Chapter5

「で、今日はもう絡んでこないんじゃなかったのか」


「部活の見学に来てるだけですぅー。キミが目当てじゃありまっせーん」


 放課後である。若者たちは青春を謳歌すべく、街に繰り出したり勉学に励んだり。しかして、源士は例によってブラスト部の定例活動である。


 もっとも、今日は少々雰囲気が違う。いつもなら、各々マシンのセットアップや体力トレーニングに余念がなく、互いがライバル同士の個人戦競技故か、殺伐とした空気が漂っているのだが、どうも様子がおかしい。


 空気が軽いというか、皆一様にソワソワとしている。サーキットで走り込みをしている連中など、終始こちらに視線を傾けっぱなしだ。明らかに、練習に身が入っていない。


 理由は明白、そこでもの珍しそうにあたりを見回している少女が元凶だ。


「女っ気の少ない部活だからな。しゃあない」


「割とストイックな連中の集まりだと思っていたんだが」


「ブラストバカ一代ってか。今時いねえよそんな奴」


 苦笑交じりにスパナで肩を叩き、源士の背後からやってきたのは小山田兵吾である。その顔は妙にやつれていて、愛用のツナギもヨレヨレだ。


「お前も絡まれたのか」


「ん、まあな。おかげで、まだ完全に仕上がってねえ」


 昼間の出来事があったから、美晴が整備スペースにいた兵吾のところにも顔を出しているのは知っている。あのマシンガントークで捲し立てられた日には、源士に比べれば社交性に富んだ兵吾でも、すっかり彼女のペースに乗せられている様は想像に難くない。そして、その悪い想像はほとんど当たっていたというわけだ。


 ガレージの隅で鎮座する源士のマシンは、いまだ修理のために外装を取り外されたまま、武骨なカーボンフレームを露わにしている。マシンを囲むように並べられた工具と補修部品が、その進捗を物語っているようだ。


「悪いな、そういう訳だから今日は走れそうにねえ。それに――」


「分かってる。どうせ昨日と同じようにしか走れん」


 マシンの整備が完了したところで、スペックは昨日と少しも変わらない。それでは、何度走ろうと結果も変わらない。


 源士の脳裏には、昨日の練習試合の光景が常にちらついていた。何度も走りこんでフォームの調整を重ねてきたはずだ。満足とは行かないまでもマシンの性能と彼が目指す特異なフォームの、そのギリギリの妥協点をついた、ほとんど目一杯のポテンシャルを使った走りだったと思っている。


 それでも奴に勝てなかったのでは、今はまだマシンに跨る気にはなれない。というのが、源士の正直な気持ちだった。


「なあ源士。この際だ、やっぱリミッタを外しちまったほうがよくないか? 他に手があるってんなら話は別だが、生憎と俺はそこまで出来たメカニックじゃないらしい」


 兵吾も現状を理解しているから、気にかけてそんな提案をしてくれる。口をへの字に曲げて眉をひそめたその表情は、マシンの性能不足を嘆くものか、あるいは源士の弱気にあてられたのか。


「お前は良くやってるよ」


 それを測り兼ねたから、こうしても愚にもつかない慰めのような言葉を吐き出すしかない源士だった。


「なーに男二人で暗い顔してんの。悩んでるんだったらとっとウチに来なさい」


 と、いきなり割って入ってくる。美晴だ。


「……おたく、そういうとこブレないね。雰囲気って漢字読める?」


「へへへ、よせやい照れるぜ」


「いや褒めてねえ」


 何故か頭をかきながらはにかむ美晴に、漫才師よろしく突っ込みを入れる兵吾であった。


 それにしても、源士たちの平穏を乱すのはこの少女である。ただのミーハーなブラストオタクだと断じればそれで済む話ではある。実際、二人もそういうスタンスであしらってきた。


 そうすれば、いずれ彼女も飽きて近寄ってこなくなるだろう。と鷹を括っていたが、彼女は一向に諦める素振りを見せない。そればかりか食って掛かるようにアプローチを強めてくる一方だ。


 どういう訳か分からないが、甲斐美晴は急いている。と言う風に見えた。


 あの能天気な態度が演技や冗談とはまさか思うまいが、どこか無理をしているように思えなくもない。強引にテンションを上げているように見えて、それは試合を前に自らを鼓舞するライダーの姿と重なった。あくまで源士の所見ではあるが。


『やあキミでしょ? 噂の転校生っていうのは』


『何々? マネージャー志望? 大歓迎だぜ!』


『君ブラストに興味あるだろ。僕の試合見てってよ』


「え~どうしよっかな~、迷っちゃうな~」


 前言を撤回しよう。こいつは筋金入りのマイペースだ。しかも極めて暴走しやすい類の。


 いつの間にか美晴の周りには取り巻きが発生していた。興味を引かれてフラフラと寄ってきた部員どもだ。先ほども兵吾が述べたとおり、ブラストは男性の競技人口率が極端に偏っている故、このブラスト部も女子はいない。


 部員連中はブラストに青春を賭けているような奴らばかりだから、色恋沙汰には興味がないなどと言って憚らないストイック気取りも多い(あるいは女性経験が少ないために触れ合う勇気もないチキン野郎共とも)。


 が、なんだかんだでこういう部員も少しはいるということか。もっとも、美晴のような安いエサに釣られるのは、さすがの男子高生といったところだが。


「困っちゃうな~、ちらっ」


「そこ。ドヤ顔で俺を見るな」


「そう、それだよ。甲斐さん、なんで山県なんか追っかけてるの」


 取り巻きの一人が思い出したように声を上げた。彼は源士のクラスメイトだった。今朝からの顛末を知っているのだ。


「え、なになに。山県に気があるわけ」


「止めとけって。こいつ、ウチで最弱だぜ?」


 相変わらずひどい言われようだが、あながち間違ってもいないので反論できない。今のところ、公式戦に出た経験のないのは源士くらいのものだし、校内演習の成績も彼がぶっちぎりのワーストだったりする。


 そういう訳で立場が弱いうえに、そもそも部員仲間に文句をつける気もない源士。それを知ってか知らずか、彼らの弄りもヒートアップしていく。


「変なフォームだしなー」


「読みやすいんだよ。簡単に避けられるぜ」


「おまけに無口」


「仏頂面」


「むっつりスケベ」


「おいこら、途中から方向かわってんぞ」


「くっ、くくく……ははははは」


 やおら、美晴が腹を抱えて笑い出した。皆、美晴の奇矯な振る舞いに顔を見合わせる。


 ひとしきり甲高い声を響かせた後、まだ込み上げてくるらしい笑いを堪えながら美晴が言う。


「何で山県君を狙ってるかって? そんなの、面白いからに決まってるじゃない」


「面白いって何がだ? 三白眼か?」


「寝癖頭かもしれん」


「いや、多分トーストに納豆乗っけて食うところだ。間違いねえ」


「俺、そろそろ泣いてもいいか?」


「その話、僕も詳しくお聞かせ願いたいですね」


 それまで美晴にたかっていた連中とは違う男の声がした。男にしては少々高い声。紳士のような敬語も板についている。


 が、源士にとってはあまり関わり合いになりたくない。そういう男の声だった。


 その場にいる全員が声の聞こえる方へ視線を向けると、パドックの方から歩いてくるライダースーツに身を包んだ男の姿があった。


 細身の長身。およそアスリートとは思えない、腰まで伸びた長髪。貴公子然とした美男子ではあるが、どこか人を見下したような冷ややかな目つき。


 それに、眩しいまでに軽薄な純白のプロテクタ。


 こんなふざけた成りをした選手は、クラブの中を見回しても一人しかいない。


「やあ、長尾景樹と申します。よろしく、見学のお嬢さん」


 美晴の前に立った男、長尾景樹はにこやかな笑みと共に手を差し出した。口元からは、白く輝く歯が見え隠れしている。


 長尾景樹。源士と同じ二年生ではあるが、ことブラストに関しては実力、マシン、そして地位のいずれも、大きく水を開けられている。


 かたや、両手で数えるほどしか公式戦の経験のない下手くそ。かたや、勝率六割強、全国大会常連の実力者。


 かたや、少ない予算で一馬力を絞り出すのも苦労しているオンボロマシン。かたや、潤沢な資金とパーツで仕上げられた最新型。


 かたや、のけ者扱いされている厄介者と、部を引っ張るエースライダー。


 立場としてはほぼ対極に位置する相手である。


 そして、源士が昨日の練習で惨敗を喫した敵だ。


 ブラストの強豪校たるこの芦原学園でトップを張るだけあって、その実力は決して悪くない。


 美晴は、ライダーを探していた。しかも、昨日の情けない勝負も見ていたという。それならば、実績も何もない源士などよりは、腕も折り紙つきの景樹を選びそうなものだが。


「は、はあ。よろしく……」


 そんな源士の疑問をよそに美晴はと言えば、その表情は引き攣らせていた。


 ああ、なるほどな。などと源士は妙に納得した。少々男勝りな気のあるこの少女は、どこか本能的にこの男の性格を探知しているのではないかと。つまり――


「それにしても感激だな。君のような綺麗な女性が僕の妙技を披露できるなんて。ところで、この後はお暇ですか? お嬢さん」


 つまりは、『たらし』なのである。


 このサーキットにもしばしば女子生徒が見物に来ることがある。そのほとんどは、美晴のそれと違って、ブラストの知識など何一つない少女たち。つまるところ、アイドルのライブ会場にやってくる追っかけと大差ない少女たちだ。そういう少女たちがここに集って黄色い声援を浴びせかけるときは、たいていこの男に対してだと決まっている。


 果てしなくキザったらしい、ナルシズムの塊みたいな男ではあるが、実際美形であるしバイクに乗ってしまえば試合に性格は関係ない。同業者および男性の評価はともかく、たしかに女子からは人気のあるライダーに違いなかった。


 ところが、この奇特な少女に関してだけは、少々違うようで。


「は、ははは……有難いけど、今日は遠慮するわ。別な用事があるから」


 誰が見てもそれと分かる愛想笑いを顔面に引っ付けた美晴は、明らかな社交辞令で頭を下げた。


「用事? これは異なことを。まさか僕からの誘いよりも大事なことが……ああ、まさか――」


 景樹は少々戸惑ったようにおどけて見せたが、すぐに皮肉らしく口元を吊り上げて、源士へと視線を移した。


「まさか、そこの面白い顔面をした男に用がある。とは言いませんね?」


「っ! てめえっ!」


「止せ兵吾」


 真っ先に反応したのは血の気の多い兵吾だった。今にも右手を握り締めて飛び出していきそうな勢いの兵吾を、源士は腕を突き出して止める。


 先ほどの例もあるが、憎まれ口とか蔑みは馴れている。この男からそれらの言葉を浴びせかけるのはいつものことだし、付き合っていては時間がいくらあっても足りない。


 と言うわけで、例によって受け流すのが吉と判断した。


「生憎だけどな、長尾。この女とは今日初めて会ったし、縁もゆかりもない」


「あ、コラキミっ!」


 美晴から『アタシを売りやがったな』とでも言いたげな恨めしい目で見つめられた。


 悪いな甲斐。しかし自分も兵吾も、今はマシンの整備に時間を費やさねばいけないのだ。体よく生贄になっていただこう。


「ふっ、だろうね。君程度の腕前で、彼女のような愛らしい女性の眼鏡に適うとは到底思えない」


 当然だとと言う風に肩を竦ませて笑う景樹。


「なら、今日彼女を食事に誘ったとして、君は一向に構わないのだろう?」


「や、だから用事があるって!」


「ああ構わん構わん。甲斐も見学ならそいつに案内してもらったほうがいいだろ。行くぞ兵吾」


「で、でもよ源士……」


「いいから。どうせ時間の無駄だ」


「ちょっ、山県くん……このっ、源士ぃ!」


 未だに納得していないらしい兵吾の肩を抱き、その場を後にする。背後からは美晴の恨み節が聞こえてくるが無視である。


「だそうです、お嬢さん。さ、あんな男のことは忘れてさっさと行きましょう」


「だから、私は……!」


「なにせ、恐ろしく下手な男でね。あれではいずれ、どこかで勝手に転倒して死にますよ。そんな男に目をかけても―――」


 たかが知れている。


 そういう風にセリフは続いたのだろう。肩越しに聞こえていた景樹のセリフを脳裏で想像しながら、それでも無視して源士は歩き去ろうとする。


 なに、大した罵倒ではない。どうせ邪道なライディングだ。誰にも評価されるはずがない。自分だけが納得していけば、それでいい。


 そんな自意識を張り倒すように、乾いた破裂音が響き渡った。


 思わず振り返る源士。


 その場にいる誰もが目を見開き、信じられないといった顔で美晴を見ていた。周囲の、作業に没頭していた者でさえ、である。


 平手をかざした美晴が、刃のごとく鋭い剣幕で景樹を睨んでいた。彼女の手がかすかに赤い。何をしたのか、などと聞くまでもない。


 景樹の頬に赤い手形がしっかりと張り付いていた。


「さっきの言葉、取り消しなさい」


 冷たく静かに、しかし凄味の効いた声で景樹に美晴は言い放った。


 赤くはれた頬に手をやる景樹は、一体何が起こったのか分からないといったような呆けた顔で少女を見下ろしている。


「聞こえなかった? さっきの悪口を取り消せと言ったの。このボンクラ」


 より強く、さらにはっきりとした語調。


 おそらく今度は、放心状態の景樹にも届いたことだろう。


「源士、あれはまずい」


「わかってる……手間かけさせやがって」


 少しばかり美晴たちの位置から離れすぎた。間に合うだろうか、と半信半疑だったがこのままにしておく訳に行くまい。止むを得ず源士は走り出す。


「貴様ぁっ! よくも僕の顔をぉ!」


 案の定、化けの皮が剥がれた。晴れ上がった頬さえ覆い隠すように、彼の顔は真っ赤に染まる。先ほどまでのすかした態度はなりを潜め、野獣のごとく犬歯をむき出しにする景樹。激情に任せ振り上げられる握り拳。


 美晴は、逃げない。きっと瞳を見開いて、じっと景樹を睨み続ける。


 さっさと逃げればいいものを、どうせ自分は何も間違ってないとでも思っているのだろう。


 確かに美晴の言い分は間違ってはいない。が、理性の線がぷっつり切れている今の景樹を前にして、その頑固な性分がもとで怪我されたのではたまったものではない。


「くそ、間に合えよ」


 走りながら、源士が呻く。右手を伸ばす。


 怒りで震える景樹の握り拳が、今、振り落とされて――


 パシン、と子気味良い破裂音。少々鋭い痛みが源士の掌に走ったが、あらかじめ予期していれば大したことではない。


 ともあれ、美晴に危害が及ばなかったのだ。美晴めがけて放たれた拳は、ギリギリのタイミング割り込んだ源士の右掌に収まった。


「源士……」


 意外そうに呟く美晴の声を肩越しに聞きながら、源士は安堵の吐息を長く吐き出した。


「やめとけよ長尾。こんな詰まらんことで、問題起こしたくもないだろう」


「どけ、山県。この女は僕を愚弄した」


 どっちが先に挑発したんだ。と思わないでもないが、ここは無難に切り抜けるが吉である。源士は務めて冷静を装って言う。


「部外者だ。漏れればお前もただじゃ済まない」


 部内のいざこざならば、多少のもみ消しも聞くだろうが、相手がクラブと直接関係のない人間では、どこで暴露されるかも知れたものではない。


 しかして、長尾景樹はメンツを気にする男である。こうでも言っておけば、多少肝も冷えてマトモな思考回路に戻るだろう。


「……ちっ」


 源士の読みは当たっていた。舌打ちと言い、攻撃的なしかめ面と言い、粗野な振る舞いは変わらないが、何とか引き下がってくれそうだ。源士の右手を叩いた拳もどうにか納めた景樹は、その場を立ち去ろうとしていた。


―――が、源士の思惑を介さないものがただ一人いた。あろうことか、当事者である。


「あんたのライディングは面白くない」


「……なんだと?」


「ああもうこの女は……」


 美晴である。この誰もが聞こえる通った声で宣言したのだった。せっかく鎮まりかけた火にどっさりと油をぶちまけるような所業だ。だが、彼女は一切遠慮する気もないらしい。


 当然、美晴を背にして立ち去りかけていた景樹にもその声は届いていた。怒りに震える声。振り返る彼のこめかみには、しっかり青筋が浮かんでいる。その眼光も、背筋が凍るような殺意さえ生じているように見える。プライドの高い景樹のことだ。何をしでかすか分からない。


 ああもう、知らん。好きにしろ。そう言ってこの場から逃走を決めこめば、どれだけ気が楽か。しかし、そういう性分でもない源士は、やむなく美晴をかばうように景樹との間に割って入った。


 そんな源士の気配りを知ってか知らずか、なおも美晴の危険な主張は続く。


「ただ上手いだけのライダーなんてのは、掃いて捨てるほどいるって言ってるのよ。あんたくらいの腕前の奴は、世界じゃ大して珍しくもない」


「ほう、ではそこの『面白い』男が僕よりも強いと?」


「愚問ね。答えるまでもないわ」


「くくくっ……バカも休み休み言え。おい山県、言ってやれ。貴様、この僕と何戦やったことがある?」


 景樹が嗜虐的な笑みを浮かべて問いかける。


 入部から二年。部内での練習試合は何度か経て、その中にはランダムなマッチングと言え何度か景樹との試合もある。昨日の負け戦も、数戦のうちの一戦だった。


「……五回だ」


「そのなかで、勝った試合はいくつある?」


「一回も、ない」


「くくくくっ、はははははっ……そう、それが現実だ」


 白い長髪を揺らしながら景樹が笑う。自分の正しさを誇示するような、そして美晴と源士をあざ笑うような高笑いだ。


「貴様はこの男を買っているようだが、ここでは勝敗のみがすべてだ。わからないなら何度でも行ってやろう。山県源士のライディングは、負け犬のライディングだ」


 売り言葉に買い言葉。プライドを逆なでされた景樹の物言いは、完全に悪意をはらんだそれだ。


 源士は、自分が割合温厚な人間であると自負している。多少の罵りなら平然と受け流せるし、それで手を出すことも今まで一切なかった。


 何より、勝者は絶対であり敗者の言い訳に意味がない。少しの実績もない今の源士に言い返す資格はないし、ましてや怒りをぶつけるなどということもあり得ない。それが実力社会というものだ。


しかし。それでも。


 源士には握りしめた拳の震えを止めることがどうしてもできなかった。


 自分に実力が伴わないことは事実だから仕方ない。非難も嘲りも、甘んじて受け入れよう。


 だが、このライディングフォームはどうだ。


 源士が編み出したのではない。借物のスタイルだ。それを、自身の未熟さゆえにこき下ろされるのは、違う。自分の不甲斐なさが情けなくて、くやしさだけがつのる。


(堪えろよ山県源士。自分で言ったよな。コトを荒立てるのはまずいって)


だが源士とて、つまらない理由でここを追い出されるわけにはいかない。己の未熟さもライディングの本質も、走り込むことでしかその真価は見いだせない。


 だったら、ここは堪えなければ。


 その時、今にも景樹めがけてすっ飛んで行きそうな源士の右拳を、誰かが掴んだ。


「ボンクラの割には、まともなこと言うじゃない」


 美晴だ。彼女の細い指が、手が、源士の拳を宥めるように覆っていた。


「もう一度、こいつと勝負しなさい。それで、どっちが負け犬にふさわしいかはっきりするわ」


「……は?」


 この女、今さらっととんでもないことを言わなかったか?


 もう一度、勝負。


 振り向くと、腰に手をやって立つ美晴。その双眸は自信に満ち溢れていた。


 きっと、唖然としているであろう源士の顔に、少しだけ視線を移すと、いたずらを叱られた悪ガキのように舌を出して、片目を閉じた。こいつ、確信犯か。


 しかし、この不遜な男があっさりと受け入れるはずもなく。


「馬鹿らしいな、時間の無駄だ。一度ついた勝敗をまた付け直すなんて。第一――」


 余裕に溢れたしぐさで前髪をかきあげる景樹。口角を吊り上げた端正な顔は、笑顔と言うには随分と歪んで見えた。


「僕には何一つメリットがない」


「ま、それもそうね。いいわ、あんたが勝ったら何でも言うこと聞いてあげる。裸で校内一周でも何でも、好きなだけやってやるわ」


 またも美晴の爆弾発言がさく裂した。


 いつの間にか彼らを取り囲んでいた野次馬連中も湧き上がる。さすがは、女のおの字も見かけない環境で育った男連中。邪魔くさいこと、この上ない。


「馬鹿なこと言ってるんじゃない。おい長尾、真に受けるなよ。戯言だ」


 野次馬の歓声も相まって、


「くくくっ、もう遅い」


 嗜虐心を刺激されたらしい景樹の邪悪な笑みが、源士の忠告など無駄だと告げている。


 この男が何を考えているのかくらい、大体想像がつく。が、どうせ下卑た欲求だ。ここが公衆の面前でなければ、とっくにあの傲慢な面を蹴倒しているのに。


「女。さっき言ったこと、忘れるなよ」


 鼓膜に纏わりつくような声、後味の悪い余韻を残して、景樹はパドックへと戻っていった。


 一触即発の状況が、ひとまず終わりを告げる。あれほど群がっていた野次馬も潮が引くように散っていって、残されたのは源士に美晴、それに何処からか引っ張ってきた特大のモンキーレンチを構えた兵吾だけになった。


「……さて、大変なことになったわ」


「お前が言うな」


 サーキットでは練習走行の第一陣がモーターを回した始めたらしく、まだ温まりきっていない、抜けた駆動音をまき散らしている。


 が、源士のマシンはといえば、未だガレージの隅で全分解された哀れな姿を晒しているのだった。

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