Chapter12
「ほんっとーに、申し訳ございませんでしたっ!」
源士の隣で美晴が頭を下げた。腰の角度はきっちりと七十五度。こんな美しい礼をは一流企業の謝罪会見でも拝んだことがない。いやはや、さすが腐ってもチーム総監督だ。
「ぼけっと突っ立ってないで、キミもやるの……!」
顔をわずかに傾けて、美晴の視線が源士を射抜いた。はらりと垂れた前髪の隙間から見えた彼女の目はすさまじい殺気を孕んでいて、源士は思わず気圧された。
「え、あー。もーしわけありませんでした」
「誠意がこもってない! はい、もう一度!」
「申し訳ありませんでした!」
こんなことをしてどうなるというのか。しかし美晴が本気の手前、源士も従わざるを得ない。
しかし、こんな不可思議な謝罪を受ける試験官の身にもなってみるべきだ。見るがいい。完全に困惑して、呆れとも怒りとも取れない不可思議な表情を浮かべている。
「いや、そんな謝られてもね。これも決まりだから」
「そこを何とか! このバカめにもう少しチャンスを与えてやってくれません?」
「バカってなんだ。バカって」
「しっ、バカは黙ってて……! 元はと言えばキミのせいでしょうが!」
結局、タイムを縮めるための解決策は見つからなかった。このまま試験に挑んでも結末が見ている、ということで、ひたすらサーキットを周回してみたが、これも効果なし。
そこで何とか練習のための時間稼ぎを、と必死の平謝りである。
「……あのねえ、君ら」
とてつもなく長い溜息の後、試験官の男は煩わしげに頭を掻きむしった。
彼が源士のテストを担当した試験官である。教習も兼ねているためラバースーツとプロテクタを着込んでいるが、『J(apan)B(last)A (ssociation)』の刺繍が施されたアポロキャップが、試験官たる協会職員であることを証明している。彼自信も若いころはプロライダーとして幅を利かせていたという話だが、しかし今は立派な試験官。小じわの目立つ目元には遊び気だとか茶目っ気は微塵も感じられない。
「こっちだって仕事でやっているんだから、そういう特別扱いはできんよ」
それはそうだ。すでに他の受験者はテストを終えた。内容はどうあれ、皆その結果に納得して去って行ったはずだ。
何度美晴と源士が平伏したところでそれを覆すわけにもいかないだろう。
「それに、これは君のためでもあるんだ。今ここで無理をしたとしても、本当の試合でも同じように走れるとは限らない。むしろ逆だ。本番では実力の半分も出せないと思った方が良い。君はそこでも無理をするのか? 事故と言うリスクを無視してまでも……君はまだ若いんだ。悪いことは言わんから、腕を磨いて出直しなさい」
試験官の男は優しく諭すように言った。きっと、正論なのだろう。個人の実力だけの話ではない。ブラストを正当なスポーツとして存続させるためも、最低限必要なルールでもあるのだ。
「……んな事ぁ、百も承知なのよ」
しみじみと、諦めざるを得んかと悩む源士の横で、美晴の声が響いた。女子とは思えぬ偉くドスの利いた声であった。
「無理? でしょうよ。リスク? そりゃあるでしょうよ。でもやるしかないのよ。アタシたちには時間がない」
美晴が唸るように声を絞り出す。かすかに震える肩が本気なのだと告げている。
彼女と組んで一週間そこそこ。まだ、時折分からない時がある。
美晴はブラストに対して常に本気だ。だがその本気は、ともすれば度を越す。道理だろうが正論だろうが、それが妨げとなるならば、美晴は平気で無視し、歪め、踏み倒す。
何故、美晴はこうも急ぐのか。
「どうしても、ダメ?」
「君もしつこいな。無理なものは無理だ」
「こう……袖の下的なものでひとつ」
「絶対に認めんぞ」
「わかった! 身体が目当てなんだ!」
「……私をバカにしているのかね?」
試験官のこめかみに青々とした血管が浮き立っていた。いつ弾けてもおかしくなさそうだ。
「そう、これだけ頼み込んでもダメか。じゃ、アレを出すしかないわね」
拝み倒していた美晴がゆらりと起き上がる。ニタリと笑う口を歪ませ、笑っているように見えるがその目は完全に座っている。どう考えても、こいつは良からぬことを考えている前兆だ。
止めようか否か、逡巡する源士。しかし一度決めたら光の速さで行動に移す美晴には、そんな一瞬の戸惑いですべてを置き去りにしていくのである。
「カモン! 駒井君!」
天高く伸ばした指をぱちんと、鳴らす美晴。まるで巨大ロボでも呼び出すような仕草である。
しかして、一陣の風が吹いた。
「はっ、ここに」
「アンタどこから湧いて出た?」
「愚問だ。お嬢様のいるところ、私は何処にでも現れる」
駒井雅丈がいつの間にか美晴の背後に控えていた。本人は有能な執事のつもりだろうが、ともすればストーカーとも取られかねない発言である。頭は切れるのだろうが、ある意味危険な男だ。
「駒井君、例のモノよろしく」
「どうぞ、お嬢様」
手をひらひらとさせる美晴に雅丈が何かを差し出した。大学ノートサイズの板切れ、タブレットだ。背面にマル秘と書かれた不穏感を漂わせる端末に、美晴は食い入るように目を通す。
「三好長利、四三歳。三月十日生まれのA型。へえ、離婚歴あり」
試験官の顔色が瞬く間に曇った。
知らぬ名前だが、ふと見た試験官の胸には三好と名札があった。ということは、このプロフィールは彼のものだろうか。
「な、何故それを知っている!」
この狼狽え様。どうやら本当らしい。
「さて、何故でしょう? へぇ、ふぅん……なるほどね」
「ああ、またお前はそんな顔を」
「これがお嬢様のキメ顔だ。気にするな」
いつものあくどい笑みを浮かべる美晴。毎度のことながら、せっかくの美少女具合を台無しにする奴である。
「あなた、元奥さんに引き取られた一人娘がいるのね」
ヤのつく職業の人々も感心しそうな美晴の相貌が、試験官を貫いた。
「ひっ……な、何を」
「月に一度しか会えない娘さんを溺愛してるんですって? 十歳と言えば可愛い盛り……ああ、クマのぬいぐるみが大好きなのね……プレゼントすれば、私も仲良くなれるかな……?」
「私を脅迫しているのかっ!」
「脅迫なんてとんでもない。アタシはただ、すこーしアナタと仲良くなりたいだけですよ?そう、すこーし……ね」
ああ、この女やりやがった。具体的に何をするとは明言しないが、完全に脅迫の常套句である。
「駒井さん、アンタ一体、美晴に何を渡したんだ」
「大したものじゃない。ネットサーフィンが趣味でな。あれはお嬢様に頼まれていた調べものだ」
ネットサーフィン……と呼ぶには、あまりにプライベートすぎる情報の数々である。一体どこから入手した情報やら。眼鏡のブリッジをくいっと持ち上げる雅丈も、やることは大概悪人のそれだ。
しかし、さすがにこれはやり過ぎだ。完全に怯えきった試験官を見るのは忍びないし、何より法に反する。
「やめとけ美晴。いい加減シャレにならないぞ」
と、美晴の頭を軽く小突いた。さすがに傷みは感じないだろうが、当の美晴は極めて不服そうに源士を見た。
「キミね。アタシ達の今の立場、ホントに分かってる?」
「分かってるから尚更やめろ。こんなことして後で通報されたらどうする」
「それは……そうだけど」
ぶすっと口を尖らせる美晴をさがらせて、源士は試験官を見据えた。
「済まない先生、さっきコイツが言ったことは戯言だから忘れてくれ」
「いや、しかし……うむ」
恐れ慄く試験官はびくりと肩を震わせたが、すぐに咳払いで取り繕ってみせた。もはや謝罪も手遅れかと思ったが、そうでもないらしい。もっとも、源士の陰にはタブレットをチラつかせながら顔を覗かせている美晴がいる。さすがにまだ、何をされるか分からんと言う疑念は残っているのだろうが。
ともあれ、説得だけはさせてもらわねばなるまい。
「アンタの言う通りなんだろうな。俺はまだ未熟者で、きっと戦う資格もないんだろう。だが俺も、はいそうですかと引き下がるわけにはいかない」
そう、もし今日の試験に失敗すれば、今度の試験は三か月後。だがプロリーグの開幕はもう数週間先まで迫っているのだ。ここで機会を逃せば、今シーズンを棒に振ることになる。故に、源士に今度はないのだ。
問題は、その熱意が伝わるかどうかだ。
「ダメだった奴は皆そう言って頼み込むがね、上手くいった例など私は知らんし、上手くいくとも思っとらん。君、今回は諦めることだ。次がある。」
試験官は、しかし首を縦には振らない。
だから、こちらも相応のリスクを背負うしかないのだ。源士は意を決した。
「いや、今度はいらない」
その場にいる誰もが怪訝な顔をした。試験官も、雅丈も。美晴さえも。
「今日、周回試験まであと少し時間をくれ。それで合格できなければ、二度と試験を受けないと誓う」
源士が告げた後、数十秒。周囲に沈黙が漂った。口をあんぐりと開けて、源士をまじまじ見つめる美晴。明らかに思考停止している。
「……あ」
「あ?」
「アホかああああああああ!」
ようやく再起動した美晴は、怒髪天を衝く勢いで叫びをあげた。源士に肩に手をやると、あらん限りの力で彼を揺さぶり始めた。
雅丈などは絶句と言った風に頭を振っている。
「誓うって何よ。勝手に誓うなバカっ! それに『あと少し時間くれ』って、それで合格できる自信あるわけ?!」
「そんなものはない」
「ないのに誓うなぁ、バカ源士ぃ!」
「馬鹿に喋る時間を与えたのが間違いなのですよ、お嬢様」
世界が揺れる中で、美晴の声が木霊する。
さすがに考えがなさすぎたか。しかし、これくらいのリスクがなければ向こうも譲歩はすまい。ともかく今は、少しでも対策を講じる時間を稼ぐことである。
さて、この無謀が吉と出るか凶と出るか。とりあえず、三半規管が完全破壊される前に返答が欲しいが。
試験官は憮然とした表情で、源士が振り回される様を眺めている。時折ちらちらと美晴に目をやるあたり、まだ先ほどの脅迫を気にしているのだろうが、やがて観念したようにため息を吐いた。
「やれやれ、若さというのは、ここまで人を向う見ずにするものかね」
「お?」
「げふぇ」
美晴が急制動をかけた。慣性の法則に従う源士の首は、コキリとあらぬ方向へ向かう。痛みはない。が、思わず妙なうめき声がこぼれ出た。
「いいかね、二時間だ。二時間後、君の試験を実施する。それまでは好きにするがよろしい」
通った。危うく頸椎まで生贄に捧げそうになったが、ともかく首の皮一枚つながった。
しかし、二時間とはずいぶん具体的な数字が出たものだ。
源士の怪訝な表情を読み取ったのか、試験官はコースの方向を向いて視線を促した。
今もサーキットでは数台のマシンが周回を重ねている。乾いた高音を響かせ、騎手を戴く鋼鉄の塊がすっ飛んで行く。目で追うのもやっとの鮮やかな残像は、まるで風の具現だ。
「良い音をさせてるな」
源士は感嘆した。純粋なメカ屋でなくとも、ライダーとしてマシンに携わってきた源士は直感的に理解した。それらは高度な調整が為されている、と。
「ああ……あれはプロよ」
美晴がいささか不快そうに呟いた。先ほどまで万力のようなパワーで源士の肩を掴んでいた手も、力なく源士の肩から滑り落ちた。
確かに鮮やかなカラーリングは画一的な教習車とは違う。キッチリと仕上がっていると思しきセッティングにも頷ける。
「君らがグダグダとしているせいで、もう次の団体が練習を始めてしまった。君を見るのは、向こうさんが走り終えてからだ」
「それが二時間後、ってことか」
「絶対、迷惑をかけないように。ま、たかが二時間で何ができるとも思えんがね」
試験官は帽子を脱ぐと、事務所の方へと去って行った。肩を落として力なく歩く後ろ姿は、悲しいほど疲れて見えた。その元凶は紛れもなく源士本人ではあるのだが。
「何か、悪い事したかな」
「そりゃ十中八九、へたっぴなキミが悪い……けど、だからって諦めて帰るのは嫌でしょ?」
「それだけは嫌だ」
「じゃあ、やっぱりやるしかない……んだけどねえ。ほんっと、なんであんな条件にするかなぁ……?」
美晴は未だに納得がいかないようである。恨めしそうに、ジト目で源士を凝視している。
だがあの時はああでも言うほか、美味い方法が見当たらなかったのだ。あんな条件でも、まだ猶予がもらえたのは奇跡である。熱意を買ってもらえたのならまだいいが、アレはどちらかと言えば見捨てられたようなものだ。
源士は改めてコースを見やった。
同じカラーのマシンとプロテクタが、先ほどから何度も目の前を通り過ぎていく。風のようにタイムを積み重ねる。
端的に、速い。あれがプロだというのなら、源士はまだ遠く及ばないのが現実だ。
源士は喰らいついてでも、あの連中と同等のタイムを稼ぐ必要がある。
だが時間はない。泣いても笑っても、たったの二時間だ。
闇雲に周回数を重ねても効果は薄い。だからとて、ノロノロ走っているばかりでは効果が薄い。ぼけっと空を見上げるのはもっと無意味だ。
考えて走るのだ。コーナーのライン取り、進入速度から呼吸のリズムまで。あらゆる挙動を抽出し、吟味し、試験する。その取捨選択の末に効果が現れるというものだ。源士が長年かけて『デッドリー』の研鑽を積んだように。
だが、間に合うだろうか。この短時間に――
その時、また一台のマシンが源士たちの前を通り過ぎた。そのライダーのフォームを眺めていた源士は、思わず感心した。
綺麗なフォームだ。動きに無駄がなくなめらか。ぶれることなく、正確にクリッピングポイントを突いていき、そのラインが乱れることは決してない「。あれなら、さぞ良いタイムが出るのだろう。
果たして、その視線に気づいたのだろうか。走りすぎるライダーがこちらに顔を向けた気がした。
オレンジ色のスーツ。そして、背中と肩に縫い付けられた黄色い六つ星のエムブレム。それを誇示するように、あるいは未だ練習生の源士に「早く追い付いてこい」と促すように。
あのライダーは果たしてどれだけの月日を重ねて、あのライディングを会得しただろう。源士は云わば後発者だ。あの先駆者たちを追いかけ、追い越さなければいけない。
「ん……? 追いかける……ああ、そうか」
源士の頭に閃きが走った。
そうだ、間に合わないなら、追いかければいい。やってみる価値はある。
「美晴、マシンの準備を頼む。超特急で、だ」
横でこの世の終わりに立ち会うように肩を落とす美晴に向かって、源士は言った。
「はあ? だってキミ、練習時間はとっくに終わって……まさか?」
カンの良い美晴は大体察したらしい。先ほどまでの落胆した表情が、あっという間に爛々と瞳を輝かせた少女のそれに変わっていった。
そう、美晴には気づいてもらわねば困る。なにしろ源士はこれから、美晴の悪事もかくやという『悪だくみ』を実行に移そうというのだから。
「ふふん、君もだいぶ分かってきたんじゃない?」
美晴は楽し気にそう言うと、まだ首をかしげている雅丈を伴って走っていった。去り際、源士の肩を軽く叩いて。
「ぬかせよ。俺だってこんな違反はしたくないんだ」
美晴の残していった軽い衝撃のあとを手で摩りながら、源士は一人ごちる。
だが、言葉とは裏腹に、源士の中では産声を上げたばかりの妙な高揚感が、みるみる成長していくのがわかった。
早く走りたくて仕方がない。
疾く走りたくて仕方がない。
そう、あのライダーを追いかけて、そのスキルを盗み獲る。
源士は自分の心臓に急かされるようにして、再びコースへと向かった。
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