Chapter9
「……ぶはぁ!」
今までせき止めていた息を吐き出す。同時に全身の毛穴が開いて、冷や汗が噴出した。
スーツの中がびっしょりと濡れている。失禁したかと思うほどだ。
こういう感覚は、久しく味わっていなかった気がする。
それも、ぶっつけ本番でやった馴れない技のせいである。
見様見真似の『モビーディック』は、試合はおろか練習でも試したことはない。ただ、誰かがどこかでやっていたのを、おぼろげに思い出して使ってみただけだ。
結果は散々、馴れない姿勢のフォームはボロボロだし、槍の穂先はブレまくり。それでも、何とか当てられたのは、ほとんど奇跡だと言っていい。
もう一度やれと言われて、今度も当てる自信が源士にない。
それでも、だ。何はともあれ、一本取った。
例え一〇〇回に一回の偶然だとしても、この一本は大きな意味を持つ勝利だと源士は思った。
スタートラインを表す白のシグナルが光る。源士はアクセルを緩め、マシンの静止に入った。
徐々にスピードで集約していた視界が広くなっていくのがよくわかる。一本目に勝ちを挙げて、心に余裕ができたからだろうか。案外こういう時は、コース外のあらゆるものが目に入ってくるものである。
今、ここは一本目に長尾景樹がスタートした側。よって、こちら側のピットは長尾陣営と言うわけだ。
スタッフ連中の愕然とした顔がここからでも良く見える。
信じられない、という風な顔で一言も喋らず、その様子はさながらお通夜だ。
誰も、この山県源士が先制するとは露程も思わなかったということか。まさに奇襲成功。そう思うと、中々に気分が良い。
『……なーんて思ってるんじゃないでしょうね』
イヤホンから美晴の声が突き刺さった。じっとりとした彼女の蔑む視線が目に浮かぶようだ。
「ビビるから一方的に無線を寄越すな。そして俺の心を読むのはやめろ」
『うぇっ、マジで思ってたの? 引くわー……って、まあいいわ。とりあえず一本、脳筋の割にはない頭絞って良く考えたんじゃない?』
「脳筋言うな……褒めてるのか?」
『だから調子乗んな。 分かってるんでしょうね……先に二本取られたら負けなのよ?』
そう、その通りだ。あくまで、二本先取の一本目。これで源士が増長して次の二戦を落とそうものなら、その瞬間に永久追放が確定する。美晴や兵吾の努力も水泡に帰す。
それに、自分自身のブラスト生命も。
「そうだな、言われるまでもない」
『ふうん、聞き分けいいじゃん。でも作戦の方は』
「ん、どうせ脳筋だからな」
「ひがむなひがむな……そうね。じゃ、次はちょっと頭脳プレーと行きますか」
よく聞きなさい、と美晴が説明をはじめる。まるで悪ガキが何かいたずらを披露するときのようなしゃべりである。
さて、饒舌に語る美晴の作戦を最後まで聞き終えた源士の感想。それは一語に尽きた。
「そこまでやるか?」
***
「ちっ、そうさ。あんなマグレがそう何度もあってたまるか」
景樹はそう思うことにして、なんとか精神の平衡を保とうと試みた。
そう、カウンターが狙って出すものだとして、こちらが注意さえ払っていれば対処はたやすい。モビーディックなど2度も食らうことはないのだ。
すでにマシンは巡航速度を超えて戦速に達しつつある。マッチングラインまでもあと僅かといったところだ。
勝負は二点先取。次、もう一本取られれば、その瞬間に景樹の敗北が決定する。それは避けなければならない。
元来、気位が高い景樹である。自分よりはるかに劣ると思われた男に一本取られただけでも我慢ならないのだ。断じて、もう一本など取らせるものか。
彼方に敵の、山県源士の姿が見えた。ランスを引き抜いて刺突の構えをとる。
何、驚きはしたが、奴の手の内は読めた。次は取る――
だが、この予感はなんだ。
景樹は迫りくる山県源士の背後に、ゆらゆらと揺れる幻影を見た。獲物が罠に嵌る様を見てほくそ笑む、あの女の幻影を。
山県源士は、この際気にせずとも良い。あれは多少身体の動く脳筋だ。
だがあの女、甲斐美晴は、ともすればこちらの意識の埒外にいるのではないかという気になってくる。まるでこちらを見透かしているような。
なんだ? この不快感は――
最大戦速。いやだめだ、モビーディックに対処が遅れる。グリップに添える右手の握力がわずかに緩める。
それでも否応なしにマシンはひた走る。肉薄するマシン。
山県源士の黒いスーツが視界を埋める。さあ、どこを狙うか。頭、腕?
今、ランスが交錯。
「……くそっ!」
手応えは……ない。
***
『ほらね、引っかかった』
「まぐれじゃないのか?」
『マシンの速度は十%低下。刺突の反応速度に至っては三十%も低下している。奴が困惑している証拠だ。お嬢様の作戦に抜かりはない』
きわめて事務的な雅丈の返答がヘッドホン越しに聞こえてくる。分析屋アナライザーである彼が言うのだから、そうなのだろう。
「ともかく、オーダー通りやったぞ。これで良かったのか?」
『ん、ご苦労』
第二セット。甲斐美晴が指示したオーダー。
それは、『何もしない』だった。
いや、勿論槍を打つには打つが、下手な技はかけないということだ。
ただ、普通に走り、普通に打つ。カウンターのような奇策も、いつものように積極的なチャージングもかけない。
良く言えば手本通り、悪く言えば平々凡々な打ち筋で、源士にしてみれば『本当にこれでいいのか?』としばしば首を捻ったものである。
『だーいじょぶ。誰も二セット目獲れなんて言ってないでしょ。布石よ、これは』
これはスタート前にも美晴が言っていたことである。彼女曰く、このセットは引き分けに持ち込んで、次で決めるのが理想の勝ち筋なのだそうだ。
が、源士はいまいち理解できないでいた。
「すまん、それがわからん。長尾が警戒してくれてるんなら、畳みかけたほうが勝率高くないか?」
『がっつり警戒されたら決まる技も決まらないでしょ。それであんたの大技がぽしゃったら、あのナルシーは調子乗って攻勢かけてくるわよ。なんだ、所詮こんなものか……って。そうなったら泥沼の連戦になって、先に息切れするのはこっちね』
「なんで、こっちが先にダメになるんだ」
『マシンよ。うちのマシンは代々短期決戦用なのっ』
なるほど。源士も納得した。
確かに、モーターの出力アップなどあれこれしてはいるが、軽量化を旨とするこのマシンは重量物を極力排除している。総重量三〇〇キログラムを誇るモーターバイクでも、モーターをはじめ各種デバイスに送電するバッテリーユニットは一、二を争う重量物のひとつ。
それ故、源士が駆るこのマシン。バッテリーユニットはモーターの出力に比して随分と軽量低容量のものと交換している。
ということは、当然走行できる距離も限られているわけである。
「まさか、今まで出力を絞って走ってたのは?」
『気づいたか。全速で走らせたら……保って二回半分くらいじゃない』
「あっぶねーな。作戦失敗してたらどうするつもりだったんだ」
「もちろん保険はない訳じゃなかったけど。そういうリスクの取り方も必要ってことよ。そう、本当に勝ちたいのならね」
美晴の言いたいことが、今なら分かる気がする。
出来ること、キャパシティ。
人間しかりマシンしかり、それは有限だ。
ならば、自分たちにできることは、その限られたリソースをいかに勝利と結びつく形に振り分けるか。 これまでの源士と兵吾のやり方では、まだその振り分けが甘かった。
高速性を重視しながら、その実、美晴の言うリスクの選択には、まだ消極的でいたのだ。
彼女の決断には迷いがない。プロである、と源士は思う。
『ま、そこんとこの制限をうまくこなしてくれたおかげで、ここまではマジで順調よ。ラスト決めてきなさい』
「制限は?」
『ないっ、解放!』
「技は?」
『任せるっ……あんたが一番やりたいと思うことをしなさい』
勝つためにリスクを負うと彼女は言った。ならば、今源士がやろうとしていることはリスク以外の何物でもないのでは……と、源士は思った。
「……いいんだな?」
『ばーか、何のために今まで危ない橋わたってきたのよ』
「勝つため、だろ」
『違うわね』
「じゃあ、何」
『気持ちよく勝つためよ』
無線越しに、彼女の姿がありありと想像できた。腰に手をやりふんぞり返っている姿が。
源士は思わず噴き出した。そうだ、辛勝と快勝では気分が違う。
「なら、せいぜい気持ちよく勝ってくるか」
源士は汗ばんだグローブをはめ直して、スロットルをいくらか強めに握りこんだ。
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