Chapter15

 源士は唇をニイと歪ませた。ヘルメットの中の出来事である。その顔が誰かに見られることはないが、もしも目にしたならば、誰もそれが笑顔だとは思うまい。


 犬歯をむき出しにして、両目はこれでもかと開かれる。まともな人間がする表情ではない。もっと野性的で、獲物を追う肉食獣とどこが違うだろう。


 だが無理もない。二時間弱、走り通してきたのだ。極限まで研ぎ澄まされた集中力は諸刃の剣のようなもので、ライダーの精神を加速度的に削っていく。


 さらに、マシンのコントロールを行うのはこの肉体そのものだ。無限に同じコンディションが続くことなど、あり得ないということだ。


 恐ろしい瞬間の連続だった。コーナーに突入するたび、恐怖に震えあがったものだ。何度、クラッシュと死を意識したか知れない。


 何しろ、今まではさして気にも留めなかった路面の小石やうねりのすべてが、隙あらばマシンのコントロールを奪おうと牙を剥いてくるのだ。


 それだけ、ドリフト中のマシンコントロールは困難を極めた。ライダーである源士は、鋭敏なセンサーとなってマシンの挙動を逐一拾い上げていく。そして、マシンの態勢を常にあるべき状態へと修正し続けなければならないのだ。この際、モーターバイクに備わるオートバランサーは少しも役に立たない。むしろ、マシンを安定させるべくライダーからコントロールを奪うその装置は、この際邪魔でしかない。


 それがドリフトだ。マシンがその制御を失うギリギリで、両輪を巧みに滑らせてインコースを駆け抜けていく。そこに一切のマージンはなく、わずかな油断でライダーは獣の軛を解き放つことになる。


 まるで、綱渡り。


 実際、源士は何度も命の危険を味わった。度重なる落車の恐怖。その度に、マシンは理想のラインを外れ、無残なタイムを記録に刻み付けることになる。


 その内、五体はマシンを押さえつける体力さえも奪われていった。感覚が徐々に遠のいていく。アクセルを握る握力も既に乏しく、今マシンが予想外の挙動を見せれば、源士は容赦なく吹っ飛ばされるだろう。


 改めて源士は思い知らされた。自分には短期決戦が向いている。世の中には一人四時間も走り通さなければならないレースもあるそうだが、とてもではない。無理だ。


 自分にはブラストが性に合っていると、改めて実感する。


 だが今は、このレースまがいの走行に決着をつける必要があった。


 未だ、源士の前を疾走するライダーの姿は変わらない。オレンジ色のスーツ、六つ星を象ったエムブレム。何度命懸けで突っ込んでも、源士があのライダーの脇をすり抜けることは一度としてなかった。


 後ろから見ていても嫉妬するほどに、六つ星のライディングは完璧だ。百パーセントマシンのスライドコントロール下に置き、少しも乱れることはない。ぶれることを知らないテールの挙動が、源士をあざ笑うようにコーナーで小さくなっていくのを、何度も歯噛みして見送った。


 故に次こそはと、マシンに鞭を入れるがごとくスロットルを引き絞る。


 マシンの性能など関係ない。ただ求められるのは、卓越した技量のみ。


 二時間前、源士のコーナリングは素人以下だった。アクセルを回す以外能のないライダーだった。


 だからこそ、目の前を行く六つ星のテールランプを追いかけたのだ。飛び散るタイヤ片を浴びながらも。


「……見えたぞ」


 源士はモニタ越しに逃げ行くマシンを目で追う。


 六つ星は速い。こと、サーキットを走るという点において、その技量はさすがプロだと舌を巻くレベルだ。


 だが、ようやく見えてきた。


 あのライダーがどのようにコーナーへ飛び込んでいくのか。あのマシンのタイヤが、いかに路面と接しているのか。


 感じることが出来る。手に取るように、分かる。


 すると、必然に視野は広がって、今まで気にも留めなかったことが詳らかになってくる。


そう、完璧だと思っていた六つ星のライディングに、ほんのわずか付け入る隙がある、ということに。


 源士は気づいた。


 マシンを傾けるタイミングが、一瞬速いのだ。そのせいか、旋回の軌跡が理想のラインからずれる。


 これまでは気づくこともなかった隙である。時間にしてコンマ数秒のロスが生み出した、インコースに現れるマシン半身かそこらのスペース。


 源士は思案する。


 もしも、六つ星よりも速く、そこに割り込むことができたならば……?


 勝機があるとすれば、そこだ。


 ……勝機? 勝機とはなんだと、源士は自問した。


 本来、ブラストはレースではない。故に追いかけっこは、彼らの本分ではない。源士もレースまがいの経験はこれが初めてだ。


 そんな自分が今、目の前の障害物に苛立ちを覚えている。


 抜き去りたいと。先頭を走りたい、と。


 それは、ブラストライダーとしては邪道な行いではないのか。かすかに、源士の意思が揺らいだ。


 また、コーナーが迫る。だが覚悟は決まらない。それでは、我武者羅突っ込むこともできはしない。


 源士は舌打ちし、コーナーに舵を切った。


 と、その時。


「あれは……?」


 コーナーを滑るように駆け抜けていく。すると、流れていく視界の隅、縁石ギリギリに二人の人影が佇んでいるのが見えた。


 顔までは判別できなかった。だが背格好、それに翻ったスカートで、源士は確信した。


「あんなところで何をやってるんだ」


 嘆息する源士。


 ここはサーキット、高速で疾駆するモーターバイクは、当然相当の質量をもつ重量物だ。それがコントロールを失って、自らに突っ込んで来たら、とは考えないのか。何故あんな危ない真似を――


 ……いや、そんな事、分かりきっている


 心配しているのだろう。いつもと違う、妙なライディングをしている、と。


 奴らなら、今の自分を見て、何と思うのだろうか。


 十分よくやっていると、褒めるだろうか。


 兵吾は、苦笑している顔が目に浮かぶ。「いいんじゃねえか?」と肯定してくれるような気がする。


 だが、熱血な見た目に反して真面目で小心者の兵吾。その本心は?


 そして、美晴は――


 言うまでもない。このままバイクから降りて彼女の前に立った時、あの短いスカートで回し蹴りをかましてくる姿が、ありありと想像できた。


 そして、あの整った顔にキツイ皺を寄せて睨みつけるのだ。


「サイテー」と、呟きながら。


 コーナーを抜ける。ようやく感覚を掴んだ源士のマシンは、絶妙なバランス感覚で両輪を滑らせていった。悪くない。想像通りのコーナリングだった。


 タイムを見なくとも分かる。良い記録が出た。


 だが、源士は首を横に振る。


(何が邪道だ。俺は……ブラストライダーのはずだ)


 ならば、ブラストライダーとは闘争心がすべて。燃え滾る闘争心が行き着く先とは、つまり。


(前に出る。奴よりも、速く!)


 行けるか? 源士はマシンに問いかけた。


 モニター、バッテリゲージは限界に近い。


 タイヤ、先ほどのコーナリングで、いくらか反応が怪しくなってきたのが分かった。タイヤの摩耗が、カバーできないところまで近づいている。


 さすがに車体そのものに際立った負荷はないが、マシンの限界は近い。


 自分の身体もそうだ。長時間の全力走行は、心身とも確実にエネルギーを奪っていく。


 全身全霊のタイムアタックは、良くてあと一周が限度。


 その時、モニターの端で強く主張するように『Limit!』の赤い文字が点滅した。雅丈が事前に組み込んだプログラムで、既定の時間を通過すると自動的に点灯すると言っていた。つまり、時間も残り少ないということだ。


 名実共に、これがラストチャンス。


 ストレートを駆け抜ける。依然として六つ星ライダーは目の前にいる。そして、二騎の車間は最初とほとんど変わらない。


 ――行くか。


 源士はアクセルをひねり込んだ。モーターの唸りが強さを増す。マシンを六つ星の背後にピタリと寄せたのだ。もはやミスは許されない、一触即発の距離。


 今はがらんどうの観客席を横目に、源士はホームストレートを駆け抜ける。


 ものの数十秒、ここは良い。槍を振るわないし、オートバランサーの機能したマシンの安定性はすこぶる優秀だ。


 問題は、この先のコーナー。マシンの能力に頼ることが出来ない。ただただ、自らの度量が示される急激な一条のうねり。


 迫るコーナー。まだ、まだだ。速度を維持して突っ込む。


 ブレーキは掛けるな。恐怖は気合でねじ伏せろ。源士は自分に言い聞かせる。


 まだ……まだ……


 今、前方、六つ星のマシンが揺れた。


 それはドリフトの合図。マシンを滑らせる予備行動。


 だが、源士はつられない。


 もう知っている。奴のモーションは一拍速いのだ。


 まさにチキンレース。源士は未だ、そこがストレートのど真ん中であるかのように直進する。


 まだだ。まだ待つんだ。急く本能をぐっと抑え、源士はじっと六つ星の動きを観察する。


 先ほどのコーナリングでも見たはずだ。この直後、奴の弱点が表出するならば――


「そこだっ!」


 見えた。六つ星の車体とインサイドの縁石、そこに現れる、わずかな空白地帯。


 六つ星のマシンは旋回に伴って、そのスピードをわずかに落とした。だが、モーションを踏み止まった源士のマシンは、その速度を緩めない。


 まるで吸い込まれるように、マシンは縁石の淵ギリギリに滑り込む。こつこつと、時折タイヤが縁石を叩いた。フロントサスが拾う振動が、マシンの制御をより困難にする。


 自分の肘が六つ星のマシンと接触した。それほどの至近距離に。


 瞬間、バンクを開始した六つ星が、身体を震わせた。さぞ驚いたことだろう。いるはずのない所に、先ほどまで後塵を拝していた男が姿を現したのだから。


 だが、もう少しだけ驚いてもらう。


「見せてやる……」


 源士がマシンを揺らした。バランサーが始動、反方向への力を発揮しだして、自動的にマシンを垂直に戻す挙動を起こす。


「これが俺の……」


 狙いはそこだ。発生した反力に、自分の体重を上乗せすると、混乱したセンサーは己のバランスを見失う。


 ハングオフ、大きく傾いた車体。モーターパワーがタイヤの限界を超える。


 キュルル……と、タイヤの滑る音。リアが大きくスライドした。このままではスピンしてしまう状況で、源士は体を前傾に浮かせた。


 こまめな重心移動で、タイヤの負荷を前後に散らすのだ。僅か二時間弱。だが、もう覚えた。このモーターバイクを、源士は手足と同じに操ることが出来る。


 マシンに横滑りのパワーがかかる。


 今、転倒――否。


「――ドリフトだ!!」


 ピタリと、止まった。


 深いバンク角は釣合の取れない天秤のようでもある。しかし源士と彼の操るマシンは、精緻なるバランスでその態勢を維持し続ける。それは理論に基づいた計算ではない。ただ本能的に、山県源士と言う一個のセンサーがあるべき挙動を取ったに過ぎない。だがその感覚、源士が掴んだ類まれなコーナリング感覚は、紛れもなく本物だった。


 最小限のパワーロスで、マシンはカーブを駆け抜ける。


(行ける……もう少し)


 源士は念じるように心に呟いた。


 源士と六つ星は、ほぼ並んでマシンを旋回させていく。そのスピードはほぼ互角。


 どちらも前に出られず拮抗している。


 無茶苦茶だ。すでにタイヤは源士のコントロールできるギリギリのところにあり、過度の負担を抱えて白煙を上げつつもある。


 だが、行けると踏んだ。


 何故?


 マシンがそう告げるのだ。サスペンションを伝い全身に感じる手応えが、まだ余裕ありと叫ぶのだ。


 ならば、源士がすることはただ一つ。


 源士はさらにアクセルを開放した。


「ぐうっ!」


 源士は堪えるように唸った。リアの振りが激しい。サスも暴れる。今にもマシンから振り落とされそうだ。


 だが、その価値はあった。勝負を決するには、十分すぎる価値が。


 源士はにやりと笑った。


 並走していた二騎のマシンに、少しずつズレが生じていく。インコースをひた走る源士のマシン、そのフロントカウルが、前に出た。


 一方、六つ星のマシンは、ラインに割り込まれたがために方向修正を余儀なくされた。インに切り込むことができないマシンは次第にラインを膨らませ、そのスピードを落としていく。


 遂に、コーナーを脱出した。


 ようやく目にしたその光景に、源士は一瞬呼吸を忘れた。


 何者も、彼の前にはいない。ただ長大な一直線のアスファルトが広がるだけの、世界。


 なるほど、気分が良いものだ。レーサーたちはこんな世界が見たくて、己が技量を磨くのだろう。


 それも、面白いのかもしれない。源士もそう思う。だが条件が付く。それが、未だ心血の沸騰するような興奮感には物足りぬ理由。


「俺が、ブラストライダーでなけりゃな」


 もしがモーターバイクに跨る理由があるとするならば、それはやはり、走るためにではないのだ。


 すべては槍を振るうために。目の前の敵を倒すために、バイクを操るのだ。


 山県源士という男は生粋のブラストライダーなのだ、


「……と、お。おお?」


 ストレートの中ごろまで差し掛かったところで、急にマシンからの手応えがなくなった。モーターは急速にその回転数を落として、遂にマシンは完全に停止した。


 マシントラブルか? 源士はモニターに目を通す。何のことはない、バッテリーゲージが完全に底をつき、少しも動く気配がない。単なるガス欠だ。


「ちっ、こんなところで……」


 と、毒づく源士の隣を、悠々と一台マシンが過ぎ去っていった。


 六つ星のマシンだ。源士に差し合いで負けた割には、その走りは少しも動じていないように見える。


 その六つ星が、すっと左腕を上げた。腕を伸ばしたその先で、親指を空に向かって突き上げて。


 一瞬、訳が分からずぽかんと口を開けた源士。だがすぐに、呆れ気味で破顔した。


 なるほど、そういうことか。


 きっと、食えない男なのだろう。してやられた事を多少悔しがりながらも、源士はメットのモニターからラップタイムの記録を覗いた。


 『00:03:48:23』


 ま、今日のところ、上出来だろう。


 ヘルメットを脱ぎ去り、新鮮な空気で深呼吸する。


 実際には、本番はこれからなのだが、もう不安はない。規定タイム四分? 容易い事だ。


 むしろ今は、もっと先のことを考えている源士であった。


「今に見てろよ、六つ星野郎。次は本気で勝つ」




***




 マシンをピットに附けると、男は降り立った。その足取りも、二時間走り続けたとは思えない程軽い。


「お疲れ様です」


 男の傍らに少女が近寄った。スポーツタオルとミネラルウォーターのペットボトルを携えて、労いの言葉をかける。


 黒髪の長いポニーテールを揺らす少女。デニムのホットパンツとオレンジ色のポロシャツという活動的な格好だが、垂れ目気味の大きな双眸は、どちらかというと穏やかな印象を与えている。


 その少女が身にまとうシャツ、右胸にはあの六つ星を象った刺繍が施されていた。


「ああ、おおきに……はぁぁぁ、どっと疲れたわ」


 男はヘルメットを脱いで少女の手にあるタオルを受け取った。かなり癖のある関西弁だ。彼のトレードマークでもある。


「そんなこと言って、がっつり手を抜いていたくせに」


 と、少女が口を尖らせてぼやく。余程、目の前で男が追い抜かれたのが不満だったのだろう。それも、彼が本気で走らなかったことがご立腹の様だ。


「相変わらず、キョーコちゃんは手厳しいなぁ。ま、所詮はプラクティスや。そう目くじら立てることもあらへんよ?」


 だが、男はことのほか余裕だ。


 実際、先ほどの練習走行も本気はほとんど出していない。ただ最後、自分を追いかけていた後続のライダーがラインに割り込んできたとき、少し驚いたが、それも少し嬉しくもあった。


 ブラストライダーに必要な闘争心を持ち合わせた選手だったと思う。それこそ、自分の技を見せても良いと思えるくらいに。


 だから男は、無法者の突然の挑戦を、快く受け入れたのだ。


 結果は見ての通り、わずか二時間で、彼は自分の持ちうるコーナリングスキルをほぼマスターした。きっと才能もあるのだろう。それは、少し妬ましいが。


「はぁ、また悪い癖が出たよ」


 キョーコ、と呼ばれた少女は呆れたように長い息を吐いた。


 悪い癖。気に入ったライダーがいると、何かしらコーチングをしたくなるという男の面倒見の良さを、彼女はそう呼んでいるのだ。


 だが、男はそれを快活に笑い飛ばした。これで自分の技術がすべてと言う訳ではない。そして、これで強くなれるというものではないのだから。ブラストとは、そんな単純なものではないと、彼は思っている。


「心配せんでも大丈夫やて。あれくらいで、僕の技を全部盗めるわけやないし。ま、これも先達の仕事……あん?」


 男は、サーキットに人の姿を見た。


 もう、練習走行は終わった。はや日も傾きかけて、今日のサーキットの営業は終了したと聞いていたはずだが。


 それは、男の背後を必死に追いかけていたあのライダーだった。黒いスーツに黒いマシン、飾り気のないスタイルはとてもプロライダーとは思えない。


 いや、事実プロではないのだ。彼の近くにいるサーキット職員がいる。それも、プロテストを執り行う試験官だ。この練習走行の前にプロテストを実施していたとは聞いたが、その参加者だったのか?


 そのライダーはすでにコースを一周してきたようだった。そして試験官は渋い顔をしながらも、何か肯定するように頷いている。


 どこのチームのライダーかと思ったが、まさか本当の部外者だったとは。しかも、プロですらなかった。


 いや、今まさにプロになったか。


 ならば、いずれ戦うことになるかもしれない。そう思うと、男は身震いした。


 恐怖、ではないだろう。それよりも、あの闘争心の塊と槍を交えることが出来るのが楽しみなのだ。武者震い、と言っていい。


 見たところ、スーツにはチームエムブレムの類もない。一体、どんなチームの誰なのだ。


 男が目を凝らすと、そこにまた、新しい人影が現れた。


 それは一人の少女。背格好は隣にいるキョーコと大して変わらない。そんな年頃の女の子。ショートボブの髪を揺らしながら、ライダーに駆け寄ると、嬉しげにハイタッチを交わした。


 彼女は――見覚えのある、あの顔は。


「リューセーさん? あの……どうしたんです?」


 隣で少女が不安そうに男の顔を覗き込んだ。だが、男はそんな彼女を見てはいない。


「……お嬢さん?」


 男は思わず、手に持ったヘルメットを取り落した。

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