Chapter27

 空はすでに赤黒く、夜の暗さが徐々に世界を侵食していく。日中の炎天下が嘘のように、今はアスファルトから立ち上るわずかな余熱だけが、源士の顎筋をおぼろに撫ぜていた。


 一悶着、と呼ぶにはあまりに派手な大脱走劇の後、隆聖に導かれた源士と兵吾は、思いのほかあっさりと施設の外へと脱出を果たした。


 追跡者は影も形もなかった。周到な隆聖は、マンホールの蓋が外からは開かぬよう、熱可塑性の強力接着剤でしっかりと密閉してしまったのだ。そうとは知らない《海野シックスセンス》のスタッフ達は、今頃必死になって、開かずの扉をこじ開ける努力をしているころだろう。バーナーで少し炙ってやれば、接着剤は簡単に効力を失うとも知らずに。


 もしくは、下水道の敷設見取り図などがあれば、あるいは別ルートから後を追うこともできたやも知れぬ。


 ……が、生憎とそんなものは書類倉庫の奥深く。とてもではないが、簡単に見つかるものではない。というのが隆聖の見解である。


「ま、助かったな、少年。キョーコちゃんがちっちゃい時、あそこを遊び場にしとったんで、それを聞きだした。あの抜け道は僕らしか知らんかった、っちゅう話や」


 施設の裏手、まれに機材の搬入に使われるだけで、ほとんど人が立ち入ることない裏門で、隆聖は壁にもたれながら、天に向かって両腕を大きく伸ばした。


「中腰で歩き続けるんは、さすがに腰にきたけどな」


 彼らの背丈ほどもない、本当に小学生程度がやっと普通に歩ける程度のスペースである。源士も少々こたえた。だが、隆聖の言い様は言葉に反して何でもない、といった感覚だ。


立ち尽くす源士を横目に、満足そうな微笑を浮かべていた。


 源士はといえば、ただ黙って隆聖を眺めていた。


 問いたいことは山ほどある。なぜ、長尾とは別人であると察していたのか。そうであるなら、どうして試合を継続する気になったのか。


 そして、なぜ源士たちを逃がしたのか。


 犯罪同然の暴挙を演じ、あまつさえ敵である源士に対して、隆聖の行為は予想だにしなかった。それは、あまりに過ぎた情けである。


 であるが故に、なかば困惑する源士の脳裏にそれらの質問はぐるぐると回り続け、ついぞ口に出すタイミングを失った。今の自分がどんな顔をしているのだろうか。それすらも定かではない。


「あんた、何考えてんだよ……」


 付き合いの長い兵吾は、そんな源士の心境を察したのだろうか。傍らで居心地の悪そうにする彼の言葉が、低くうなる室外機の音に溶け込むようにして流れた。


「俺らのはあんたの敵だぞ。っつーか、こんなもん警察沙汰だ。あんた、頭おかしいんじゃねえのか?」


「はは、なんてことはあらへんよ」


 隆聖が愉快そうに笑う。その立ち振る舞いには余裕すらある。《甲斐モータース》の店内で初めて彼の顔を見た時、場の主導権を完ぺきに握っていると自負しているらしい、あの余裕だ。


「君らがやったんは、せやな。明らかなルール違反や。身分を偽っての敵情視察。マシンの盗用、損壊。そんでこのドタバタ騒ぎ。ついでに、ウチのスポンサーの息子にとんでもない仕打ち……今季、長尾コーポレーションは契約切ってくるかもしれんなあ」


 暇なく列挙される暴挙の数々。分かってはいたが、この半日で源士は立派な無法者だ。いざ隆聖に突き付けられると、さすがの源士も毛ほどは残していた罪悪感をチクリと刺激された。


「……せや、君らのルール違反。山県源士の荒事を、ここで僕だけは知っている」


 源士の心境、顔に出たのだろうか。隆聖が我が意を得たりという風に、唇の端を不気味に吊り上げた。


表向きは優男に見える狐目も、今はっきりと見開かれた。


 薄茶色の瞳、そこには怒りも悦びも、およそ人間的な感情は鳴りを潜め、いっそ奈落のような狂気をもって源士を吸い込まんとしているかのようだった。


「他の連中は知らん。けど僕は、僕だけは君を告発もできる。《協会》に打ち上げれば、出場停止どころの騒ぎやない。永久追放や……いや、それよか先にケーサツに連絡行くか。そうなったら、君らの人生おしまいやな」


 言って、隆聖はくぐもった笑い声を響かせた。いっそどちらが悪者かわからないほどに、悪辣な調子である。


 誰が聞いても、それは明白な脅迫だ。彼の言っていることは全面的に正しい。そして、非がどちらにあるのかも分かりきっている。隆聖の論ずるように事を成せば、きっとそのように源士たちは処断されるだろう。


 だが、真田隆聖は告発などしない。きっと、いや間違いなく。


 そのうえで、彼はもっと別のものを引き出そうとしているのだ。チームの為ではない。ただ、自分にとってのみ有益な条件を欲している。


 ――いや待て、それは何故だ?


 そこまで思い至って、源士は唐突に沸き上がった違和感に眉をしかめた。


 こちらに後ろめたいことがあるのは事実であるとして、それをネタにして脅すなどはよくある話だ。


 そんな脅迫を、隆聖が強いる必要があるのか?


 源士は馬鹿ではない。しかし、彼の直感的な思考回路では、その疑問を形容することができなかった。ただ、何かがズレていると感じるのみである。


「俺たちに、何をさせようって言うんだ?」


 源士は観念して隆聖に問うた。分からぬものは仕方がない。そういう時は真っ向から対峙するに限るのだ。


「素直やな。物わかりがええのは、嫌いっちゃうで」


 隆聖は満足げに頷くと、本題とばかり口を開いた。


「今度の試合、手ぇ抜いてくれや」


「なっ……そんな馬鹿なことを……!」


 兵吾が絶句したように呻いた。余程困惑しているのだろう。鯉のように口をぱくぱくと動かすが、そこから言葉が出てくることはない。


「君らももお嬢さん……美晴ちゃんから聞いとるんとちゃうかな。僕が去年まで《甲斐カザン》におったことを」


 知っている。あるいは、それが美晴の判断を曇らせているであろうことも。


「ぶっちゃけた話、僕にはまだこのチームでの実績がない。なんぼライダーが一人でも、ブラストはチームでやるもんやろ? そこには信頼がないとあかんからな」


「それで、八百長して勝ちを稼ごうって腹か?」


「八百長? はは、言い方が悪いな。どっちの立場が真っ当か、君は理解しとると思とったけど」


「理解してるさ。俺たちにアンタの言い分を断れるわけはない」


「なら、話は早いな? もうすぐキョーコちゃんがここに来る。彼女にはこんな話聞かせたない。すぐにでも答えてもらえるか?」


「ふざけんな! そんなもん、呑める訳が――」


 兵吾が顔をしかめて叫ぶ。だが、目の前の隆聖にとっては、そんな少年の抵抗を遮ることなど容易い。隆聖はにたりと笑って携帯電話を掲げてみせた。端末一杯の液晶画面には、既に打ちこまれた《協会》の電話番号。後はボタン一つで連絡がつくという具合だ。


 門のこちらと向こう、隆聖と源士たち。その立場は対照的である。


 が、やはり。


 源士は未だに得心がいかない。彼の脅しをかける理由。それを聞いてもなお、何かを偽っているとさえ思える。そんな疑念があるから、余計に源士の思考を混乱させる。


 源士の脳裏、記憶がぐるぐると走馬灯のように駆け巡る。


『あんたの《ドリフト》、盗ませてもらうぞ』


 そう言って源士の追撃したライダー。素顔どころかどこの誰かも分からぬ素人に手の内をさらけ出したあのライダーは、紛うことなく真田隆聖だったはずだ。


『前任者よ、君のね』


 ――あの時、美晴はどんな顔をしていたか。少なくとも、憎しみなど宿してはいなかった。


『僕は、後悔しとらん。せやからお嬢さん、本気でかかって来ぃや』


 ――そしてあの日、確かに隆聖はそう言った。


 言ったのだ。本気でかかって来い、と。


 源士のなかで、パズルのピースがすべて在るべきところに収まった気がした。


「真田隆聖……あんた、いい奴だな」


「……はあ?」


 源士がぽつりとつぶやいた。


 それを聞いた二人のリアクションたるや、示し合わせたように同じであった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔、というのは、きっとこういうのを指すのだろう。


「ええと……君、僕の話聞いとった?」


「源士、追い詰められて、とうとう頭がやられたか……」


「失礼な。耳は正常だし、発狂もしていない」


「その割には、言ってることが理解できないんですけどねえ!」


 残念なものをを見る顔は、もはや憐憫の感情が混じっていると見えた。別に思いつきで言ったわけではないのだが、源士もほんの少し傷ついた。


「分からないか? そもそも、こんな交渉に少しも意味なんてないのさ」


「んな訳あるかよ! これで、奴は楽して一勝できるんだぜ?」


「今のままでも、そうだ」


 兵吾が首をひねる。源士が何を言っているのか、今もって分からない様子だ。もっとも、源士が口下手なせいでもあるが。


「いいか、兵吾。奴はそんな小細工しなくても、十分俺より強いんだ」


「あ、ああ? そりゃ、そうだけど……」


 まだ納得できないのか。源士は一つため息をつくと、決して理論的でない頭でどうにかまとめた理論を吐き出すことにした。


「さっき戦りあって分かった。真田は強い。少なくとも、同じマシンを使えば俺は間違いなく負ける」


「そんな言いにくいことをあっさりと……」


「事実だからな、仕方ない」


 複雑そうな顔をする兵吾に、源士はあっさりと笑いかける。こういう事は、さっさと認めてしまった方が気は楽なものだ。それに、余計なプライドは判断を鈍らせかねない。


「ま、そういう訳だ。下手な脅しなんてかけなくても、真田は俺を余裕で倒せる」


「はは、随分と買い被られとるんやな」


「だが、実際そうだろう?」


 隆聖は否定も肯定もせず、ただ貼り付けたような笑顔を顔に浮かべている。つまりは、そういうことなのだろう。


「せやけど、腹に落ちんことはまだあるで。言うたやろ? 僕は実績が欲しいんやって。僕が圧倒的な勝利を収めれば、それが僕の評価につながる。そうは思わんの?」


 なるほど、その理論も分からなくはない。いつもの源士だったら言いくるめられたかもしれないが、生憎と今日はあれこれと危険に晒された所為か、妙に冴えている。


「もしも俺があんたよりキャリアも実力もあるランカーだったら、こんな脅しも通用したかもな。ところが、俺は昨日今日ライセンスを取ったばかりのにわか者だ。圧勝しても新人がヘボだったと思われるだけだろう……もしくは、八百長で良い勝負を演出して、アンタが勝ったとしたら? それでも、俺の評価が上がるだけだ。ブラストライダーとしては中堅のアンタと接戦が出来るんだからな。むしろ素人と競る分、アンタの実力が心配される」


「そうか……どちらに転んでも、真田に旨味はないんだ」


「ああ、だから奴がこの脅しでメリットを得るならただ一つ、ここで俺たちを排除するしかないはずだ。そうすれば、真田は労せずに勝ち星を手に入れて、おまけにマシンの無駄な消耗も防げるからな……それに、一度俺と勝負したアンタなら分かるだろう? 俺がそんな脅しに従うタマじゃない、って」


 さてどうか、核心は突いていると思うが。源士も自信は持っているが、あくまで推論である。実際、これだけ断定をされても飄々と源士の言葉に耳を傾ける隆聖を見ると、さすがに不安にはなった。


「くく、ふふふ」


 隆聖が忍び笑いを漏らす。あざ笑っている、という風ではなさそうだ。むしろ、歓喜の気色さえ見える。


「ええな、少年。その予想はおもろいで」


 どうやら、認められたらしい。こんな挑発のような激昂されて、今通報されたらどうしようかと気を揉んでいたが、源士は内心、胸を撫で下ろした。


「そいつは、お褒めに預かりどうも」


「ただ……一個だけ聞いてもええかな?」


 隆聖は人差し指を立てて言った。まるで教師が問題を問うように。


「僕は確かに、君との勝負を望んだ。だから、チームが不利益を被ると知っていても君を逃がそうとしてる。さあ、何でやと思う」


「なんだ、そんなことか」


 兵吾もその理由に得心がいかないようで、傍らで不安そうな視線をぶつけて来る。しかし、そんなものは得てして簡単だ。まして、一度でも槍を交えた相手なら。


 これだけは確信を持てる。そして、源士は告げた。


「俺とあんたが、ブラストライダーだからだ」


 あまりにも単純で、しかし、これ以上ないという答えである。


 それは、ライダーとしてのプライド。機馬を駆り、並み居る強敵を討ち果たすはライダーの矜持である。目指すのは最強の二文字のみ。であるならば、何故せっかくの敵に枷などを嵌めて戦う理由があるだろう。


 ――だから、ないのだ。脅す理由などは。


「はっ……ライダーの矜持、か」


 隆聖は遠くを見つめ、どこか懐かしむように呟いた。その内に何かを思い描いているのだろう。それを推し量る術はないが。


 それから、少しの時間を経た。お互いに何かを言葉をかけるわけでもない。ただただ、無為とも思えるような時間。五分か、十分か、ともかくにらみ合ったまま、対峙していた。ほとんど、意地の張り合いである。


 が、先に折れたのは隆聖だった。


「ま、ええやろ」


 隆聖がクスリと笑う。緊張の糸か、わずかだが緩んだような気がした。


「俺たちを逃がす、その気は変わらないんだろう?」


「はっは、僕の気が変わらんうちに、尻尾巻いて逃げぇ」


 すると、タイミングを計ったかのように、裏門を抜けて海野恭子が現れた。彼女の体格に似つかわしくない大型バイクを曳いている。源士たちが乗ってきたものだ。


 恭子はと言えば、ああ、こちらはひどい顔だ。まるで凶悪犯でも見る視線が、射る様に源士へと突き刺さった。とはいえ、彼女にとっては立派な凶悪犯だろう、自分は。


「すまんな、キョーコちゃん。ちょいとばかし、堪えてくれや」


「……べつに、他ならぬリューセーさんの頼みだから聞きますけど」


 そうは言っても、彼女はまったく納得しているようには見えない。頬を一杯に膨らませて、見るからに不満たらたらだ。源士でさえ、すぐにでも刺されるのではないかと思う程の敵意をむき出しにしてくる。


 清々しい程に嫌われたなと、いっそ笑いたくなる――と、恭子が忌々しげに源士を睨み、何かを投げつけてきた。ヘルメットである。


「今日の事は、絶対に許しません。リューセーさんがあなたを叩き潰します」


「ああ、楽しみにしている……悪かったな、恭子さん」


「……知りません」


 ぷいと顔を逸らされた。年上の女性ではあるが、妙な可愛げのある仕草である。源士は思わず苦笑する。


「さあ、帰るぞ兵吾」


「あ、ああ……くそ、どっと疲れたぜ……」


 安堵からか、ふらふらとした足取りの兵吾を引き連れて、源士はバイクに跨った。スターターボタンを押しこむと、何事も無くマシンは起動した。最初から疑ってもいなかったが、小細工の類は無いようだ。


「試合は……来週か。どうや、勝ち筋は見つかったか?」


 背後で、隆聖が問いかけた。少々意地の悪そうな言い様を、しかし、源士は軽く受け流す。


 勝ち筋。決して、可能性はゼロではない。


「どうかな。俺はただ――」


 ヘルメットをかぶる。くぐもった声で、源士は答えた。


「アンタを貫くだけさ」


 捨て台詞の様にきこえただろうか。だが、結果はじきに分かることだ。そう思い直し、源士がアクセルを回そうとした、その時――


「待った、少年」


 隆聖の声。しかし、先ほどまでの飄々としたものではない。どこか、上ずった声。


 源士はブレーキを握り締めた。


「……なんだ、今更逃がすのが怖くなったか?」


「いや――」


 振り返る源士。バイザー越しの視界に、隆聖の顔が写る。


 少し、意外だった。あの隆聖が、取り乱したように驚いていたからだ。大きく見開かれた目も、わずかに震えた口もとも、まだ見たことのないものだった。


 隆聖はわずかに俯いた。何か言おうとしているのか。たびたび口を開くが、またすぐに閉ざす。それを、何度か繰り返した。


「な、なんだよ……急に呼び止めて、なんだってんだよ!」


 焦れて叫んだのは兵吾である。彼としては、今すぐにでもここを立ち去りたい気持ちなのだろう。


 そんな兵吾に急かされてか、あるいは覚悟を決めたのか、隆聖は一つ息を呑んで遂に口を開いた。


「少年――君は、《甲斐の虎》を知っとるか……?」

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