Chapter39

 自分の息遣いが、次第に荒くなっていくのが分かる。まさか、マシンよりも先に自分がヘバりかけるとは。


 老いた、などとは思うまい。だが確実に、ブラストライダーとして肉体の全盛期は逸したと思わずにはいられなかった。気付けば二十七歳。甲斐虎生の享年も超えてしまった。ライダーとしてのキャリアは既に折り返しに至り、自分は後どれだけ全力で戦えるだろうとさえ考えてしまう。


 だが、今は。今だけは。


「楽しい……楽しいなぁ! 源士くん!」


 久しく味わえなかった感情が、どうしてか今になって蘇ってくるのだ。


 この世界で生き残るために勝つ。良い結果を残すために勝つ。いつしか染み付いていた、そういう打算的な勝利への執着は、もうない。


 ただ、勝つ。自分が相対する敵よりも強いと証明するために、勝つ。


 ひどくシンプルだ。しかし、もっとも本質に近い勝利への渇望心だ。


 自分は、それに身を委ねて戦えば良い。


 その、何と楽しい事か。


「フリックアップは……もうやったな。さあ、次は何がええ? 何を喰らいたい?」


 源士は、歯がゆいながらも楽しい相手になった。持ちうる多彩な技を浴びせかけてきた。その内のほとんどを、彼は味わったことのないはずだ。だが、すべてを受け切った。それは素直に勝算に値する。


 とはいえ、速攻、変化球、一通りの技を披露した隆聖である。彼の対応力には目を見張るが、手放しに褒めてもいられない状況だ。


『――さん、リューセーさん! 聞こえますか?!』


 鼓膜を叩く女の子の声。必死に叫ぶその声に、隆聖はふいと意識を引き戻された。


『心拍値が限界を超えてます! 熱くならないで! リューセーさん?!』


「わかっとる! ……わかっとるよ、キョーコちゃん」


 そう、自分が熱くなっていることなど百も承知だ。正気を疑われても仕方がないと思う。今にも泣きそうな声で訴える今日の思いも、分からない訳はないのだ。


 だが、それでもと隆聖は首を横に振る。


 今、隆聖は激情に身を任せて戦う自分を、敢えて良しとしていた。


「僕かて、クールでいて勝てるもんならそうする……けどな、源士くんにはそれじゃ負けるで」


『そんな……馬鹿げてます!』


「かもな。でも、あいつのプレイは見たやろ? アレは、イカレや」


 スピーカーの向こうで、恭子が息を呑むのが聞こえた。


 彼女とて、理性では納得はしないだろう。


 だが、本能ではどうか。


 時として、狂気に身を任せた人間が常軌を逸した力を発揮することがある。人であることを止めた力、とでも言うべきか。


 その片鱗、を山県源士は見せつつある。リミッターを外すがごとく、肉体と精神の限界を超え、誰にも捉えられない領域へとシフトしようとしている。


 そんなこと、させはしない。


 相対するために。


 限界を超越するために。


 敵を打ち倒すために。


 ならば、隆聖がやるべきことは一つのはずだ。


「目には目を、歯には歯を……なら、イカレにはイカレを、ってな」


『アホウが。人が獣と同じ土俵で戦ってどうする』


 しわがれた老爺の声が、静かに、ひどく静かに隆聖を諌めた。


 幸造である。


「ジジイ……黙っとってくれ。こいつはもう、気合の勝負や」


「じゃから、アホウと言うとる。貴様、何の他にうちのチームに来た?」


「そいつは――」


 そうだ。何のために古巣である甲斐カザンに後足で砂をかけ、敵たる海野シックスセンスの門を叩いたのか。


 あのまま甲斐カザンにいては閉塞してしまうと思ったからだ。


 甲斐の監督が美晴に受け継がれて、確かに彼女は努力をした。あの若さで、一角のマシンビルダーになれたのだから、その才は本物だ。


 だが悲しいかな、没落したチームには金がなかった。


 足りない資金、技術と心意気でカバーするにも、限界はある。


 マシンは決して、隆聖を満足させるものではなかった。それでも、隆聖は己の持てる技量で勝利に腐心したのである。全てはかつて自分を拾ってくれた先代への恩義。それに、何もかも失って、それでも足掻き続ける美晴への情もあった。


 ……それでも、焦りは程なくしてやってきた。


 勝って負けてをぽつぽつと繰り返し、上へと這い上がることもままならない。ただ、同じ所をうろうろとしているような閉塞感に苛まれた。そして、気が付けばブラストライダーとしてのピークに至りつつあった自分の姿に失望した時。


 隆聖は初めて、己のために誰かを捨てた。


『ふん、狂った闘法よな。その才があるならば、それもよかろうて。じゃが、貴様は違うじゃろ。故に、こちらへと渡ってきたのじゃろう?』


 今まさに狂わんとしていた隆聖は、しかし、老人の言葉に口を噤まざるを得なかった。


 そうだ、自分はかつて狂えなかった。であるが故に、カザンのマシンを御することは適わなかった。


「……せやったら、僕はどうすればいい」


 ようやく絞り出した声、掠れきった言葉は、それだった。我ながら、情けない。


「技と言う技は通じん。かと言って、狂うことも出来ん。後の僕に、何が残っとる?」


『なぁにを世迷言を……寄る辺はいくらでもある。のう、恭子よ?』


『はい、勿論です』


 それは、自信に満ちた恭子の声だった。誰にも文句は言わせない。そんな気迫さえ感じさせる声だった。


『《センチピード》があります。私がいます。それに私は――あなたを信じていますから』


「キョーコちゃん……ははっ、そうか……そうやな。ジジイはともかく、キョーコちゃんがおる」


『か、勘違いしないでくださいね?! これはあくまでチームメイトして、その!』


『ちっ、口の減らん奴め』


 あれで案外とウブな恭子の慌て様、目に浮かぶようだ。


 そして、隆聖を所詮は本命のライダーと契約するまでの繋ぎと断じていた幸造は、その割にどこか機嫌が悪そうに聞こえた。


 信用されているなど微塵も思っていなかった。シックスセンスが自分のチームだと言え、新参の自分にはすべてが敵に思えていたから。


『ま、しかしな。問題はいかにして勝つかよ。今、流れが向こうにある』


『……はい、悔しいですがおじいちゃんの言うとおりです』


「ま、確かにな。今のノッてる源士くんに、正攻法は通用せんやろう」


『その通りです。何か……何か、彼の裏をかける技があればいいのですが……』


 恭子の声音は苦々しい。


 まさに言うは易し、といったところだ。死の淵から這い上がってきた今の山県源士に、怖いものはあるまい。まして、その極限のコンセントレーションが生み出す見切りは驚異的。並みの技では通用しない。


 何かないか。隆聖は思考を回す。


あと、一本。山県源士から勝ちをもぎ取るためには、どんな手を打てば良い?


 どの道一回きりの勝負ならば、奇計でも構わない。源士が夢にも思わない。そんな攻撃があれば――


 ……いや、ある。


 一つ。恐らくは、山県源士がまだ一度も受けたことのないであろう技。そして、よもや自分が受けるとは思わないであろう技。


(そら、そうや。このご時世、誰が好き好んでやるねん。あの技を……けど、面白いやないか)


 その思いつきは、隆聖の胸をかつてない程に高鳴らせた。問題は、そいつがチームの総意となり得るか、だが。


『……何かしょーもない事たくらんどるな?』


 さすがジジイ、敏い。


 隆聖は考えるまでもなく、そのたくらみを滔々と述べてみた。


『わ、私はリューセーさんを信じてます! 信じてますけど……正気ですか?』


 と、上ずった声で呟く恭子。若干引き気味だ。


 一方、幸造は以外にも冷静である。


『ふむ、詭道じゃが悪くない……が、五分じゃな』


「その、こころは?」


『やっこさんと、あのマシンは《それ》だけに特化した仕様じゃろうて。そこに同じ手をぶつけるのは、な』


「うん、まあ……反対されるとしたら、そんなところやろと思っとったわ」


 隆聖は苦笑した。正論には違いない。


 が、隆聖に言わせれば、そいつは舐めすぎと言うものだ。


「忘れてもらっちゃ困るな。僕の二つ名は《スキルブック》……そして、《甲斐の虎》を一番間近で見てきた男や」




***




 一勝一敗。引き分けは、何度重ねたか知れない。


 一進一退。互いのランスを重ね合わせては、そのいずれもが互いの急所を逸れていく。


 膠着状態と呼ぶには、あまりにも熾烈な死闘。キレの増す源士の《デッドリー》を隆聖は紙一重でかわす。


 一方で、隆聖の攻撃には一度たりとも同じ技がない。無際限の軌道で敵をかく乱する《スネイク》は序の口。死角を巧みに使って敵の肩口を狙う《アクレープ》、回避の難しい首にピンポイントの一閃を仕掛ける《スティング》。派手さはないが、堅実かついやらしい技巧の連続に源士は舌を巻いた。


 そう、源士が一本取って後、隆聖はその戦術を大きく変えた。《デッドリー封じ》で源士の戦法を潰す極端な守勢から、多彩な攻撃で積極的に一本を狙ってくる攻勢へ。


 その全てが、源士のこれまで味わったことのない戦法で襲いかかる。


 これが、真田流星という男が鍛え上げた十年余だと、源士は思い知らされた。正直に言おう。《デッドリー封じ》は確かに強力なカウンターだった。しかし、その感覚は異質である。まるで鏡面の己と向かい合うような、霞と対峙するかのような手応えのなさだった。それこそがカウンターの真骨頂だというならば、納得せざるを得ない。


 だが、誤解を恐れずに言おう。


(俺が戦いたいのは、お前じゃない)


 今は亡き《甲斐の虎》の呪縛に囚われ、その技に魅了されたが故に己を殺した哀れな男に、興味はない。


 《スキルブック》。百の技を持つ騎士。


 真田流星という男の本質がそうであるならば、倒すべきはーー


 だが今、眼前にはその男がいる。


 守ることをやめ、持てる全ての技術に殺意を乗せて立ちはだかる男がいる。


 強い。


 ただの一つも同じ槍筋はない。全てが源士の経験したことのない槍裁きで襲いかかる。


 これまで、たった一度のヒットだけで済んだのは、ほとんど奇跡に等しいとさえ思えた。地力では負けている。これは事実だ。


 故に、震える。滾る。


 脳髄から溢れるアドレナリンが何度も身体中を駆け巡り、源士の闘争本能を活性化させていく。そこに際限はなく、狂気一歩手前の領域へと源士を放り込む。


ずっと求めていた。これを、この時を!


『――源士』


 コーナー手前二百メートルといったところか、ザッと耳ざりなノイズの後、イヤホンを通して声がした。美晴である。


『随分と楽しそうじゃない?』


「そう思うか?」


『ふふん、じゃないとそんな邪悪な笑い声はしないでしょ」


「笑ってる? 俺がか」


 そんなつもりはなかった。が、今になって気がつく。自分の唇の端が大きくつり上がっていることに。果たしてどんな顔をしているだろう。鬼か、あるいは、悪魔か。


「で、まあ。お楽しみのところ悪いけど……バッテリーゲージ、見て」


 促されるままに、モニターに備わったマシンのステータスに目をやる。フル充電では幾十か点灯する目盛がすでに一つだけとなり、それも頼りなさげに点滅を繰り返していた。


(ウチのマシンは代々短期決戦型なの!)


 いつぞや美晴が叫んだセリフが過ぎった。すでに試合開始から三十分が経過している。このマシンなら良く保った方だろう。


 だが、そろそろ決着をつける時だと、この目盛の明滅は告げている。


『勝っても負けても、後一回の交戦が限度……今回もギリギリね、アタシたち』


「そういう星のもとに生まれたんだろう。きっとこれからも綱渡りだ」


『これから……か』


 美晴の呟く声が、やけに遠く感じた。その声は、どこか感慨深げで……おかしな奴だ。まだ勝敗も定まっていないのに。


 だが、分からくはなかった。美晴と出会い、《甲斐カザン》と出会い、まだ一ヶ月ほどしか経っていないのに、もう随分と共に戦ってきた気がする。


 この一ヶ月は、それほど濃密だった。


 もしもあの日。美晴が芦原学園に来なければ、そして、自分が走る姿を目にしなかったならば。


 自分は、今でもあの薄暗い小屋で古ぼけたマシンに届かぬ夢を重ねていただのろう。あるいはそのまま、何も成せずに……


 コーナーが迫る。源士はマシンを抱き抱えるように伏せると、抑えた速度でインサイドに切り込んだ。


 もはや馴染みのドリフト走行でマシンは急旋回する。


 流れていくゼブラゾーンの紅白。


 ストレートに躍り出るマシン。


 ラッチ解放。源士は槍の柄を握りしめた――その時。


 ぽつりと、水滴が源士の視界を叩いた。


 二滴、三滴と流れ落ちるそのしずくは、少しずつだがその数を増していく。


 空より落ちてこの身を濡らすもの……と言えば、恐ろしく容易に察しがつく。


「雨か」


『嘘っ! マジっ?! 駒井くん!』


『確認しました。良くありませんね、雨足はこれからどんどん強くなっていく』


 雨が降れば、濡れた路面でマシンのパフォーマンスを出しきることは難しい。埃や油の浮いたアスファルトには、たとえ丸太の様に太いタイヤでも無意味だ。美晴が妙に焦る理由もそこにある。


 だが、当の源士は、さほど気にしてはいない。むしろ、その事実に燃える感情さえ覚えている。


「……面白いじゃないか。つまり、泣いても笑っても後一セットってことだな」


「ん、まあね。随分と余裕じゃない?」


 平生の語調を保つ源士に、美晴は何を思っただろう。ただ、先ほどまでのかすかな焦りは、なりを潜めた。あるいは、彼の心情を察して安堵したか。


「余裕はない。ないが……美晴」


『うん?』


 妙に優しげな美晴の声音に、源士は続けざま言おうとした言葉を飲み込んだ。


 ありがとう……とは言うまい。今は、まだ。


 代わりに、口にした言葉は


「勝ってくる」


 源士は、アクセルを強めに捻り込んだ。

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