Chapter26

「ちょっと待ったぁぁぁ!」


 マシンのモーター音さえ凌駕するような、突き抜けた叫び声。


その場の誰もが声の主を目で追った。そう、あれほど集中力を研ぎ澄ましていた、源士と隆聖までも、である。


だが、声の主の姿を認めれば、さもありなんといったところである。


 長尾景樹が、そこにいた。


 純白のブリーフパンツ一丁に、青白く薄い胸板を晒している。身体を小刻みに振るわせているのは、果たして寒さか、それとも羞恥によるものか。赤面をみて分かる通り、いささか無理をしている模様ではあるが。


 なんだ、思いのほか度胸のある奴ではないか、と感心しないでもない源士であった。


 そんな中、長尾が源士を指差し、尚も叫ぶ。


「捕まえろ! そいつ……そいつは偽物だ!」


「ちっ」


 もう少しで、自分の槍が隆聖に届いたものを、と歯噛みするが、ここまでだ。


 源士は突き出しかけた槍を潔く放り出すと、スピンターンでマシンを急旋回させた。


 急制動によりタイヤからは白煙が上がる。図らずも、その煙が目くらましとなったらしい。


 ざわめく周囲を背に、源士はアクセルを開放した。


「来い! 兵吾!」


『無茶やるぜ! ったくよぉ!』


 タイヤバリアの陰から兵吾が飛び出した。スピードを上げ始めた源士のマシンのリアに飛び乗った。


 背中に硬い感触と重みを感じる。兵吾が源士の肩に手をかけたのを確認すると、手首がねじ切れんばかりに、アクセルを回す。


 強引なパワーの解放、前輪を浮き上がらせながら、マシンはついにアスファルト舗装のコースを外れ、あらぬ方向へと疾走を始めた。その先には、金網の柵があるにも関わらず。


「に、逃げる場所なんてないぞ! どうするつもりだ?!」


 いささか慌てた声で、スタッフの誰かが叫んだ。なるほど、確かに柵はうず高く立ちはだかっており、ちょっとやそっとジャンプでは歯が立ちそうにない。いや、そもそも重量級のモーターバイクを宙に浮かす膂力など、源士はおろかどんな人間も持ち合わせていはいない。


「ところがどっこい、準備は怠らない俺様でした……ってな」


 そう、元々ここから逃走する気でいたのだ。そのための手段は当然考えてきた。兵吾が途中から姿を消したのは、何も隠れただけではないのだ。


 白煙と後塵を振りまきながら突進する源士のマシン。その眼前には、細い木板が傾斜状に配置されていた。見ると、ドラム缶に立て掛ける様にして置かれているようである。その幅は、わずかにタイヤの幅程度。強度は明らかに貧弱である。


 ……だが、マシンが乗らないわけではない。


「行くぞ、兵吾!」


「お、おう! どんと行け!」


 設営した兵吾本人の声はやや及び腰だが、源士は迷わず坂道――と呼びには余りに貧弱な板切れ――に向けて舵を取った。


 突進、前輪が板切れに接触。わずかな振動と、そしてフロントサスペンションが沈み込む感覚が、車体を通して源士の感覚へと伝わる。


 マシンは、まるでジェットコースターのように斜面を駆けあがる。が、接触した先から、路面となる木板は脆くも粉砕されていく。マシンが通過するが早いか、あるいは斜面が砕かれるが先か。


 そんなギリギリの状況で、源士は視界いっぱいに広がる空を前にして叫ぶ。


「飛べぇ!」


「うわあああああ!」


 さながら空を駆け昇る天馬のように、マシンは飛翔した。


 その高さは、ゆうに二階建ての建物程はある。ちょっとした絶叫アトラクションだ。そして、眼下では《シックスセンス》のスタッフたちが口をあんぐりと開けて、道なき空を走っていく源士たちを仰いでいた。呆然した表情は何か。恐らくは、モーターバイクが空を飛ぶなどとは、思ってもみなかったのだろう。


 それは、当然そうだ。翼もプロペラもある訳がないのだから、飛べるはずもない。


 だが、オフロードで凹凸著しい悪路を駆け巡るモトクロッサーがそうであるように、二輪で地を往くマシンが三次元機動をしないとは限らないのだ。


 重いブラスト用モーターバイクをモトクロッサーと同じに語る。それに無理があると言うのなら、源士の理解とは少々異なるだけのことである。


 タイヤがあって、ハンドルがあって、走る。であれば、出来ない道理はないのだと、源士は割と真剣に思っていた。


「ま、着地はどうなるか分からんけども」


「え?! お前今なんつった?! ちょっ落ちる落ちる! うわ、うわあああああ!」


 前からはそれなりに爽快感のある風。背中からは小煩い阿鼻叫喚を浴びながら、源士は金網の上空を突破した――が。


 ゾクリ、と。


 脳髄を握り潰すようなプレッシャーが、源士を貫いた。


 不覚にも気圧されている。思わず、肺に貯めた空気をすべて吐き出してしまったほどだ。


(なんだ……なんだ? こんな殺気は――)


 マシンの制御に苦心している最中である。バランスを崩せば、頭から地面に激突するような状況だ。


それでも、源士は振り返らずにはいられなかった。言うなれば、凶器を握り締めた殺人犯に背中を向けている気分。


 揺れる視界、最大望遠のその向こう。


 奴の、真田隆聖の姿があった。


 源士のまき散らした白煙を周囲にまとい、灯の落ちたマシンに跨る。


 右手に持った槍の穂先は力なく地に伏し、再び持ち上がる気配はない。


 だが、そのカメラアイは、ヘルメットの奥にあるはずの男の双眸は、間違いなく源士を捉えている。


隠れた素顔は見えるはずがないが、同じブラストライダーであるが故に、その視線の意味するところはあっさりと分かった。


(悪いが、決着はお預けだ)


 自分だってそうだ。放つはずだった全力の一撃は不発に終わり、今は振り上げた拳をどこにおろせば良いのかも分からない。熱く滾った熱が、今にも暴走しそうな状態を、どうにか理性に押しこめているところなのだ。


「本戦を楽しみにしているぜ、真田隆聖」




***




「なーんて言った手前、この展開はさすがに恥ずかしすぎる」


 源士ですら俯いて赤面する状況である。兵吾などは、源士の様があまりに意外だったのか、腹を抱えて半ば呼吸困難気味に爆笑している。


 結論から言えば、二人は未だ《シックスセンス》の敷地内にいた。


 研究棟の一角、沈みかけた西日が影を伸ばす中で、壁の陰に隠れるようにして佇んでいる。


 息をひそめて、こっそりと壁の向こうに顔を出す。


 構内を横切る太い道の上に横たわる一台のマシン。《センチピード》である。今しがたまで、源士が操っていた予備機である。


 だが、灯の落ちたマシンは完全に沈黙している。それどころか、無残にも折れ曲がったフロントフォークからは赤茶げた機械油を垂れ流し、血だまりのように路上を濡らしていた。


 決死の大ジャンプは見事に成功したのである。だが、そこからがいけなかった。源士が隆聖の殺気に気を取られたのもある。わずかに逸れた集中力がマシンのコントロールを狂わせたのだ。


 結果、着地はできたものの、フロントサスに負ったダメージは甚大だった。わずかに百メートルほど、よたよたと走ったところで、マシンは物言わぬ鉄の塊と化した。


 本来の手筈によれば、このままマシンを駆って並み居る追跡者をぶっちぎり、出口までトンズラをかます予定であった。


 ところが現実は厳しく、このザマである。追っ手に目撃される前に何とかマシンから脱出し、ここに逃げ込んでは来た、が。


「まずいな、もう集まりだしたぞ」


「ひっ、ひひひ、ひぃぃ」


「いつまで笑ってんだ、はっ倒すぞ?」


「てっ! もうはっ倒してる?!」


 源士の鉄拳を受けた兵吾も同じ様に壁の向こうを覗き込む。見るなり、渋面を浮かべた。


「あーあ、わらわらと来やがったな……って、無理もねえか。大事なマシンをめちゃくちゃにされたら、俺だって切れるぜ」


「だから、さっさと逃走しなくちゃいかん。もしくは、すぐに出てって土下座でもするか?」


「それはそれで、いやだ……」


「道義には反するが、な」


 さすがに罪悪感がない訳ではないが、今や引くに引けぬ状況なのも事実だ。源士はため息を一つ漏らした。


「いたぞ! そこだぁ!」


 と、マシンに集まってきたスタッフの一人が源士たちの気配を察したらしく、此方を向いて叫んだ。


「やっべ、見つかった!」


 脱兎のごとく走り出す二人。


 走る走る。背後から迫る追跡者の視線を切る様に、迷路のような構内を小刻みに曲がっていく。


 だが、おかしい。


 逃げるにしても、伊達に鍛えていない源士だ。それを付き合って一緒に走る兵吾だから、彼もまた、体力には自信がある方である。


 その二人がこれでもかと言う程全速で走っているのに、少しも追っ手を巻けない。


 正確には、巻いたと思った先から、目の前に追手が現れるのだ。まるで待ち伏せされているかのように。


「さすがに……ここの土地勘は……奴らの方が一枚……上手だな」


「……言ってろ」


 だが、事実なのだろう。こちらは道なりにただ走るだけだが、彼らはこの道筋を熟知しているのだから。


 果たして、懸念は現実のものとなり、曲がり角もない一本道。目の前には、息を切らせた《シックスセンス》のスタッフが立ちはだかっている。


 まずい、と思ったときには、もう体は動いている。


 振り返り、来た道を戻ろうと試みる――が。


「ちっ、こっちも行き止まりかよ……!」


 同じく、先ほどまで源士たちの背中を追いかけていたスタッフたちが、すでに数メートル先まで迫っていた。


 一方で源士たち、正直なところ走りづめだ。しかも一度立ち止まってしまったばかりに、身体中の疲労がどっと押し寄せてきた。


「どうする、豚箱送りだぜ、きっと」


「まいったな。臭い飯なんて食ってる場合じゃないんだが」


 だが、もはや逃げ場は何処にもない状況だ。さすがに源士も諦めかけ、目を伏せた――その時。


「せやな、こんなとこで諦めてもろたら、それこそこっちが困るわ」


 不意と声がした。独特のイントネーション。物腰の柔らかい口調。そんな喋り方をする奴は、一人しかいない。


 どこから、源士は周囲を見回すが、その姿はどこにも見出せない。


 だが、確かに声はした。そして、足元に妙な振動も……


「……兵吾、下だ」


 周囲の誰にも聞こえないよう、源士は小声で兵吾に喋りかけた。


 兵吾はその意味深な言葉に首を傾げたが、源士の目線の先を見て、すぐに納得したようだった。


「ええか、三カウントで飛び降りい……三」


 分かった、というつもりで、源士はばれない程度に地面を二度蹴った。カンカン、と軽い音。


 源士は数歩後ずさった。すると、警戒したスタッフたちがにじり寄る。もう、すぐにでも羽交い絞めにしようという勢いだ。


「二ぃ」


 源士は腰をかがめた。足に力を込める。これで、すぐにでも飛び出せる、もとい『飛び降りれる』格好だ。


「……一っ!」


 それを、良からぬ雰囲気だと察したのだろう。


 やおらスタッフたちが飛び掛かった。


 砂埃のふりかかった源士のスーツを掴みあげようと、一人の腕が伸びる。


 その手が、源士を捉えようとした瞬間――


 源士の足もと、マンホールが開いた。


 鼻先まで迫ったスタッフをすんでにかわし、源士はアスファルトへぽっかり空いたその穴へ、力任せに突っ込んだ。


 思いのほか浅いマンホール。だが、人が一人立つには十分なスペースに源士はどうにか降り立った。


 ついで兵吾も、源士の上に折り重なるように飛び降りてくる。その重量に、源士はバランスを崩して倒れ込んだ。


「ぐああ、痛ぇ」


「うるせえ、こっちは汚くて死にそうだ……」


下水である。ひどい臭気で鼻が曲がりそうだが、我慢するほかない。


 スタッフたちはその挙動を予想できただろうか。どちらにせよ、それに気づいたとき、既にマンホールは何者かに閉じられていた。


 途端、静まり返った空間の中、ぼうと懐中電灯の明かりが上から源士たちを照らした。


 背中に兵吾をのせつつも四つん這いの源士は、手でまばゆい光を遮りながら、光の方を見た。


「……よう、また会うたな」


 隆聖である。あの糸の様な目が、源士に向けられていた。

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