Chapter40

 ――曇天である。一刻と待たず雨を降らせ、一条に伸びるアスファルトを濡らすだろう。


 だが、杞憂である。


 濡れたコースを、マシンが疾走することはあるまい。何故なら、間もなく勝負は決するのだから。


 三キロからの長大なコースを囲い、覆い尽くすギャラリー。彼らの興奮は最高潮に達していた。


 誰もが本能的に気付いているのだ。この熱狂的な闘争の渦は間もなく終わりを迎える。その最後。もうすぐ訪れる瞬間こそが、この戦いにおける最大級の爆発であると。


 気の遠くなる程長いロングストレート、最初に現れたのはオレンジ色のマシンだった。出走前はワックスで磨かれて輝いていた車体も、わずかなうちに砂埃でまみれた。だが、カウルを彩る六つの流れ星を象ったエムブレムは未だ健在である。


 《センチピード》。不退転の象徴たるムカデの名を冠したマシンを擁する陣営の名は《海野シックスセンス》。そして、それを駆るライダーは真田隆聖。またの名を《スキルブック》。


 程なくして、《センチピード》とは明らかに違う猛々しいモーター音がサーキットに響き渡った。咆哮の主は、《センチピード》の対抗より来る。


 長いコーナーを越えホームストレートへと、そのマシンは躍り出た。


 満身創痍、半死半生。言い様はいくらでもあるが、ともかく原型は留めていない。強化されたFRPの外装はヤワではないはずだが、今となってはその半分強が脱落している。未だ万全に走行しているのは、奇跡と言えるだろう。


 辛うじて残存する、擦り切れたサイドカウルの色は深紅。そして四つの菱型が重なった意匠。


 すなわち、《鎖菱チェーンド・ダイアモンド》


 それは、沸々と燃え上がる炎の権化。炸裂の時を今かと待ちわびる火薬の塊。


 そのマシンの名は、《四式カザン》。


 操るは、気鋭の機士。《甲斐の虎の後継者》。


 山県源士。


 自らの息遣いが、源士の耳を打つ。他には何も聞こえない。観客の声援さえも。


 無線はとうに封鎖しており、集中を乱す者は誰もいない。


 ただ一人、あの男以外は。


 前方に迫る、ただ一台のマシン。源士が打ち倒すべき、ただ一人の相手だ。


(……勝負だ)


 心の中でそう呟きながら、源士は右手をマシンの側面に回した。そこには、彼の得物が固定されている。源士はゆったりとした所作で、それに付随する長い柄を掴んだ。


 根元にかすかなスイッチの感触。引き金の様なそれを引くと、かすかなサーボモータの動作する感触と共に、それはマシンのラッチから解放される。


 瞬間、発せられる赤い燐光。姿を現したのは、長大な馬上槍を模した武器、レーザーランスである。


 源士は厳かにそれを構える。腰だめに深く、あたかも拳銃のスライドを引く様に。


 時をほぼ同じくして、はるか彼方に見える隆聖のマシンからも、淡い光が観測された。こちらの色は青。冷徹な隆聖の戦闘意識を表すような、青い光。


 ふと、気付く。


(スタンバイが……早い)


 もう何度と槍を交えてきた。すると、互いにある種のリズムが読み取れることがある。その感覚からすると、隆聖のランスを構えるタイミングがほんのわずか早いと思えた。


 ブラストとてスポーツ。それをなす者はアスリートである。多くのスポーツ選手がそうであるように、ブラストライダーもまたルーティーンと呼ばれる所定の動作による精神統一を重視する者もいるのだ。


 そして、真田隆聖を特定のルーティンを有していると見えた。それが彼の構えの動作である。もっとも、隆聖が意図しているかは知らないが。


 ともあれ、彼が時間をかけて身体に叩き込んだモーションを捨てたとなれば、そこには必ず意図があるはずだ。


 おそらくは、これまでの技とは根本的に異なる。あるいは、源士を確実に貫けるという、渾身の一撃――


 隆聖が迫る。


 両者、時速二百キロで接近するのだ。目算にして十秒たらず。考える時間など、もうない。


 ままよ……と、源士は腰を深く落とした。


 鍛え上げた下半身のバネを十二分に発揮する、それは突進力を倍加するために必須な、《デッドリー》の予備動作。


 一方、隆聖の構えは――


(……はん。そうかい)


 源士は、思わず呻いた。


 まだ遠い。目視では米粒ほどの大きさの隆聖の姿を、しかし、源士はしかと見た。隆聖が何をしようとしているか、理解した。


 どうして分かったか? ……もとより、インスピレーションで走る源士である。そこに大した理屈などはない。


 が、自分とまったく同じ動きをされては、おのずと考えずにはいられない。


 隆聖のそれは、紛うことなく《デッドリー》の構え。


 まるで隆聖のほくそ笑む顔が目に浮かぶようだ。化石の様なその必殺技を、武器にするのはお前だけではないと。


 それはそうだ。源士が死んだ《甲斐の虎》の影を追い続けたのと同じ時間、あるいはもっと長く、隆聖もあの男の姿を見てきたのだから。ならば、《デッドリー》を使えない道理はないのだがら。


 しかも、これは挑戦状。どちらが、飯富虎生の後に立つに相応しいかと、隆聖はケンカを売っている。


 少なくとも、源士はそう理解した。そして、その投げかけは源士の熱量を倍増させるに十分だった。


 面白い……楽しい、興味深い、燃える熱く狂う沸く。


 滾る!


 熱い血潮が全身を駆け巡り、あらゆる興奮物質を全身へと満たしていくのが分かる。そいつは源士の肉体に強烈に作用して、あらゆる感覚器官を鮮明に、敏感に強化する。同時に失われていくのは理性、思考回路。


 残るのは、たった一つの熱狂的な本能。


 おそらくば原初から続く、戦いへの渇望。


 倒せ。


 お前の敵を倒せ。


 お前の前に立ちはだかる敵を、貫き倒せ!


 源士は歯を食いしばり、アクセルに力を込めた。


 ギュンと加速……敵との相対距離を確認、残り六百メートル。


 ランスを、更に深く引き込む。筋肉がひとつのバネとなっていく。臨界へと、あと少し。


 残り、四百メートル。もはや後戻りは不能、このまま突っ張るしかない。


 ただひたすらに加速しようとするマシン、アクセルを握る手を、懸命に諌める。まだだ、まだその時ではないのだ。


 残り、二百メートル。


 その時、源士の脳裏に何かが去来した。


 それは、あの日美晴と出会い、そして今日までのビジョン。走馬灯とも呼ぶべき記憶の奔流。


 あいつの、美晴の顔がいくつも浮かんでは消えていく。


 初めて会った時の、自身の塊みたいだった美晴。


 腹を空かせて顔を赤らめた美晴。


 汗を浮かべてマシンの調整をする美晴。


 それから、怒る顔、泣いた顔、困った顔。


 だが、何よりも。


『どう? 感想は……』


 初めて彼女のマシンに乗って勝った時、手を差し出しながら、美晴は穏やかに笑っていた。


 あれは、良かった。あの笑顔ならば、何度でも見たいと思った。


 ――だから。


 残り、百メートル。


 既に敵――隆聖は眼前。マシンと、それに跨りまさにランスを突き出そうとする、オレンジ色のプロテクタを纏った男。それが、一瞬にして接近する。


 源士は瞬時に、その姿を見定めた。どこを狙うか。決まっている。突くべきは急所、その胸に。


 百、五十、十――接敵。


「うぉおおおおおお!」


 源士が咆哮をあげる。けたたましいモーター音まで掻き消す叫び、メットが震える。


 その叫びが引き金となる。限界まで収束させた下半身のバネを一気に爆発させる。


 その突進力は一直線に全身を突き抜ける。身体をカタパルトとして、射出するのは、右手の得物。長大なレーザーランスである。赤い光は錐の形を成して、隆聖を穿たんと放たれる。


 ――だが、忘れてはならない。このフィールドには同じランスが二振りあるのだということを。そして、その内一振りは敵の手にあり、源士に向けられているのだということを。


 隆聖のモーションは、まるで合わせ鏡に映る自分だ。


 深い腰だめも、突き出され槍の一閃も、全てが源士の《デッドリー》そのものだ。


 しかも、源士が想像した以上に鋭く、速い。


 隆聖のランスが、青白き雷光となって源士を襲う。


(そうか。これが……これこそが)


 今、なら分かる。


 これが源士の今まで求めてきたものだ。《甲斐の虎》、飯富虎生のそれと同等の《デッドリー》だ。


 研ぎ澄まされた源士の感覚は、冷酷に一瞬先の未来を脳裏に映し出す。


 届かない。


 あと一息、紙一重で、隆聖のランスの方が速い。このままでは、先に貫かれるのは源士だ。


 ここまでやって来た。それでも、自分の槍は届かないのか。


 また、負ける。


 束の間、無力感が胸の内に巣食う。それは淀みとなって源士の肉体に絡みつく。


 だが、その時――


『俺たちには、今しかないんだろう?』


 ……それは、誰が言った言葉だった? 極度に熱狂した今の源士には、思い出せはしない。しかし、全てを悟ったような口ぶりも、垣間見た微笑の横顔も、源士は知っている。


(そうだ、今しかない。明日勝とうが、明後日勝とうが……今、負けるだけは気に食わない)


『だったら、どうするんだ?』


 分かっている。バックなんて出来ないのだ。逃げる場所なんてないのだ。


 道はただひたすらに前にしかない。


 ならば、取るべき手段はたったひとつきり。


 敵より早く、速く、疾く!


「くっそがあああああああ!」


 目一杯にアクセルをひねり込む。限界など存在しないがごとく、マシンに最大級の負荷を要求する。


 瞬間、マシンが、《カザン》が唸った。


 容赦なくレッドゾーンに叩き込まれたモーターは、その指示に応じるがままに回転数を上げる。出し得る限りのパワーを絞り出す。


 後輪に白煙を上げてマシンはそのスピードをさらに上げた。


 急加速はさながら、爆風。


 その突進は、果たして隆聖を驚愕せしめただろうか。隆聖の一閃にわずかばかり乱れが生じたのを、源士は見逃さなかった。


 最小限の動作で身を伏せる。


 青い燐光は、源士の視界のわずか隣りを掠る様に、抜ける。


 そして、源士のランスは、赤い槍筋は――




(――獲ったぞ)




 オレンジ色のシルエットが、激しい衝撃に仰け反りながら源士の脇を過ぎていった。


 源士は、右手に強いしびれを感じながら、甲高いブザーに耳を傾けた。

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