案外可愛いとこあるよね」
「あー、止めろ! そういう弄りは源士にやれっての!」
ニヤニヤ顔で頭を撫でようとする美晴の手を払いのける。何だこいつ、本当に気持ち悪いくらい機嫌が良い。恐らくは、源士が自分の意志でサーキットに打って出たのがたまらなく嬉しかったのだろう
「くそっ。源士の奴も、大概こいつに毒されてるからな……ほらよ」
兵吾は長いため息を漏らしながら、メモの切れ端を美晴に差し出した。源士のラップタイムを記したものだ。
「どれどれ~? ……何これ」
メモに目を通した瞬間、美晴の顔が一気に曇った。あり得ないものを見た、とでも言いたげに「マジなの?」と兵吾に尋ねる。
「マジだ……なあ、本当に大丈夫なのか?」
「んなわけないでしょ。どうしたら、こんなムラッ気のあるタイムになるのよ」
それこそが、兵吾の懸念していた不安材料だった。
既に何十周とコースを走り続けている。だがどれだけ走っても、源士のレコードは一向に安定しないのだ。
時折、目の覚めるようなスピードで規定タイムに肉薄したかと思いきや、次のラップでは目も当てられないほど悲惨な記録を残したりする。その振れ幅があまりにも大きく、酷いときは源士が教習で最初にこのコースを走った時よりも遅い。
これには、あの豪胆な甲斐美晴も驚きを隠せないでいるようだった。眉をハの字に寄せて顎に指を這わせる。まったく解ける見込みのないテストにでも目を通すような仕草。その視線は、困惑とか狼狽を通り越して、もはや不安の色のほうが濃かった。
兵吾も、美晴の気持ちは理解できた。実力の差はともかく、同じブラストに携わるメカ屋同士、マシンに起こりうるトラブルを考えずにはいられない。
「主機の異常は考えられるか?」
源士は恐る恐る美晴に尋ねた。依然として考え込んでいる美晴は、いくらか否定的なニュアンスで呻いてみせた。
「考えられなくはない。けど、まったくタイムが出てない訳じゃないし……むしろ電装系って線のほうが……」
「出す前にざっとシステムチェックはしたぞ」
「そうなると、あとは……うーん」
問題はどこだ。断続的に発生するマシントラブル。しかも、完全にその動きを止めてしまうには至らない。それこそ、源士がピットにも戻らない程度の。
「……そういや、源士の奴」
半ば混乱しかけていた兵吾の脳裏に、ひとつだけ思い当たるものがあった。
「勿体ぶらないで。何かあったの?」
いつになく真剣な面持ちの美晴。その眼光に射抜かれて、兵吾は気圧されて僅かに仰け反った。
「いや、本当に大したことないんだよ。ただ、あいつ――」
兵吾は、今も幾人かのライダーが通過していくコースに、源士の幻影を照らし合わせた。もう長いことこのコースを休みなしに走り続ける源士の、コーナーへと飛び込むライディングフォームを。
おそらく、源士に何か変わったところがあるとすれば、そこしかない。兵吾は躊躇いがちに口を開いた。
「あいつ、コーナリングの手前でちょっとフラつくんだよ」
至極僅かな揺動だ。何度も何度も、目の前を通り過ぎていく姿を目に焼き付けて、何となく気になったという程度のもの。タイムに変化がなければ、気にも留めなかっただろう。
が、美晴の反応は兵吾の思っているものとは随分違った。
俯き、何事かブツブツと呟いている。その表情にも余裕はない。むしろ不安や焦りの色さえ見えた。
「いや、でも本当にちょっとしたことなんだぜ? マシンがコーナリングの前に少しだけアウトコースに傾いてる……気がするってだけの」
自分は、何かとんでもないことを口走ってしまったのかもしれん。美晴がそれほどまで深刻に考えるとは思いもよらなかった兵吾。
やはり、気のせいかも。そう声をかけそうになった、その時。
聞き惚れてしまいそうなモーター音に混じって、ひどく冴えない音が兵吾の耳にも届いた。それは、チューンもへったくれもない、どノーマルのマシンが放つうめき声。
「あのモーター、源士のマシンか!」
兵吾が叫ぶ。
その声と同時かやや早く、兵吾の目の前を美晴が跳んだ。タイヤバリケードを一息に乗り越えて、その勢いのままに走り出す。
「おい、どこ行くんだ甲斐! あぶねぇぞ!」
「そんなこと言ってる場合じゃないかもでしょ! 小山田君も、早く来る!」
「ああ、もう! どうなっても知らねえぞ!」
兵吾は急かされて、おっかなびっくりタイヤから飛び降りた。ここから先は立派な立ち入り禁止エリアだ。クラッシュでも起こればひとたまりもないのだが。
縁石ギリギリに立つ二人。兵吾の前には、大河のごときアスファルトの連なりが彼方から続いていた。
立ち上る熱気が、兵吾の顔を撫ぜる。
ここが源士の戦場となるのか。兵吾は息を呑んだ。
兵吾はサーキットを走ったことがない。無論、マシンを調整する都合、多少の騎乗経験はあるが、あくまで試し乗りの範疇でしかない。
四分。この長大なコースを、ライダーたちはわずか四分で駆け抜けるのだ。メカニックである兵吾はある意味でモーターバイクの専門家である。が、この灼熱の路面を源士のように走れて言われれば。
きっと。いや間違いなく、無理だと叫ぶ。それほどまでに、この空間に圧倒されていた。
「来たわよ!」
美晴が声を上げる。
振り向くと、先ほどよりも大きくなった不安定なモーター音。そして黒いカウルにダクトテープで格子模様を施したマシンの姿が、兵吾の目にも映る。
「ああ、このラップもだ!」
「何が!」
モーターの駆動音は騒音といってもいい。聴覚を麻痺させるほどの音響に、自然と二人の声も張り上げたものとなる。
だが、迫るマシンが源士の一台のみならば、ここまで叫ぶこともなかっただろう、と兵吾は思う。
二騎のマシン、二基のモーターの共鳴が、より増幅された駆動音として兵吾の鼓膜を叩くのだ。
「源士の前に他のライダーがいるだろ! あれ、さっきのラップも、その前のラップも、源士の前を走ってた!」
源士のマシンに先行するマシンがある。シーズン前である。組み立てられて間もないモーターバイク故か、カウルは未塗装の真っ白なナノFRP。しかし、色鮮やかなオレンジ色のスーツに六つの星を象ったエムブレムは、紛れもなく名のあるチームに属するライダーの証明である。
それが、源士の走りを阻止するように疾走している。
「六つ星のライダー……前のラップも?!」
「前もだ!」
「ずっと?!」
耳元で焚き付ける美晴の声に、兵吾は記憶を反芻した。
思い起こせば、源士はどんなタイミングでマシンを発進させた?
大きくタイムを落としたときは?
目覚ましいタイムを叩き出したときは?
兵吾は、大きく頷いた。
「ああ、ずっとだ!」
二騎のマシンが折り重なるように迫る。速い。明らかにオーバースピードと思える。
コーナーで陣取る兵吾と美晴の手前で、マシンが左右に揺れた。
やはり、今回もだ。
源士はマシンを揺動させている。
大きくバンク。コーナーに沿って、マシンが旋回する。
その光景を、兵吾は眼前で目の当たりにした。
オレンジ色のスーツを着たライダーは、深くマシンを寝かせてコース上滑るように走り去った。速く、しかしロスのない走りだ。
そして、追いかけるように疾走する源士のマシンは。
兵吾は思わず生唾を飲んだ。
回転するホイールが、源士の身じろぎが、マシンについた細部の傷が、兵吾にも見える。そんな位置に、今彼はいた。
「……イカれてやがる」
親友にこんな感情を抱くのは果たしていかがなものか。しかし、その感情は事実であった。
と、美晴が気の抜けたように、ポスンと草原に腰を落とした。安堵からか、大きな吐息を漏らしていた。
「アイツってば……」
その先の言葉は出てこないようだった。何を言いたかったのかは、大体分かる気がする兵吾である。
だが、別段慌てている風には見えない美晴を見、兵吾も多少は気分が落ち着ていく感覚を覚えた。
源士のバラつきが極めて激しいタイムの原因、それはマシントラブルではないのだろう。美晴の態度でそれは分かる。
では問題は何か?
兵吾は、ほんの少しではあるが、その答えの尾を掴んでいる気がした。
そう、彼は意図的に、自分のライディングフォームに手を加えているのだ。
エンジニアである兵吾は、マシンを走らせることに関しては門外漢である。故に源士が何をどのようにして、新たな走りを試みているのかは理解できない。
だが分かるのは、源士の走りがこの二時間で急速に変貌しつつあるということ。それもより積極的に、前へ前へと前進する意志を、より強めたかのように。
きっと、美晴は知っているのだろう。源士の魂胆を。だからこそ、彼女はコーナーを旋回し終え、遠くに消え去る源士を見つめているのだ。呆れたように、しかし、半ば嬉しそうに唇の端を釣り上げて。
「源士は……あいつは何をしてるんだ?」
兵吾の問いかけに、美晴は少し考えて口を開いた。
「タイヤに限界がある以上、滑っちゃうのは仕方ない。でもモーターのパワーはギリギリいっぱいまで使いたい。さて、どうしましょう」
「どうしましょう……って、んー、あー」
兵吾は困惑した。
それは、矛盾だ。どうしたって、並び立つものではない。
唸りに唸って、たっぷり数十秒。答えは出ない。が、何か言わねばと焦った兵吾は、無意識にポロリと口走った。
「上手く滑りながら走る」
……なーにを言ってるんだ俺は。と兵吾は心の中で呟いた。こめかみからは、つつと汗が流れた。
阿呆な事を言った。そもそも、制御できないパワーだからタイヤがスリップするのではないか。この言葉こそ矛盾である。
が、美晴の反応は、まったくの予想外であった。
「おお、大正解」
大げさに両手を叩く美晴。目を丸く見開いて、少し関心している風にも見える。
「小山田君、モーターバイクの駆動方法は知ってるわね?」
「そりゃ、ああ」
兵吾は頷いた。それくらいは基本中の基本だ。
モーターバイクの主機、それはインホイールモーターと呼称される小型の電動機関である。それは通常、マシンの後輪軸を兼ねる形で装着されている。すなわち、モーターバイクは後輪の回転により直進する、というわけだ。
「――だから、モーターバイクは基本的に後輪駆動だ」
「そうね。つまり、タイヤに負荷がかかりやすいのは?」
「後輪、か」
推力を真っ先に路面へと伝える後輪は、その分摩擦力を受けやすい。あるいは、フルスロットルと化したマシンの状態を想像してもよい。まともな制御を受けなければ、ウィリー、前輪を浮き上がらせた状態となる。これもまた、負荷が後輪に集中している証拠だ。
「つまり、前輪と後輪では、必ずしも均等に負荷、摩擦力が掛かってるとは言えないってわけ。ここまではOK?」
「あ、ああ。なんとなく分かる」
「じゃ、例えばね。モーターのパワーを十としましょう。そしてタイヤは五の力までなら推進摩擦に耐えることができる」
ああ、なるほど。兵吾は美晴の言わんとすることが見えてきたような気がした。
彼女の仮定に則るならば、両輪のタイヤを合わせた許容量は十となり、ギリギリでモーターの推力にタイヤが負けないでいることが出来る。つまり、マシンはスリップすることなく、モーターの出力を目一杯使って、理想のラインをコーナリングできるというわけか。
だが、ここにモーターバイクの構造という問題を付け加えると、その理想は意味をなさなくなる。
「実際には後輪にかかる負荷のほうが大きくなる。だから、必ずしも五:五にタイヤの負荷を均等することはできない……」
「ところが、よ」
美晴はニヤリと笑って見せた。まるで出来の悪い生徒を教える教師のようだ。
「思うに、彼らはタイヤの負荷を分散させる技を知ってるの。三:八の負荷を五:五。ないし、それに近いところまで持っていける術を」
「……重心移動を使ったタイヤコントロール?」
「ご明察」
美晴が人差し指と親指で丸を作ってみせた。
仮に、そんな理屈が通るのならば、ライダーたちがマシンを自由自在に扱えるはずだ。前輪を滑らせる。後輪を滑らせる。あるいは、その両方を。
極めれば、まったく滑らせずとも?
「じゃあ、まさか。源士がコーナーの手前でマシンを揺らしてるのは……」
「ひょっとすると、大きな意味を持つのかもしれないし、全く関係ないのかもしれない。アタシにもそこまでは分からない」
と、美晴は大げさな仕草で肩をすくめて見せた。
「何でそこだけ大雑把なんだよ……一番重要なとこじゃねえか」
「じゃあ聞くけど、兵吾君は言葉の説明を受けただけで自転車に乗れた? バランスをとってペダルを回すだけ。それで運転できた?」
「そりゃ……」
兵吾は言い淀んだ。誰だって、練習と失敗を繰り返したに違いない。だがいつしか乗れるようになって、今度は自分がその乗り方を教える側の人間になったとして、自分はどう言葉で方法を伝える?
千の言葉を使ったとしても、万の言葉を使ったとしても。きっと、伝わるまい。自転車に乗って、経験を肉体に刻み付けないことには。
納得した兵吾の複雑な表情を読み取ったのか、美晴は「でしょう?」といくらか柔和にほほ笑んだ。
「ブラストライダーなんてのは、みんな自分勝手なもんよ。上の連中はだぁれも教科書通りになんて走ってない。みんな独自のルール、自分だけのライディングを持ってる……小山田くん、源士のタイム見てみな?」
促されるまま、兵吾はストップウォッチに目を通した。
『00:04:00:00』
「マジかよ……」
兵吾はうすら寒さを覚えた。つい二時間前まで、ただコースを一周するにも四苦八苦していた源士が、遂に基準タイムに到達したのだ。こんな、短時間で。
そうか、ラップタイムのばらつき、その理由がようやく分かった。コーナリングの成功如何で、源士のタイムは大きく変動していたのだ。
しかも、手元の周回記録。
タイムを落とす回数は、徐々に減っていた。当初三回に一回失敗していたコーナリングが、今は十回に一回程度。
源士はマシンのコントロールを掴みつつある。
この記録、源士の目にも入っているはずだ。記録されたタイムは、雅丈のネットワークを通じて逐一彼のヘルメットにも転送されているのだから。
だが、やつは走るのを止めない。ただ前へと、未だ全速でコースを突っ走っている。
『いや、四分ジャストを狙ってたんじゃ遅すぎる』
走り出す前、源士が呟いた言葉が脳裏を過る。
四分、そのタイムはあくまでボーダーラインでしかないのか。少なくとも、彼の中では。
「あいつ、まだ速くなる気か」
「そうでなくちゃ困るわ。なんたって、アタシが選んだライダーだもの」
美晴は立ち上がってスカートについた草を払った。もう、彼女の声には一点の曇りも感じられない。
この少女と出会ってまだ数週間。兵吾はまだ、彼女を訝しんでいた。
それは、そうだろう。
プロのブラストチーム、その監督? こんな、自分と同い年の少女が?
だが、その知識も、古びたマシンを蘇らせた技術も、紛れもない本物だと思い知らされている。
そんな彼女が今、サーキットを必死でひた走る源士を見つめている。
その光景は、少し妬ける。どこか、そう。
「甲斐、お前源士のことが好きなのか?」
風が吹いた。夏だと言うのに、ひどく寒々しい風が。
「……はあ?」
「あー、分かった。分かったから『うわぁ、この童貞何言っちゃってんの。引くわぁ』みたいな顔……やめてくれ」
女って思ってたより怖い。兵吾は青ざめた顔で唇を引きつらせた。
***
一方その頃、山県源士。
二時間近くコースを回り続けている。これだけ長時間に渡ってマシンに跨り続けたのはいつ以来だろう。少なくとも、彼の記憶にはない。
すでにバッテリーの残量は一割を切って、モニタではゲージの針が小刻みにエンプティ―ラインと重なっている。
源士自身も限界に近い。ずっとマシンにしがみ付いてきたのだ。手足の感覚が遠のきだした。その息遣いも荒い。
が、それでも。
「……見えた」
六つ星の背中を見つめて源士は笑う。
今、最後の周回を意味するブザーが鳴った。
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